1791年の革命下のフランス。王妃マリー・アントワネットは、国民には好かれていなかったようだ。しかし、心を許して手紙を書ける男性が1人いた。
その名は、アクセル・フォン・フェルセン。スウェーデンの伯爵で、王妃の最も身近な友人の一人だった。
逃亡に失敗した王妃は、厳しい監視下にあった。それでも、その年の夏から翌92年の夏まで、計15通もの手紙をひそかにフォン・フェルセンに届けることに成功していた。
フォン・フェルセンは、これを書き写していた(訳注=当時は記録などのために手紙を複写することはよくあったとされる)。それが、今はフランス国立公文書館に保管されている。
しかし、手紙の文章は、謎の人物によって検閲されていた。小さな円が、語句や行の上にびっしりと連なり、読めなくなっていた。国立公文書館が入手した手紙は、そんな状態にあった。
この検閲で消されたのは、何なのか。こんなにも注意深く消したのは、誰なのか。手紙の存在が明らかになったのは1877年。それから1世紀半近くもの間、歴史家には謎が残されることになった。
ところが、その多くが初めて解けた。
米オンライン科学誌Science Advancesで2021年10月に発表された論文によると、15通のうち8通について検閲で編集された内容が判明した。使われたのは、X線蛍光分光法。異なるインクの特徴を科学的に見分けることができ、文書を傷めることもない。
今回の解明から浮かび上がるのは、動乱の時代にあって、マリー・アントワネットが抱いていたこの身近な友人への愛情の深さだ。ただし、両者の間に不倫関係があったことを明らかにするものではなかった。その意味では、ゴシップ好きの期待は裏切られたといえよう。
学界の評価は高い。
「現代技術による重要な発見」で、保存科学への貢献は大きい――パリのソルボンヌ大学の研究員エメリーヌ・プーイェは、こうたたえる(この論文には関わっていない)。
「本当にすばらしい」と英オックスフォード大学教授(仏文学)のキャトリオナ・セスも功績を認める(やはりこの論文には関わっていない)。「科学は、私たちが思ってもみなかったことを教えてくれる」
1793年に処刑されたマリー・アントワネットは、多くの手紙をその生涯に書いている。
晩年の王妃が伯爵と交わした一連の手紙は、政治的な内容が多くを占めていた。でも、それは、彼女が置かれていた極限ともいえるほど重苦しい状況と重なっていた。
「王妃は幽閉され、命の危険を感じていた」とセスは指摘する。「わが身に降りかかろうとする運命を意識しながら、手紙を書いていた」
ただ、検閲がかけられた部分は、そう多くはなかったとセスはいう。だから、塗りつぶされたところから、王妃と伯爵との関係を示す新事実が出てくるとは思えないと見る歴史家も多かった。
王妃の手紙はフォン・フェルセン家の内部にとどまり、1877年になって(訳注=伯爵の姉の孫とされる)男爵R・M・deクリンコウストレームがその存在を明らかにした。
そんな経緯から、歴史家の多くは、この男爵が検閲者だと類推していた。伯爵と王妃が、不倫関係にあったという風評から家名を守ろうとしたのではないかと見られた。
何が検閲で塗りつぶされたのか。謎を探ろうと、フランス国内では2014年に国立公文書館が国立自然史博物館の助教アンヌ・ミシュランに接触した。
特定の隠された文章の解読には、X線断層撮影法(CTスキャン)がよく使われる。パピルスの巻物の内側に、インクで書かれた文字を読み取る場合などで、資料を傷めることはない。
しかし、マリー・アントワネットの手紙には、魔の難問があった。
手紙の原文と検閲には二つの同じようなインクが使われ、スキャンをしても、重なり合った黒い部分は判然としなかった。下に隠された文字をこの方法で突き止められるほどの化学的な特徴の違いが、二つのインクにはなかったからだ。
何とか打開できないか。あらゆる方法を試し、ついに行き着いたのがX線蛍光分光法(XRF)だった。
XRFでは、二つのインクの化学的な成分の違いを区別することができる。この手法で調べたところ、まず、原文も検閲部分も没食子(もっしょくし)インクで書かれていたことが分かった。硫酸鉄などを調合した、よくあるインクだ。
「ところが、金属成分が純粋に硫酸鉄だけということは、実際にはほとんどない」とミシュラン。「銅や亜鉛が混じり、成分のわずかな違いでインクの違いを見分けることができる」
いくつかの手紙では、原文のインクにしか銅成分がなかった。そこを拾い出せば、検閲の上書きを見通すことができた。「もっぱら銅の地図を頼りにすることで、もとの文章を読めた」とミシュランは説明する。
もっと解読が難しい手紙もあった。目印となる違う成分が、見つからなかったからだ。それでも、「銅対鉄」のように、特定の成分の比率の違いに着目し、判読成功にこぎ着けた。
しかし、いくつかの手紙は、成分があまりに似ていて、どうやっても目印が出てこなかった。完全にお手上げだった。
とはいえ、インクの成分分析は、もう一つ大きな成果をあげた。検閲者の正体が分かったのだった。
それは、手紙の存在を明かした男爵ではなかった。フォン・フェルセン自身だった。
インクの分析は、1792年になってから届いた手紙には、書き写して原文を作るときも、これに編集を加えて検閲するときも、同一系のインクが使われていたことを示していた。そんなインクで、書き写しも検閲もできた人物は、伯爵しかいなかった。
ある手紙では、伯爵は原文の1行を編集し、その上にはっきりと読めるように文を書き直していた。もとは「28日の手紙は私を幸せな気持ちにしてくれました」となっていたが、「28日の手紙が私のところに届きました」とより無難な記述に修正されていた。この微調整が伯爵によるものであることは、筆跡鑑定でも確認されている。
今回の判読調査で分かったのは、王妃と伯爵との間にあったセンチメンタルな愛情表現の数々だ。「いとしい」「優しい友」「熱愛する」。さらには、「狂おしく」もあった。
「マリー・アントワネットは、明らかにフォン・フェルセンに深い愛情を抱いていた」とセスは見る。「この大変なときに、王妃のそんな気持ちに応えることができる重要な人物の一人だったのだろう」
ただし、今なら狂おしい感情のほとばしりに見えるこうした表現は、恋愛関係の証拠と見なせるものではないとセスは注意する。
現代風にいえば、キスマークの絵文字に等しいというのだ。「『さようなら』という意味で友人にこのマークを使っても、絵文字文化を知らない人は、熱愛していると思うだろう」
しかも、伯爵は多忙な人物だった。「当時は、まだ別な女性との情事が続いていた」
先の国立自然史博物館のミシュランは、今回の調査をするまでは、フォン・フェルセンとマリー・アントワネットについて、そんな風評があることは知らなかった。今では、王妃の名誉が傷つけられたことに同情する気持ちがかなり強い。それでも、この風評そのものにはあまり興味がわかない。
「フランスでは、王妃も国王も、このくらいの恋愛事情は当たり前だった」とテレビ電話で語るミシュランの口調は乾いていた。「それは、ここではよくあることなのだから」(抄訳)
(Sabrina Imbler)©2021 The New York Times
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