――今回の件について率直にどう感じましたか。
一個人の感想ですが、伊是名さんはつらかったろうなというのが第一ですね。
子どもと一緒にとても楽しみにしていた旅行だったでしょう。何も好き好んで駅員と言い合いをしたくは当然なかったでしょうし、目的地に行けたとはいえ、時間も狂ってしまったし、道中、すごく気持ちはよくなかったろうなと思います。
つらかったろうな、よく頑張ったねと心の底から思いますね。
「わきえまる障害者になりたくない」JR東の対応に声上げた、車いすの伊是名夏子さん
――ソーシャルメディアでは激しい反発も出ました。伊是名さんに対し、「感謝の言葉が足りない」「なぜ事前連絡をしなかったのか」などと投げかける意見です。
色んな反応をする人がいるのはよくわかります。ただ、今回の件を個人の問題に矮小化しては絶対にいけないと思うんです。社会全体の仕組みの問題なんです。
自由に旅行ができない人たちがいて、それを社会としてどうするのかということを、私たちは突きつけられているんです。
「『ありがとう』と言うべきだ」という意見は、そういう意見もあるだろうし、僕もそれが望ましいと思うけど、それは枝葉にすぎなくて、本来考えるべきは今この日本において、障害があると自由に好きなところに行けないんだという問題が明らかになったとことです。これをどうするかということを考える必要があると思います。
――伊是名さんご本人が書いたブログも読まれましたか。
読みました。私はとても納得感がありました。よく言ってくれたなと思いました。
表現として、JRを非難するようなテンションになっている部分はあるんですけど、やはり差別された側の心理って、どうしてもそういうふうになるので、自分自身もよく分かるし、あとは若干刺激的に書かないと、みんなが取り上げてくれないんですよね。
たぶん伊是名さん自身もある程度の覚悟を持って世に問うたブログだと思いますので、僕自身はそれが問題だとは思わないです。
――伊是名さんは声を上げないと気づいてもらえないことや、障害を持った「先人」たちがときに座り込みまでして訴えてきたからこそ、社会が変わったことを知っていると話しています。
そういう激しい活動とともに、人間同士だから話し合ってわかり合っていきましょうみたいな柔軟さの両輪が必要だと思いますね。
それでも時には苛烈な表現を使って自分の大変な状況を訴えることは大切だろうと思います。なぜならそうしないとみんなが振り向いてくれないからです。
こういうケースは、日本全体で見れば、数千件とか数万件とかという単位で、これまでにも日常的に起こってきたものだと思うんです。なのにみんな全然見向きもしないわけです。
たまたま今回、伊是名さんが表現力がとても豊かだったし、ある程度刺激的な文章を書いたということでみんなの目にとまったわけですが、その意味では伊是名さんのおっしゃることがよくわかるなと。その通りだったんだなと思いますね。
――事前連絡の是非についてはどう思いますか。
私も伊是名さんの意見に賛成しますね。なぜなら仮に健常者も電車に乗るために事前連絡が必要なのであれば、障害者もやらないといけないと思いますが、健常者がしなくていいのに、障害者だけやらないといけないというのは、やはり考え方としておかしいと思うんです。
ただし、事前連絡をしないことによって調整が手間取ることもあります。駅に行ってから調整を始めなければいけないということは現にあって、時間がかかるとすれば、それは障害者側がある程度甘受しなければならない部分もあると思います。
逆に事前連絡がないと乗せないというシステムをつくるのはよくないですよね。一般論として事前連絡があったらいいなと思いますが、僕でも実は、どこにどういう電話をすればいいのかよくわからないのです。
小田原駅なのか、はたして小田原駅の番号が公開されているのか…。実際、誰にどう聞けばいいのかというところがあるんですよね。
そして、もし事前連絡がないと乗せないよということになったらば、これはもう差別解消法のガイドラインにある「障害者のみに特別な条件を付することはだめだ」という決まりに抵触しますよね。
――JR東側は、伊是名さんに対して当初「ご案内できません」と述べました。これについて、私がJR東に確認したところ、「拒否ではない」ということでした。でもこのケースで「ご案内できない」というのは事実上の拒否ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
まさにおっしゃるとおりで、日本も批准している国際法である障害者権利条約では「合理的な配慮の提供を拒否することは明らかに差別だ」ということになっているわけです。
「配慮はしないけど行っていいよ」と言われても、行けるわけないので、結局それは差別と実質上、同じであるということですね。これは国際的には共通理解されているところです。
したがって今回のJR東側の言い分は、詭弁を弄しているとしか私は思えないです。
それに、障害者差別解消法のおかげで乗車を拒否するということが法律違反だということは比較的明瞭なんですね。
それを言った瞬間、違法になるということですから、JR東としてはその「土俵」には絶対に乗らないぞ、ということでしょうね。
――一障害者差別解消法の「合理的な配慮」についてうかがいます。今回のケースは合理的な配慮に該当するのか、そうではなかったのか、どう思いますか。
合理的な配慮というのは、障害者が健常者と平等に社会に参加するために必要な手助けとか設備の改良とか、そういったことなわけです。
では、どういうものがそれに該当するのかというと、国交省のガイドラインに書いてるのですが、まず「本来的な業務に付随するものである」となっているんですね。
そして「健常者と同等の機会を与えられるもの」「本質的な変更を伴わないもの」だと。この三つを合理的な配慮の説明として挙げています。
この観点からすると、ホームの乗り降りは本来的業務に付随することですし、みんなが使える駅を伊是名さんにも使わせるということは同等の機会を与える行為でもあります。
そして本質的な変更を与えるものでもないですよね。例えば伊是名さんがJR東に対し、食事の介助を求めたわけではありません。業務に完全にマッチするものを要求してますので、これは正しい合理的な配慮の要求だったんですね。
――一方で、障害者差別解消法では合理的な配慮の例外として「過重な負担」がある場合を規定していますね。JR東側は当初、「車いすを運ぶ人員が手配できない」との立場でしたが、これは過重な負担だったのでしょうか。
例えば、今直ちに駅員を手配してくれというのは過重かもしれませんが、そうではなくて、乗りたいのでJRの都合に合わせて手配してくれというのは過重ではないでしょう。
そしてJR東は現に手配できているわけです。障害者差別解消法の中で大切なのは「建設的対話」と言われているんですね。
今回のケースだと特に小田原駅が問題だったと私は思います。小田原駅ではどうやら伊是名さんの申し出を受けた後、「どうすれば(伊是名さんの希望を)実現できるのだろうか」という視点で考えていなかったのではないかと思うんです。
伊是名さんが最初に乗車したい旨、駅員に伝えたとき、その段階で調整も始めていなかった気もしますし。
障害者差別解消法には、国交省が作った鉄道事業者向けの対応指針というのがありまして、それによると、障害者から配慮の申し出を受けた場合には「その希望を尊重しながら検討し、調整しなければならない」ということになっているわけです。
指針でこう示されているんだけども、おそらく小田原駅ではそういう検討や調整を省いているだろうなと私は感じています。
もし小田原駅で検討や調整をして、どうしても駅員を呼ぶことができないのであれば、そして例えば伊是名さんに対し、「本当に申し訳ないんだけども、なんとか別の手段で考えてもらえないか」と真摯に答えていたら、伊是名さんとしても受け入れると思うんですよね。
あるいは「これから駅員を集めるので、1時間後になってしまうけどいいですか」とか。そしてもしも時間が重要なのであれば「熱海の方でこういうタクシー会社があるので、これで行っていただく手段もありますけど、どちらになさいますか」とか。そんな話だったら伊是名さんも納得したんじゃないですかね。
でもそういう姿勢ではなくて、「ああ、ダメですね」と。何の検討もないような対応だったからこそ、あのような怒りのブログになったんだろうと思うんですよね。
ですから、こういった検討・調整というプロセスを怠ったJR東は、私には法律の求める合理的配慮の努力義務を怠っているように見えますね。
――伊是名さんは駅員とのやり取りの中で、バリアフリー法についても触れました。この法律から見た場合、今回のJR東の対応はどうだったのでしょうか。
頭を整理してもらいたいのですが、バリアフリー法というのはインフラ作りみたいなものなんですよね。その駅を障害者が使っていてもいなくても、必ず、一定規模以上の駅はバリアフリーにしなければいけませんという、まあ、大前提みたいな話をしてるんです。
そしてその法律を使って整備をしても、どうしても残ってしまうバリアーがあるので、残ってしまったバリアーについては合理的配慮で対応しましょうというのが法律の仕組みなんです。
障害者差別解消法でいうと、「事前的改善措置」というのがバリアフリーに相当します。第5条でしなければいけませんと規定されています。
それでも残ってしまったバリアーは個別に障害者から申し出を受けて、事業者が合理的な配慮で対応しましょう、と。そういう仕組みになっているんです。、
なので今回のケースでは、バリアフリー法があるよねっていうのは理念としてはいいんだけども、法的な意味合いを持つものではないと私は思いますね。
――鉄道の監督官庁である国交省の役割にどんなことを期待しますか。
これは私が常々申し上げているのですが、鉄道各社に対し、国交省は改めて調整や検討、対話というプロセスも合理的配慮の一つなんですよと、伝えたほうがいいですよね。ただ車いすを持ち上げるだけが合理的配慮ではないのです。
――障害を持っている方が助けられる存在で、助けられたらありがたがるように思うことを求める風潮がある気がするのですが、いかがでしょうか。
まさにそうなんでしょうね。哀れみを受ける存在にも関わらず、そいつがわがままを言っているという考えが社会に根強いのかなと思いますね。
結局は世の中の人に想像力が足りないような気がします。これは伊是名さん個人の問題ではなくて、社会全体で取り組むべき問題だということがまず想像できていないですよね。
いざ自分が障害者になったらどうなのかとか、自分の大切な家族が障害を持ったらどうなのかとか、そういうことを想像したら「感謝がない」とか、こんな発言はできないはずなんですよね。
――どうしてそう思ってしまうのでしょうか。
たぶん多くの健常者が自分が社会から大切にされている実感とか、自分がとても恵まれているという実感がないからじゃないんですかね。
例えば、数百円払えば公共交通機関を使って好きなところに移動ができると。これって実はものすごく恵まれていることなんだけども、それをあたかも当然と受け止めていますよね。
自分はすごく恵まれていて、社会からとても大切にされている存在なのだと気づかないというか。
これをしっかりわかっておかないと、健常者のみなさんが当然のように持っている「特権」を障害者たちが求めたときに、「わがままだ」ということになってしまう気がします。
――伊是名さんは今回の件について、人権の問題だとおっしゃっています。これについてはいかがでしょうか。
正しいですよね。移動の自由というのは憲法上も保障されていると解釈されています。健常者はまったく「壁」がないので、自分が移動の自由を享受できているなんて意識する機会がないんですよね。
だけど障害者は移動の自由があるにもかかわらず、それが実現されていない。
人権というのは、侵害されていたら侵害状態を解消しなければいけないものです。それはわがままではなくて、個人が個人としてちゃんと生きるために必要だからやるべきことなんです。国ないし社会の側で。
だから伊是名さんのおっしゃってることはそのとおりで、移動の自由を障害者にも与えてほしいというのは法的な主張であってわがままではありません。
――大胡田さんも同じような嫌な思いをしたことはたくさんありますか。
合理的な配慮をしてもらえないという経験よりはむしろ、差別とかはよくありますよね。
大学の受験を認めてくれないとか、盲導犬を連れていると飲食店に入れてもらえないとか…。それが僕の日常になっているので、若干麻痺しているっていうところがありますよね。
できなくてデフォルト、やってもらったら超ラッキーみたいな認識を僕自身が持ってしまっています。だから車いすではありませんが、伊是名さんの気持ちよくわかります。
――この出来事から我々が得るべき教訓は何だと思いますか。
最初にも言いましたが、やはりこの問題というのは個人のわがままとかそういうものに矮小化すべきではないし、もう少し、健常者も障害者も両方にとってですけども、お互いを想像する、お互いの思いを想像できるようにならないと、生きやすい日本にはならないよということだと思います。