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地中海史の大家に聞く 海が人類にもたらしたものとは

World Now 更新日: 公開日:
恋人や家族づれが憩う夕暮れのイスラエルの海岸。商人、海賊、巡礼、奴隷、兵士……。古代からたくさんの人々が行き交った海だ=青山直篤撮影

人は海とどう付き合ってきたのか。地中海史の研究で世界的に知られる英ケンブリッジ大教授のデビッド・アブラフィア(63)に聞いた。(聞き手・青山直篤)

――人類の歴史にとって、海とは何だったのでしょうか。 

 海は、文化や宗教が違う人びとが交ざり合うことを可能にし、貿易を通してめざましい経済の成長もうながしました。サハラ砂漠やシルクロードも、異なる地域をつないでいました。ただ陸路の場合、文化が似通った地域をだんだん移動していくのに対し、海路では、航海を終えたとたん、まったく異なる文化圏に入ります。海を介した交流は、人や社会にもたらす変化の速さに特色がありました。

政治権力が対立している時も交易は必要だったので、中立や自由を認められた港や商人が栄えました。海の交流を担ったのは、陸の世界では迫害されていた貧しい人びとも多かった。エリート層ではない、生まれ育った土地に執着しない人びとが海を渡った。そうした人びとが、迎え入れる側の社会に大きな刺激を与え、変化をうながしました。

――歴史的にみて、海に境を設けて囲い込もうとするのは最近のことですね。

中世の地中海でも、海に線引きをしようとした君主がまったくいなかったわけではありません。しかし、海の行き来を管理することなど、実際にはほとんど不可能でした。艦隊を持ち、敵国が港を攻撃しないように守る、という程度でした。

デビット・アブラフィア氏=青山直篤撮影

――現代の国家と海との関係をどのように考えますか。

国家が自分勝手に利益を求めるあまり、本来、得られるべき利益まで失ってしまう。そういう古典的な問題が、海を舞台に起きています。例えば地中海の環境破壊です。沿岸都市の住民や観光客が出す廃棄物で汚染が進み、漁獲量も減っていますが、解決に必要な沿岸国の協調は進んでいません。欧州側の沿岸国は、欧州連合の中枢であるドイツなどとの関係を重視して地中海への関心が高くありません。北アフリカ諸国は、欧州側を旧宗主国として敵視します。

パレスチナ問題やキプロス問題のような紛争も、協力に影を落としています。

――海の可能性を生かすため、私たちは何をするべきなのでしょうか。

国連に海に関する特別委員会をつくるとか、航海にかかわる国際的なルールづくりに取り組む国際海事機関(本部ロンドン)の機能を強化する、といったことが考えられます。海の問題の根っこにあるものは、本質的には地球温暖化問題と同じです。5世代、10世代先に対して責任を持てる形で、地球の資源を管理できるかどうかが問われているのです。(文中敬称略)

■人はなぜ海に線を引くのか

江戸の日本橋より唐、オランダまで境なしの水路なり」。18世紀後半、ロシア船の来航に危機感をつのらせた林子平は『海国兵談』でそう書いた。

人をへだてる境のない海が、外国との摩擦を生む場になる――。林の懸念は現代とも無縁ではない。元防衛次官で海洋政策に詳しい東京財団理事長、秋山昌廣(73)は「中国は近年、力を背景に東シナ海や南シナ海を囲い込もうとするかのような動きをみせてきた」と話す。

ただ、18世紀以降、人類は海で共存するための試行錯誤を重ねてきた。海に線を引き、概念上の境を取り決めるのは、そうした努力の成果ともいえる。

林が『海国兵談』を書いた18世紀後半、英国で起きた産業革命とその後の蒸気船の普及は、人間が海を思うがままに移動することを可能にした。

「英国は史上初めて、世界規模で広がる海洋帝国となった」と、防衛研究所の国際紛争史研究室長、石津朋之(50)は話す。英国は貿易で培った財政力を支えに海軍を整え、英商船が安全に行き来できる航路を守ろうとした。

英国は、海に境を設け「面」として支配しようとしたわけではない。重視したのは、海軍基地となる島や、ジブラルタル、スエズ、シンガポールといった海峡や運河など、航路のカギを握る地理上の「点」だった。英国が覇権を握った19世紀までは、国々が独占できる海は圧倒的に狭くとらえられていたのだ。

だが、エネルギー資源の価値があらためて認識されるようになった第2次大戦を境に、海と国家との関係は大きく変わる。1945年9月、米トルーマン大統領が「米国の陸地から続く大陸棚の天然資源は米国のものだ」と宣言。沿岸に漁業資源の保存水域を設けることも主張した。60年代以降は、海底の石油や天然ガスをとりだす技術も進み、海を区切って「面」として支配しようとする傾向に拍車がかかった。

1958年から3次にわたる国際会議をへて82年に採択、94年にようやく発効したのが、「海の憲法」とされる国連海洋法条約だった。条約に定められた排他的経済水域(EEZ)は、資源については沿岸国の強い権限を認める一方、船の自由な行き来を認め、公海としての性格も残す制度となった。英ダラム大国際境界研究部門の教授マーティン・プラット(46)は「独占的に使える沿岸の海をできるだけ広げたいという意向と、航行の自由を確保したいという主張がぶつかるなかで生まれた妥協の産物だった」と話す。

条約には限界もある。EEZ内の軍艦の行動をどこまで制限できるか、といった点についてはっきりした定めはなく、解釈が分かれる条文も多い。海の境界画定についての規定も「衡平な解決を達成するために、国際法に基づいて合意により行う」という、かなり大ざっぱなものだ。

ただ、今年までに160を超える国が一つの条約に合意し、国際司法裁判所の判決など、海の線引きにかかわるルールや制度を整える努力を重ねてきたことの意義は大きい。現代では、どんな大国であれ、ルールを一方的に無視して海の面的支配を進めることは難しくなった。

大国を支える経済力も、世界中の海を自由に航行し、大量の資源や食糧、商品を運ぶことなしには成り立たない。漁業や海底資源の開発を長く続けるには、沿岸国の協力が欠かせない。

「境なしの水路」から最大限の利益を得るためにこそ、海に線を引き、沿海の利用についても一定の自制をかける。国連海洋法条約の採択から30年以上がたってなお、多くの地域で挑み続けなければならない課題だ。(青山直篤、文中敬称略)