【1回目】土偶は〈植物〉の精霊?新著が話題の竹倉史人、いとうせいこう、中島岳志の3氏が議論
中島 僕、土偶で一番気になるのは祖型なんです。竹倉さんから縄文中期の土偶のおなかに発芽の表象が見られるという話がありましたが、前期の土偶には女性の乳房やおなかが強調されているように見られるものが多いんです。
梅原猛さんのように妊婦像ととらえる人が多かった。僕もそれははずれてない気がしているんです。
縄文の人にとって妊婦と植物の実は「実るもの」として同じカテゴリーに見えていたと思うんですよ。妊娠すると乳房が張って、おなかが大きくなっていくのは、木の実が「実る」のと似ている。
だから土偶がかたどるものはもともと人体だったのが植物栽培が進むにつれ植物になっていくのは、どちらも同じカテゴリーのものだから不思議ではなかったんじゃないかと思うんです。
いとう なるほど。
竹倉 私もそう思います。女性の乳房って、果実のアナロジーで語られますよね。人間って植物的存在でもあって、人間も「実る」んですよね。
中島 そうです、そうです。
竹倉 人間の発生の問題になってくると思うんです。どうして赤ちゃんが生まれてくるのか、と考えるとき、動物の場合は子宮の中のミクロの世界で起きていることなので、わからないわけです。
それに対して、植物の発生はきわめてわかりやすい。種があって、それが適切なセッティングの中に置かれると、発根、発芽し、伸長してやがて一生を終える。
植物は発生のプロセスが可視化されている。だから縄文の人たちは、人間がどう発生するのかを考えたとき、植物を観察することで自分たちも同じなんじゃないかと考えたと思うんです。その証拠に人間の起源は植物だとする神話が世界中にあります。
人類学者のマリノフスキーが調査したトロブリアンド諸島の人たちは、性行為が妊娠につながると考えていない。性行為を妊娠の原因と考えることを、我々は当たり前のように思っているけれど、その因果関係を発見するのはじつは簡単じゃない。
だから縄文時代も、人間の妊娠は植物と同じように、精霊が女性の中に入っていって、そこで新生児が実っていくと考えられていたんじゃないか。そう思わせる造形を持つ土偶がいくつも存在しています。中島先生がおっしゃったようなアナロジーとして、植物の成長と人間の発生はかなりリンクしていたのではないかと思います。
中島 縄文時代には、僕たちがイメージしている植物と動物っていう二分法がなかったと思うんです。竹倉さんがこの本で書いてらっしゃいますが、ハマグリは貝なのに植物と同じように土偶にかたどられているのは、浜にある栗、と見られていたからだ、と。落ちていて、硬い殻に包まれていて、剝(む)くと中からおいしいものが出てくる、っていう同じカテゴリーのものなんです。そんなふうに人間や動物と植物は連続した存在だったんじゃないか。
こういう想像力を今も持っている人たちは作家や芸術家です。星野智幸さんの「植物忌」という作品は、人間が植物になったり植物とまじわったり、まさにそういうあり方を表現している。
レヴィ・ストロースも、現代社会において野生の思考は芸術家の中のみに残っているという言い方をしています。
縄文の人たちのそういう感覚は現代の僕たちの中にもまだ潜在的にある。そこにある種の可能性みたいなものを僕は感じるんですよね。
コロナ禍は自然破壊の問題がかかわっています。森を切り開いた結果、コウモリのような野生動物から人間にウイルスの移動が起きている。
自然や環境の問題を本気で見つめ直さないといけない今、こういう想像力こそ僕たちが取り戻しておかないといけない思考方法だと思うんです。
いとう もう亡くなられたけれど、僕が緊密にお付き合いをして影響を受けた園芸家の柳生真吾さんが、「植物も歩きますよ」って言っていたんです。
例えば温暖化で低地から温かくなるにつれ高山植物は上に移動していきますが、植物が何年もかけて歩いているようにしか見えない、と。それは正しいと思うんですよね。蔓性植物の蔓はまるで意思を持っているかのように特定のものに巻きつくし、あれは動物だと僕も思っています。
僕らはある種、貧相な科学に侵されているから、植物が歩いてるように見えない。現実を見ていないんだよね。もし、そうやって植物が上に逃げているように見えたら、あ、かわいそう、という気持ちになる。祭祀が必要になってくる。現代においては、祭祀ではなく、デモのように何かを社会に訴える形かもしれない。そういう、想像力というか、観察力を、我々は取り戻さなくてはならない。
中島 僕たちの時間がせわしないだけで、かつては植物がそんなふうに見えていたはずなんです。芭蕉の句に「よく見れば薺花咲く垣根かな」という句があります。ナズナの中に宇宙のようなものが現れているのを僕たちは見逃している、ということを芭蕉は詠んでいる。
人間はそうやって、よく見ることができなくなったことによって植物から離れてしまったのではないでしょうか。
竹倉 古代ギリシャから、そもそも植物には意識があるのか、といった問題はずっと議論されているんですよね。ライプニッツも植物には知性のようなものがあると言っている。数百年前までは科学者や哲学者が植物の知性について盛んに論じていたわけです。
でも今は、植物に知性があるなんて言ったら頭がおかしいかのように思われる。いつからそんなふうになったんだろうと考えると、進化論や脳神経科学がプレゼンスを高めていった19世紀あたりからではないかと思うんです。
ダーウィン自身は植物の驚くべきすばらしさを認めているのに、進化論が一人歩きして植物は動けもしない進化の失敗例のように受けとめられている。
さらに脳神経科学が発達すると、植物には神経系がないから劣った生物である、というふうに。
でも、ここ数十年の間で動物より植物が劣ったものというイメージが刷新され、その流れはますます加速しています。
植物は、じつは細胞膜の電位などを利用して自分が食べられないような物質を出したり周りの植物に危険を知らせているということがわかってきた。植物はモジュール的な構造だから脳がなくても思考できる……。
いとう 植物に脳がないってことは、つまり植物に顔がないってことだね。これ、仮面とつながっていくんじゃない?
竹倉 なるほど!
いとう もし、植物にも顔があるとしたら、一瞬、花が咲くことで、顔のように感じられるよね。でも、一瞬あるいは期間限定の仮のもので、やがて去っていく。でも、その花のあとに、必ず実ができる。・・・・・・縄文人が、植物を無顔生物みたいにとらえていたとしたら、植物に当然のごとく仮面をつけたかもしれない。
でも、精霊が仮面をとった姿は考えなかったのかな。仮面をつけているときは何か無名性の精霊なのだけど、仮面の向こうにあるものをあえてそのままにしておいたのは、縄文の知恵のような気がしないではない。
中島 精霊を形而上学的にとらえていないのではないでしょうか。その辺にいる友達という感覚……。
いとう なるほどねえ。
中島 僕たちも人間のある種の神秘性にはっとするときがあります。まさに女性の妊娠はそうですし、傷が治ることなどもそうです。人間も精霊のたまもの、というふうに考えていたのではないでしょうか。
竹倉 我々は妊娠のメカニズムを理解していると自己認識していますが、受胎がどういう条件で起きるかとか、完全にわかっているわけではないですよね。
いとう そうなんだよ。不妊治療を経験したからそう思う。本当にわかってないよ、なにひとつね。
竹倉 今も我々は神社に行って、赤ちゃんができますようにとお祈りしたりする。生物学における受胎のメカニズムと子どもを授かるという感覚は、実はレイヤーの違うものです。そこがすごく重要だと思います。
中島 おっしゃるとおりです。先ほど話が出た植物同士のコミュニケーションのようなものは、やっと最近わかってきたわけですが、古代の人たちはなんらかの形で木が交流をしていることをすでに知っていた。
レヴィ・ストロースも野生の思考は最先端の科学と合致していると言っています。飼いならされた人間がそれをわかっていないだけで。そういうことがいっぱいあるんじゃないかと思うんです。
縄文の人たちは僕たちと違って謙虚に丁寧にものごとを見ていて、僕たちとは別の思考様式で科学を実践していたのだと思います。
竹倉 神様にお祈りしたりするのは、きわめて合理的な方法と言えるんですよね。
いとう 人間も土偶も精霊も連続した存在だったのではないか、という先ほどの中島君の指摘はすごく重要だと思うんです。
僕らは土偶を見るときに、人間に模したんじゃないかとか、精霊に模したんじゃないかとか考えてしまうけど、模す、模さない、じゃなくて、一体のものだったという可能性を考えていくわけですよね。
そうすると、我々が仮面をつけて何かに憑依されたことと、土偶に仮面をつけさせて何かが憑依したであろうと感じる感覚が、まったく同じだった可能性がある、ということになる。
竹倉 我々人間が生きているっていうことと植物が生きているっていうことは同じ原理だ、という感覚ですよね。僕が土偶から読み解きたいのは、今回の本は植物のモチーフについて書きましたが、そこからもし展開があるとすれば、縄文人の生命に対する感覚なんです。
中島 そうそう。
いとう そこ、そこ。
(最終回は7月22日夜に配信予定です)