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世界初、「鉄人」になったダウン症の青年 アイアンマンレースを完走、次の夢は

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Chris Nikic competes in the bike portion with his guide, Dan Grieb, during IRONMAN Florida in Panama City Beach, Florida, U.S. November 7, 2020. Picture taken November 7, 2020. IRONMAN/Handout via REUTERS  ATTENTION EDITORS - THIS IMAGE HAS BEEN SUPPLIED BY A THIRD PARTY. NO RESALES. NO ARCHIVES. MANDATORY CREDIT. NO NEW USES AFTER DECEMBER 11, 2021. MUST CREDIT IRONMAN.
アイアンマン・トライアスロンの自転車コースを走るクリス・ニキッチ(21、左)。右端は、ガイド役として伴走するコーチのダン・グリーブ=2020年11月7日、米フロリダ州パナマシティービーチ、IRONMAN/Handout via REUTERS

フロリダの空は、暗くなっていた。もう、やめよう。クリス・ニキッチ(21)の心は、折れようとしていた。

あまりにも過酷なレース。しかも、自分だけでは、定められたコースを守ることができない。助けがなければ、ペース配分もままならない。それを13時間以上も続けていた。

もう、たくさん。急にそう思えてきた。

むし暑かった。呼吸を続けるのすら大変だった。舗装された道路を蹴る足は、焼け付くように痛んだ。両足は、コンクリートの塊のようになっていた。腰から背中の筋肉は、シュレッダーでズタズタにされたかのように力が入らなかった。

クリスはその日、固い決意でこのレースに臨んだ。

まず2.4マイル(3.86キロ)のスイム。次に112マイル(180.2キロ)のバイク。さらに26.2マイル(42.16キロ)のラン。そして、17時間を切るタイムでゴールインすれば、ダウン症を抱えた選手として初めてアイアンマン(Ironman)トライアスロンを制することになる(訳注=「アイアンマン」はWorld Triathlon Corporationが開催する長距離トライアスロン)。

成し遂げれば、記録に名を残すだけではない。米フロリダ州オーランドに住むクリスとその家族にとっては、本人が大きな目標を達成できることを社会に示す証しとなる。

そうなれば、クリスは自分の究極の夢をいずれは実現できるかもしれない。独り立ちし、結婚して家庭を持つことだ。

その夢をつかめるようになるのか。ゴールまであと16マイル(25.7キロ)。ついに、その場に崩れ落ちた。

でも、それからだった。

ともかく耐え、希望を捨てずに不屈の粘りを呼び戻そうとした。自分には、胸に刻んだあの明快な人生の目標がある。それに向かって進む力を、ここで振り絞らねば。

1歩前へ、2歩前へ。 1歩、2歩、3……。

A spectator cheers on Chris Nikic as he approaches the transition from the bike portion to the run portion of IRONMAN Florida in Panama City Beach, Florida, U.S. November 7, 2020. Picture taken November 7, 2020. IRONMAN/Handout via REUTERS  ATTENTION EDITORS - THIS IMAGE HAS BEEN SUPPLIED BY A THIRD PARTY. NO RESALES. NO ARCHIVES. MANDATORY CREDIT. NO NEW USES AFTER DECEMBER 11, 2021. MUST CREDIT IRONMAN.
自転車走の終盤に、沿道の女性から声援を受けるクリス=2020年11月7日、米フロリダ州パナマシティービーチ、IRONMAN/Handout via REUTERS。途中の水分補給の際にアリに足をかまれたり、その後で転倒したりするトラブルも起きた

レースは2020年11月の土曜日に、フロリダ州のパナマシティービーチで開かれた。

なぜ、クリスは、不可能とも思えるこんなレースに挑んだのか(訳注=世界各地で開かれる「アイアンマン」にダウン症の人が参加するのは初めてだった)。それを知るには、彼の生い立ちをさかのぼらねばならない。

生後5カ月で、心臓手術を受けた。虚弱体質で体のバランスも悪く、4歳になるまで1人で歩けなかった。のどに食事を詰まらせないよう、6歳までベビーフードを食べた。走るのを覚えても、両腕を頭の上にかざした。ちゃんと腕を振るのを覚えるのに何カ月もかかった。靴ひもを結べるようになるには、何年もかかった。

父ニック(会社勤めのフィットネス指導員)と母パティ(主婦)は、息子を注意深く世話してくれるところを探すのに、絶えず苦労した。ぴったりの小学校を見つけたのは、7校目だった。

専門家に相談しても、いたるところで「この子のできることには限りがある」といわれた。「できるようになるかもしれない」というこれからの可能性について聞くことはなかった。

クリスが成長するにつれ、ニックは「いつも孤立し、取り残され、閉め出されているように感じた」と自身の心情についてビデオ電話の取材に答えた。

Chris Nikic with his "dream wall" in his bedroom in Maitland, Fla., Nov. 14, 2020. Nikic, 21, became the first person with Down syndrome to conquer the grueling Ironman endurance race, offering lessons in perseverance and hope. (Zack Wittman/The New York Times)
自室でくつろぐクリス=2020年11月14日、フロリダ州オーランド大都市圏、Zack Wittman/©2020 The New York Times。「夢の壁」には自分の思いがビッシリ書き込まれ、後ろの「アイアンマン」の旗には「何ごとも、やればできる」とある

救いは、スポーツだった。10代の初めまでに、(訳注=知的障害者のための)スペシャル・オリンピックスで短距離走と水泳、バスケットボールに出るようになった。15歳のころに、親が自宅近くの駐車場に連れていき、自転車に乗る練習をした。100フィート(30メートル余)進めるようになるまで半年かかった。しかし、こつをつかむと、後戻りすることはもうなかった。

一連の耳の手術も大きかった。(訳注=聴覚や平衡感覚という)耳の機能の不調は、持てる力を奪い、家にこもりがちになる原因となっていた。しかし、術後は、もっといろいろなことをやろうという意欲が強くわいてきた。

さらに、地元で持久力トレーニングをしているグループとボランティアのコーチ、ダン・グリーブが助けてくれた。19年10月には、アイアンマン・レースを意識するようになった。

これは、究極のテスト。やり遂げれば、なんでもできるようになる――そう思った。

クリスとグリーブは、早朝練習を始めた。20マイル(32キロ)を走り、100マイル(161キロ)を自転車でこなした。毎日、少しずつ何かを向上させることに集中した。変速ギアの使い方。自転車のバランス。風をどう味方にするか。海でリラックスして泳ぐには。たとえ、クラゲを避けながらでも。

少しずつ変化が表れた。5フィート10インチ(178センチ弱)のずんぐりした体に、筋肉が付き始めた。肉体だけではなかった。周りの誰もが、精神的な変化に気づいた。体力が付くほどに、明敏さと注意力が増し、自信を深めるようになった。

Chris Nikic stretches in the training room at his home in Maitland, Fla., Nov. 14, 2020. Nikic, 21, became the first person with Down syndrome to conquer the grueling Ironman endurance race, offering lessons in perseverance and hope. (Zack Wittman/The New York Times)
フロリダ州オーランド大都市圏の自宅のトレーニング室でストレッチ体操をするクリス=2020年11月14日、Zack Wittman/©2020 The New York Times

レースが、近づいてきた。

「あれだけトレーニングしたのだから、きっと制限時間内にゴールしてくれると信じていた」と父ニックはいう。

「何か起こらない限り。常にそれはありうるのだけれど」

本番は、早朝スタートのスイムで始まった。メキシコ湾には、強い風が吹いていた。

グリーブが、ガイド役として一緒に海に入った。安全のために、伸縮性のあるバンジーロープで互いをつないで2人は泳ぎ始めた。2時間足らずで、波の荒い海から上がった。

グリーブは次にクリスを10段変速の自転車に乗せ、足をペダルに固定した。(訳注=グリーブが伴走しながらの)長い走行が始まった。トラブルの発生が予想された。クリスは、走りながら水分を補給できるだけのバランスをとれなかった。止まって、自転車から降りねばならなかった。

22マイル(35.4キロ)の地点で自転車を降りると、早速、トラブルに見舞われた。赤アリの大きな巣の上に立ったことに気づかず、アリの群れが足首にはい上がってきてかんだ。おかげで、足が腫れてしまった。

それでも、なんとか走り続けた。数マイル先では、下り坂で転倒した。しかし、再びペダルを踏んだ。

最後のマラソンは、快調に始まった。パナマシティービーチの市内を回るコース。夜になっていた。

クリスは、ここでもグリーブとロープでつながって走った。転倒を防ぎ、コースを外れないようにするためだ。沿道には、声援を送る家族や友人たちがいた。

ところが、10マイル(16キロ)の地点で様相は一変した。スピードが急に落ち、ほとんど動かなくなった。痛みを訴えだした。まなざしには、苦しい様子が見てとれた。

「まるで、ゾンビのようだった」と姉妹のジャッキーは振り返る。「もう完全にダメという感じだった」

応援していたみんなが駆け寄った。なんとか元気づけようと、抱きしめもした。

ニックは息子を抱き寄せ、耳元にこうささやいた。「痛みに勝たせてしまうのか、夢に勝たせてあげるのか」

クリスには、よく分かっていた。アイアンマンのレースを、最後までやり終えればよいというだけなのではない。自分が将来、どんなことを達成できるのかを示さねばならなかった。

自分の家庭。自立。母のように優しく、美しい妻。

「僕の夢が」とクリスは振り絞るように父に答えた。「勝つのさ」

そして、ゆっくりと走り始めた。

1歩前へ。2歩。3歩。 1歩。2。3。 走りのリズムをとり戻した。もう、彼を止められるものは何もなかった。

両腕を高く掲げて、ゴールインした。残された時間はあまりなかった。タイムは、16時間46分9秒だった。

Chris Nikic with his father, Nik, at their home in Maitland, Fla., Nov. 14, 2020. Nikic, 21, became the first person with Down syndrome to conquer the grueling Ironman endurance race, offering lessons in perseverance and hope. (Zack Wittman/The New York Times)
フロリダ州オーランド大都市圏の自宅でクリスを抱きしめる父ニック・ニキッチ=2020年11月14日、Zack Wittman/©2020 The New York Times

数日後、筆者はクリスと話した。「限界なんてないことを学んだ」という。そして、「もう僕にふたをかぶせるようなことはしないで」と続けた。

クリス・ニキッチ。君は晴れの舞台に立った。みんなの拍手に、ここで胸を張っておじぎを返そう。

夢をしっかりと抱き続け、苦しみに耐え、希望を捨てずに見事な精神力を発揮した。その少しでも、世界中の人々があやかれるようになればと思う。(抄訳)

(Kurt Streeter)©2020 The New York Times

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