【1回目】土偶は〈植物〉の精霊?新著が話題の竹倉史人、いとうせいこう、中島岳志の3氏が議論
【2回目】植物は歩く?知性もある? 土偶が突きつけた科学の貧しさと現代人の鈍感さ
竹倉 現在の閉塞感や人間の孤独みたいなもの、あるいは自我の肥大などは、私たちの生命観がプアになったことと深く関係していると思っています。
人権思想によって、我々の身体や生命は自分の所有物と考えるようになりました。これは、権力から個人の生命や身体の安全を守るため、また自己決定原理のために必要なフレームです。
しかし、これは必ずしも我々の生命の感覚を反映していない。人権思想に基づく生命のイメージは、個人の所有物として一人ひとりの身体の中に閉じ込められたものとされ、世界や他者と連続していない。
でも、人間が生命を所有しているのではなくて、人間が生命に所有されている。肉体の中に生命があるのではなくて生命の中に肉体がある。生命のエネルギーを介して世界はつながっている――そういう感覚が大事だと思うのです。これは、オカルトでもなんでもなくて、設定の問題です。
いとう それは、やっぱり仮面という視点で読み解けると思う。仮面をはずしたときの自分の体は自分のものじゃない、っていう生命感覚……。
竹倉 なるほど!
いとう キャラクターや個体性っていうものは、かろうじて仮面が作っているにすぎない。だから、我々も仮面をはずそうという考え方をするべきなんだよね。
仮面をはずして人とハグしたり、ぶつかり合ったり。あるいは、違う仮面につけ替えていいんだ、と。仮面というものが我々を個別に自由にするし、反対に本来の生命の力に気づかせてくれる。それが、縄文の知恵なのかもしれない。
中島 日本人が仏教を受け入れた根本は、そのあたりだと思うんですよね。仏教は、無我という考え方が非常に重要ですが、一方で存在する私というものを、「色」「受」「想」「行」「識」の結合体としてとらえ、それは日々、縁によって変化し続けていると考える。人間の変容可能性を受け入れたのが大乗仏教の原理だと思うのです。
これは、今、いとうさんがおっしゃった縄文の仮面の論理と近しいところにあるんじゃないかと思います。自分探しのようなものから解放される現代の哲学でもある。
コロナ禍になってマスクをし始めて気づいたのですが、僕たちは普段から周囲の人たちと飛沫で交わり合いながら生きている。植物とも同様です。光合成と呼吸の関係でさっきまで植物の中にあったものが僕たちの体内の一部となっている。人間と植物との境界線ははっきりしているわけではないということですよね。
いとう 話を聞いていて思い出したのだけど、中島君も書評の中に書いていたコッチャの「植物の生の哲学」は、思想界全体が変わってくるのではないかと思えるくらい衝撃的な本だね。
中島 コッチャはアガンベンの弟子なんです。アガンベンは、人間はただ生きている「ゾーエ」ではなくて、社会的な交わりや芸術を実践しながら生きている「ビオス」という生命体であると言ったのですが、それを人間独自のものと考えました。
一方、弟子のコッチャは、人間だけでなく植物も「ビオス」を持っていると考えます。この考え方から、僕たち人間と自然や植物との関係を大きく見直す哲学が生まれてくると思うのです。こうした最先端の哲学は、土偶のような野生の思考と連携していると感じます。
いとう リチャード・パワーズという作家が「オーバーストーリー」という、植物を主体とした世界観のような大著を書いて、一昨年、朝日新聞にその書評を書いたのですが、その中でコッチャの「植物の生の哲学」の一文を引用しました。「動物主義は、進化論を内面に取り込んだ人間中心主義にすぎない」。これは、先ほど中島君が言っていた、人間と植物の連続性の問題と同じです。動物主義はヒエラルキーみたいなものを作ってしまう。しかし、その考え方は違うのではないか、と。
中島 おっしゃるとおりです。吉川浩満さんが「理不尽な進化」という本で、僕たちが生き残ってきた進化はほとんど偶然で、にもかかわらず、生き残った側からそのストーリーを作っているにすぎない、と書いています。生き残った側が作るストーリーは、ナショナリストの歴史観と同じなんです。
こういうものの見方から解放されないと、本当の歴史も見えないし、僕たちのありかたも見えない。そんなことを土偶は僕たちに伝えてくれているはずです。でも、僕たちは、今の僕たちの目線で土偶を読み解こうとするから読めない。たぶん、縄文人の発想は僕たちとはまったく違うはずです。
竹倉 現代に生きる僕たちは、自分が「人間」である、という設定に縛られすぎていると思うんですね。人間という仮面を外してしまえば我々はなんだかよくわからない生命体であるし、植物もよく見るとよくわからない不思議な生命体。
人間という仮面を一旦はずして、我々は人間である以前にこの惑星に生息する奇妙な生命体であるという、そんな感覚を育てることが重要かもしれません。
内側からの生命の躍動とか、ほかの生命体とのつながりを感じるようになれば、生きる感覚はずいぶん変わってくるはずです。土偶は、そのためのヒントになるかもしれない。
いとう それと、仮面もね。
――話題が土偶から植物論、生命観にまで及び、着想の連鎖が尽きません。このような壮大な話の展開は、皆さんが土偶を「専門」としない方たちだから、ということが大きい気がします。
竹倉 こうして話が白熱することからもわかるように、土偶は日本人のみならず、世界中の人にとって人類史的な価値のある遺物なんです。だから、一部の人たちだけで扱うのでなく、もっと開かれた議論が展開されることが望ましい。
この問題は今の学問のあり方や、専門知と社会とのつながりといった問題ともつながってきます。
「土偶を読む」は、今の世の中のあり方みたいなものも浮き彫りにしたように思っています。
いとう 教養というものが認められないのだ、と考える出来事が、先日、ありました。
パレスチナ・ガザ地区で、イスラエルの爆撃の中、死と隣り合わせの状況で描き続ける画家たちの絵が、絨毯に巻くなどして日本に運び込まれ、それらの作品の展覧会が全国を巡回しました。NHKの「日曜美術館」がそれについて特集し、僕がコメントを求められたのです。というのは、一昨年、僕は「国境なき医師団」と一緒にガザ地区の中に入って、実際にそこにいる人々の状況を見てきているからです。
しかし、美術の専門家でも政治の専門家でもない僕がなぜコメントするのだ、という揶揄がありました。それで、このところずっと考えていたことがある。
かつて作家というのは色んな領域について書き、発言したものです。言ってみれば、専門ではない知を担当しているのが作家だった。
でも、ある時から専門ではない人はものを言ってはだめ、想像力でものを言ってはだめ、という風潮になってきた。
こんな世の中は非常によくない。新たな知見が生まれる可能性をことごとくつぶしています。これは、竹倉さんの本が投げかけたもう一つの大きな問題なんだよね。
僕が今日この場にいる意味は、竹倉さんと違う立場から、この問題をトレースすることだと思っています。
中島 僕の師匠の西部邁が「世の中のエコノミストがことごとく間違えるのは、経済を知らないからじゃない、経済しか知らないからだ」とよく言っていて、複合的にいろんなことを考えなければいけない、と教えられました。竹倉さんの本を読んでいて、そのことを思いました。
古代について考えるには考古学だけで迫ることはできません。哲学、思想、人類学、いろいろな英知を集結しながら古代と向きあうことによって、私たちの未来も広がっていくと思うのです。そのような古代との向きあい方が、今、縄文を考える際に重要なことだと思います。岡本太郎もそういう人でした。
いとう 岡本太郎も仮面というものにものすごく惹(ひ)かれた人ですね。「太陽の塔」のあの仮面性のようなものを見ても、縄文人の感覚を完全にわかっていたとしか思えない。
竹倉 「土偶を読む」をこのようなかたちで世に問うことになった背景には、実は、3.11の原発の問題をきっかけに生まれた専門知に対する不信感があります。
市民がいくら原発の危険性を指摘しても、専門家たちはそれを「素人の意見」としてまともに取り合おうとはしなかった。しかし、絶対安全と言われていた原発はあっけないくらい簡単にメルトダウンにいたった。
専門知も専門家も間違いなく必要です。でも、専門知がわれわれの生活を向上させる実践知に還元されず、既得権益として密室の中で独占されている。このような専門知のあり方が色んな分野で残っている。
専門知がいかに実践知のほうに開かれていくか。リベラルアーツ教育のような形で専門知が一般の人に開かれ、ネットワーキングされ、実践知になり、市民に還元されていく。そういう動きが今後加速するといいなという思いがあります。
僕の研究内容や「土偶を読む」について、すでに色んなジャンルの人が意見を表明しています。この本がそういう議論の着火剤になり、専門家だけでなくいろんな人の意見が交わされ、そこからどの土偶論が最も合理的なのか、広く討議されていくことを願っています。
中島 京都学派は、あの狭い京都の町でいつも集まっていたから生まれたと思うのです。一番重要なのはアマチュアニズムである、と桑原武夫が言っています。
専門を越えたところでわいわい言い合う雑談の中から生まれてくるようなものを、彼らは信じていた。
いとう 今日みたいな議論が、今はコロナでなかなかできないけれど、かつては飲み屋なんかでもされていたんだよね。お互いに思いつくことがあって、ウイルスではなく着想が伝染する……。今日はまさにそんな楽しい場でした。