これについては、決して語るまい。ニール・シーハンは、そう決めていた。
世紀の大特ダネとなった1971年の米国防機密文書「ペンタゴン・ペーパーズ」の暴露。その元になった文書を、実際にどう手に入れたのかという真相にまつわる話だ。
この記事をめぐっては、差し止めを求める当時のニクソン政権と報じる側とが鋭く対立し、判断は最高裁に持ち込まれた。その判決は、今でも政府とメディアとの難しい関係を定める重要な一里塚とされている。
シーハンは米紙ニューヨーク・タイムズ(以下、本紙)の記者をしていて、7千ページに及ぶベトナム戦争に関する政府の機密文書を入手した。以来、2021年1月7日に84歳で亡くなるまで、この文書を確保した詳しいいきさつについては、何度尋ねられても明かすことはなかった。
ただし、一度だけ例外があった。筆者(Janny Scott)の求めを受け入れ、生前には公開しないという条件付きで2015年に口を開いた。
脊柱(せきちゅう)側わん症とパーキンソン病を患っていたシーハンは、首都ワシントンの自宅で4時間にわたってインタビューに応じた。その内容は、ハリウッドの誰もが描きたくなるようなサスペンスと劇的なシーンに満ちていた。
ペンタゴン・ペーパーズ(訳注=ペンタゴンは米国防総省の通称)は、1967年に国防長官の委託を受けて作成された。ベトナム戦争についての政策決定の歴史を綴ったこの極秘報告書には、歴代の米政権が成功の確信を持てないまま戦争への関与を強め、深みにはまっていく過程が描かれていた。報道されて初めて、その泥沼化の全容が明るみに出た。
機密文書のスッパ抜きに至ったシーハンの話は、まるでドラマだった。
文書の確保は、マサチューセッツ州ボストンとその近辺が舞台となった。モーテルの宿泊名簿には、偽名を殴り書きした。コピー店の機械は、こっそり持ち出した大量の文書の夜を徹した処理に耐え切れず、故障してしまった。
コピーは、バスターミナルのロッカーに隠した。ボストンからの帰りのフライトでは、コピーの束を入れたスーツケースを荷物として預けず、隣の席に乗せて安全ベルトをかけた。文書の持ち主が記入していたイニシャルの部分は、外交官のバーベキューセットを使って焼き捨てた。
もう1点、重要な事実にも言及した。情報源であるこの文書の持ち主ダニエル・エルズバーグ(彼であることは特ダネが出た後で、他紙から漏れた)の意向を無視してコピーしたことだ。
エルズバーグは国防総省の元分析官で、米シンクタンクのランド研究所にいたときにペンタゴン・ペーパーズの執筆陣の一人となった。そして、69年にこの文書全文を不正にコピーした。ベトナム戦争に反対する考えが強まり、これが表に出れば、戦争が早く終わるのではないかと思うようになったからだ。
これまでは、エルズバーグが文書を本紙に「渡した」と広く受け止められていた。しかし、そうではなかったことを、シーハンはあえて強調した。
目を通すのはよい。でも、コピーはダメだ。エルズバーグは、こう釘を刺していたのだった。
文書は、ボストンに隣接するケンブリッジにあったエルズバーグのアパートに隠されていた。シーハンはそれを秘かに持ち出し、エルズバーグがかつてしたのと同じように不正にコピーし、本紙に持ち込んだ。
それから2カ月間、シーハンはエルズバーグをはぐらかし続けた。上司の編集担当者たちが、どういう形で記事にすれば最善なのかを検討している。他の取材が入ってしまった……。
実際には、この文書とともにニューヨークのマンハッタンにあるホテルに缶詰めになっていた。編集者や取材・執筆の陣容はどんどん膨らみ、紙面化に向けた作業が精力的に進められていた。
71年6月13日。ペンタゴン・ペーパーズをめぐる連載記事の初回が、紙面に掲載された。エルズバーグにとっては、不意を突かれた形となった。
しかも、新聞に出るのが間近に迫っていることを教えてくれたのは、シーハンではなかった。やはり本紙にいたアンソニー・オースティンから連絡が入った。数カ月前に、エルズバーグは、この文書の抜粋を秘かに渡していた。オースティンは、社内の誰にも打ち明けていなかった。ベトナム戦争について書いていた自著のために、この情報を取っておこうとしていた。
自分の特ダネが、自社に出し抜かれると知ったオースティンから、あわてふためいた電話が入った。エルズバーグは、すぐにシーハンをつかまえようとした。が、本人は、連載の次回分の締め切りに追われていた。
シーハンは、エルズバーグからの伝言をあえて無視した。もう、新聞が印刷されて間に合わないという時点まで待つことにした。編集者の一人に、1万部が刷り上がったところで教えてほしいと頼んだのだった。
「あなただって、私と同じようにするしかなかっただろう」。シーハンは、15年のインタビューで自分の行為をこう正当化した。
シーハンによると、エルズバーグの心は引き裂かれんばかりに揺れ動いていた。文書は公表したい。でも、刑務所には行きたくない。
だから、保身のためには、思いがけない行動も辞さないように見えた。最も恐れたのは、口を滑らせて誰かにこの情報を伝えてしまうことだった。
「ただ、ただ幸運だったのは、彼がこの呪われたネタをぶちまけるような行動に出なかったことだ」
シーハンは、自らベトナム戦争の取材を経験している。その後、(訳注=ベトナム戦争を題材にしたノンフィクションの出版で89年には個人としても)ジャーナリストにとって最高の栄誉であるピュリツァー賞を贈られている。(訳注=なお、ペンタゴン・ペーパーズの特報で、ニューヨーク・タイムズは翌72年にピュリツァーを受賞している)
ここに、15年のインタビューの要点を三つにまとめた。
■刑務所を恐れて
エルズバーグは、以前にもシーハンに情報を提供したことがあった。71年3月、電話があり、一晩語り合いたいことがあると自宅に誘われた。
長い一夜になった。最後に取引が成立した。シーハンによると、文書を渡す代わりに、本紙が記事にすることを決めたときは、情報源の秘匿に最善を尽くすというものだった。
シーハンは、文書を受け取るために、ケンブリッジのアパートに出向いた。ところが、エルズバーグは心変わりしていた。読むのはよいが、コピーはダメだと告げられた。
「ひとたび私の手元を離れれば、ニューヨーク・タイムズは自分のものとして、好き勝手にするだろう」という理由だった。
そのときのことを、エルズバーグは02年に出した回想録(英題:Secrets: A Memoir of Vietnam and the Pentagon Papers)でこう述べている。
「自分が望んでいたように、ニューヨーク・タイムズが全文を掲載するという確信を持てなかった。さらに、紙面化を確約する前に文書を渡せば、社内の誰かが連邦捜査局(FBI)に通報するかもしれないし、『FBIがなんらかの方法で嗅ぎつけて、自分が他にも持っていた文書のコピーを押収しにくるかもしれない』と思った」
一方のシーハンにとって、エルズバーグのためらいは、「刑務所行き」を恐れているように見受けられた。
「本紙が入手すれば、当然、記事にする作業に入る」とシーハンは語る。「紙面に出れば、エルズバーグは逮捕されるかもしれない。しかも、彼にはかばってくれる政治家もいなかった」
彼は、「葛藤の塊」のように見えたという。
それに、エルズバーグが抱えていた大きなリスクは一つだけではなかった。文書を何部もコピーし、代金を本人名の小切手で払っていた。公聴会を開いてもらおうと米議員にも接触を図っていた。
「この男を新聞社として守り通すことはできない」とシーハンは思った。秘匿すべき情報源ではあったが、あちこちに自分の痕跡を残していた。「屋根にも、壁にも、どこにでも」
「遅かれ早かれ、司法省に直行するような政治家と彼が出くわすのが心配だった」とシーハンは振り返る。そんな議員は、受話器を取り上げて司法長官にこう警告するだろう。「おい、ニューヨーク・タイムズが、どでかい機密を手に入れたぞ。ネタ元は、ダニエル・エルズバーグだ」
だから、迅速に動く必要があることをシーハンは悟っていた。当局に漏れれば、紙面掲載を阻止しようとすぐ裁判所に訴えるだろう。
そうなれば、本紙の弁護士は、機密をめぐる司法省との論争に明け暮れることになる。機密なので中身には立ち入ることができず、報じる前に記事が差し止めになったら、文書の重要性を裁判官も、国民も知ることができないまま裁判が進められることになりかねない。
コピーするなといわれたときは、「怒りが心の底からこみ上げてきた」とシーハンは語る。
エルズバーグと同様に、自分もこの戦争に反対するようになり、やめさせるためにできることをしようとしてきた。だから、「読んでメモを取るのはよい。でも、コピーはダメだ」という言葉に、「本当に腹が立った」。同時に、「彼をコントロールできていないという事実にも腹が立った」。
「この文書が、再び政府の保管庫に戻され、お蔵入りするようなことがあってはならない」とシーハンは心に決めた。
首都ワシントンに戻ると、妻のスーザン・シーハンにはその思いを打ち明けた。ニューヨーカー誌の記者をしており、こう話してくれたのを覚えている。
「もし、私があなたなら、事態を自分で制するようにする」
エルズバーグとはうまく調子を合わせ、本人を守るべく最善を尽くす。でも、文書は本紙のために手に入れる。
「コピーしよう」と妻はいった。
シーハンは、ケンブリッジに戻った。続きを読み、メモを取った。
エルズバーグが短い休暇を取ることを明らかにしたので、ここで作業を続けさせてほしいと頼んだ。すると、アパートの鍵を渡してくれた。「コピーはダメだ」と改めて念を押された。
シーハンは、これには答えなかった。
「エルズバーグとの付き合いは長かった。普段なら通用する規則を私も守るもの、と彼は信じていたようだ」とシーハンは語る。「資料の扱いはネタ元が決める」ということだ。
「ところが、そのときこちらはもう決心していた。それに彼は気づいていなかった」とシーハンは肩をすくめる。「この男はダメだ。この文書を委ねておくことはできない。文書はあまりに重要で、危険が大き過ぎる」と確信していた。
■コピー店での長い夜
エルズバーグがすぐには戻ってこないことがはっきりすると、シーハンはワシントンの自宅にいた妻に電話した。「すぐに来て。助けがいるんだ」
スーツケースと大きな封筒、それに家にあるだけの現金をすべて持ってくるように指示した。
妻は飛行機でボストンに来ると、偽名でホテルにチェックインした。シーハンも、別の偽名でモーテルに入った。
何千枚ものコピーを処理できるところを、本紙のボストン支局長に教えてもらった。今は説明できないが、極秘企画の取材で必要になったので、経費として数百ドルを貸してほしいと頼んだ。
支局長は、本社の編集局に電話した。その夜の当番編集者に尋ねると、そんな必要はないとの返事だった。そこで、担当部長の自宅にかけ直した。
「貸してやってくれ」。その部長は、理由も聞かずに認めてくれた。
アパートの鍵も、万が一なくしたときに備えて複製した。
7千ページのコピーが始まった。最初は、知り合いがいる不動産屋の事務所だった。それから、妻とともに郊外のコピー店に持ち込んだ。その店とアパートの間を、小分けにした文書を抱えてタクシーで何度も往復した。コピーしたものは、ボストンのバスターミナルにあるロッカーに運んだ。さらに、ローガン国際空港のロッカーも使った。
ところが、大量の負荷に耐えられず、コピー機が故障してしまった。夫妻は、市内の別のコピー店に行った。
そこは、海軍の退役軍人が経営していた。文書が機密扱いであることに気づくと、見るからにピリピリし始めた。このため、妻はアパートにいた夫にすぐに戻ってくるよう連絡した。
大急ぎで戻ると、シーハンは必死に弁明した。
これは、(訳注=ケンブリッジにある)ハーバード大学の教授から借りた資料なんだ。研究に使っていたものを、期間を限って貸してもらっている。まとめて機密解除になったばかりなことは間違いない……。
軍事機密のなんたるかを知る海軍の元軍人は、ようやく納得したようだった。
そして、帰路。空港で夫妻は、席を一つ余計に確保した。スーツケースを預けるよりは、常に手元に置くことを選んだ。席に乗せ、安全ベルトをかけた。
ワシントンに戻ると、文書のサンプルとシーハンのメモを携えて、上司がニューヨークに飛んだ。シーハンが取材を続けられるよう、本社の許可を得るためだった。
シーハンは、編集者の一人とともにワシントンのジェファーソン・ホテルの一室にこもった。文書を読み込み、要点を押さえるのに数週間かかった。それから本社に呼ばれ、編集幹部たちに内容を説明した。
西43丁目にあった当時の本社で、顧問弁護士は震えていた。
「氷が入った水を頭からバケツでぶちまけられたようだった」とシーハンは例える。自分の説明に、「なんてことを話してくれるんだ」と顔を引きつらせた。
繰り返したのは、「この場でこんなことを話してはいけない」だった。「秘密を守れず、漏らす人物がいるかもしれない。それに、われわれはもう重大な犯罪行為に手を染めてしまったのかもしれないんだ」
シーハンと編集者には、マンハッタンのミッドタウンにあるヒルトン・ホテルの一室が仕事部屋としてあてがわれた。すぐに、編集者1人と記者3人が加わり、警備員が配置された。資料の保管用にダイヤル錠付きのキャビネットがいくつか運び込まれた。
最終的には隣り合った三つの部屋に数十人がこもり、24時間体制で記事にする準備を進めた。全体像を緻密(ちみつ)に描き出し、記事にし始めた。
シーハンは、数日ごとにエルズバーグに電話をすることにしていた。こちらにつなぎ留めておくためだった。
他紙が、この機密文書について速報してしまうことは、(訳注=本紙の方が掘り下げて報じる自信があったので)こわくはなかった。恐れていたのは、エルズバーグが誰かに漏らし、こちらが紙面に出す前にその人物が告発に動くような事態だった。
そうならないよう、エルズバーグにはいくつものいい訳をした。外からは、何の進展もないように見えるだろうから、「編集幹部の間でどう進めるべきか論議をしている」と伝えたこともあった。
ケンブリッジにも行った。もっとメモを取ることがあるような振りをするためだった。
そこで、エルズバーグから不満をぶちまけられた。「リスクは全部、私が取っている。あんたたちは、何のリスクも取っていないじゃないか」
■シグナル発信とゴーサイン
紙面に出る数週間前から、シーハンはエルズバーグにそれとなくシグナルを送って注意を促すことにした。こちらの進み具合を説明するつもりはなかった。彼が本当の状況をうっかり当局側にほのめかしてしまうことを懸念したからだ。
でも、「暗黙の了解」でよいから、事前に取り付けておきたかった。「良心の問題」といってもよい。
そこで、エルズバーグにこう持ちかけた。ここまで来たのだから、自分のメモだけでは足らない。文書全文をほしい。
もともと、自分の思うような形で紙面に載せてくれるなら、その用意があるといっていた。そして、今回は同意してくれた。
本紙の記事は、いつ出してもよい。エルズバーグはそう理解してくれたもの、とシーハンは受け止めた。
「紙面が出ることについて、何らかの形でエルズバーグに警告しておきたかった。こちらの良心の呵責(かしゃく)を少しは和らげることにもなるし」
(実際には、このシグナルをエルズバーグは理解していなかったことが、後になって分かった)
エルズバーグは、マンハッタンにある自分の家族のアパートに隠していたこの機密文書の全文コピーをシーハンが受け取れるように手配してくれた。それを預かっていたドアマンには、受け取る際にたんまりとチップを握らせた。誰かに尋ねられても、「知りません」と答えるようにするためだった。
「いずれはFBIが状況をつなぎ合わせて、この機密漏洩(ろうえい)の全体像を把握しようとするのは分かっていた」
自分の痕跡を消すためのシーハンの作業は、紙面掲載の直前まで続いた。自宅に保管していたコピーは、同僚の冷蔵庫に移された。他のコピーのうち、エルズバーグの名前の頭文字が記されていたページは、ニュージャージー州でどろどろに溶かした。あるいは、義父の友人だったブラジルの外交官のバーベキューセットで焼却した。
それでも、紙面に出る最後の局面は、エルズバーグにとっては不意打ちとなった。
シーハンは、紙面の印刷が進んだのを確認してから、もらっていた電話の返事を入れた。エルズバーグの自宅にかけると、本人は出ず、妻とだけ話すことができた。
「記事には夫は満足している」と妻はいった。 そして、シーハンによると、こう続けた。
「でも、これだけ堂々とした二枚舌には、あきれ返っている」
15年のインタビューでシーハンは、エルズバーグの名前は決して明かさなかったと語った。記事にする作業が進んでも、それを貫いた。編集者たちにも、「ネタ元」で通した。
それをバラしてしまったのは、他紙の記者だった。本紙の特ダネが出て、間もなくのことだ。
この文書を手に入れたいきさつについても、口を閉ざし続けた。その理由について、このインタビューではこう説明した。
エルズバーグの主張に反したり、当時の彼の行動や心情の揺れを自分が描写したりすれば、彼を当惑させるのは目に見えていた。そんな望みもしないことは避けたかった、というのだ。
特ダネが出てから半年ほど、2人が連絡を取ることはなかった。しかし、71年のクリスマスの少し前に、マンハッタンでばったり出くわした。そこで、シーハンは無断コピーの真相を伝えた。
その後で、こんなやりとりを交わしたとシーハンは明かす。
「つまり、私がしたのと同じように、あれを盗んだわけだ」とエルズバーグはいった。
「いいや、ダン(ダニエル)。私は盗んでなんかいないよ」とシーハンは答えた。
「あなたも、盗んだのではない。あれは、米国民みんなのものだ。あれの代償として、みんなで築いた国富と、息子たちの尊い血が注ぎ込まれているんだ。その文書に接する権利が、みんなにはある」(抄訳)
(Janny Scott)©2021 The New York Times
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