ある人物は、自国の軍隊に、反抗的な地域の抵抗勢力を打ちのめすよう命じた。別の人物は、少数民族に対する大量虐殺を無視した。平和的な結果を得ようと努力した人もいたが、その時は高く評価された成果にも欠陥が見つかったり、後になってみると効果がなかったことが判明したりした。
いずれもノーベル平和賞の受賞者だった。
ここ数十年間で少なくとも6回について、毎年ノーベル平和賞を授与するノルウェーの委員会は、その名誉が与えられる前後の行為や振る舞いが受賞に値しなかったり、場合によっては不条理とみなされたりする人物を選んできた。
エチオピアの首相アビー・アハメドが11月、ティグレ州を暴力的に抑圧して、アフリカで2番目に多い人口を抱える同国を悲惨な内戦に追い込む危険を冒し、それがノーベル委員会の考え方や秘密主義的な評議のあり方に対する疑念を強めた。
「委員会は安全を期して、過去の業績について完璧に議論の余地のない候補者を常に選ぶことができる」。ノーベル平和賞の選択を分析しているオスロ国際平和研究所(PRIO)の所長で研究教授でもあるヘンリック・アーダルは指摘する。
ところが、委員会は近年特に「受賞者が同賞にふさわしい行動をとるよう奨励するために、そのプロセスに対する賞の授与を試みてきたが、それは非常にリスクが高いやり方である」とアーダルは言うのだ。
以下、いくつかの疑わしい授賞を新しい事例から示す。
■アビー・アハメド、2019年の受賞
委員会は、2018年にエチオピア首相に就任した直後の数カ月の仕事ぶりでアビーを選んだ。抑圧時代後の民主的な変革や政治犯の釈放、メディアの規制緩和、そして特に、隣接するエリトリアとの長引く国境紛争の解決が認められてのことだ。
だが、アビーは今年の11月初旬、ティグレ州での軍事作戦と空爆を命じた。ティグレは、指導者がパンデミック(感染症の大流行)で中止になっていた選挙を続行してアビーに逆らった州である。戦闘が激化し、難民が隣接するスーダンに流出したため、アビー政権は非常事態を宣言し、この地域との通信を遮断した。
■フアン・マヌエル・サントス、2016年の受賞
当時コロンビアの大統領だったサントスは、左派のゲリラ組織「コロンビア革命軍(FARC)」と和平を図って「50年以上続いてきた内戦に終止符を打つために決然と努力をした」とたたえられた。
コロンビア人が和平合意を国民投票で辛くも拒否した数日後にノーベル賞授与が発表され、サントスを大いに困惑させた。和平協定は最終的にはコロンビアの立法府を通じて断行されたが、同国の最近の情勢は再び紛争に向かって突き進んでいる。
■バラク・オバマ、2009年の受賞
オバマは、大統領としての最初の任期がまだ始まったばかりの段階で「国際間の外交や国民間の協力の強化に多大な努力を払った」として賞を贈られた。だが、多くの批評家や一部の支持者、そしてオバマ本人までもが、その選択に疑問を抱いた。彼は世界平和に向けてまだ何ら重要な結果を達成していなかった。「何のために?」。オバマは自分が選ばれたことを知ったときの疑念を自伝の中で、そう記している。
一部のコメンテーターは、ノーベル委員会が、より平穏な世界を願うオバマの可能性に「強い願望を込めた選択」だったと指摘した。イラクやアフガニスタンでの戦争を終わらせたいという彼の意欲が、その可能性を際立たせたのだ。ところが、オバマはアフガンへの米軍の増派を承認し、ドローン(無人航空機)による攻撃計画の大幅な拡大を取り仕切った。イラクから米軍の大半が撤退するのもまだ数年先のことになろう。
■金大中、2000年の受賞
韓国の権威主義政権時代に異議を唱え、亡命し、死刑囚に名を連ねた金大中は、その後、大統領になり、「韓国および東アジア全般における民主主義と人権、そしてとりわけ北朝鮮との和平と和解」の促進に努めたとしてノーベル平和賞を授かった。彼は画期的な北朝鮮訪問を実現し、カウンターパートだった金正日と会談、両国関係の雪解けを図り、最終的な南北統一の目標を支持した。
しかし、両国は依然として事実上の戦争状態にあり、金正日の息子で後継の金正恩の下で、北朝鮮は核兵器やミサイルを蓄積している。この数年間に金正恩と韓国大統領の文在寅や米大統領のドナルド・トランプが会談したにもかかわらず、ある意味で、南北間の和平の見通しはいっそう遠のいている。
■ヤセル・アラファト、シモン・ペレス、イツハク・ラビン、1994年の受賞
パレスチナ解放機構(PLO)の議長とイスラエルの2人の政治家は、パレスチナとイスラエルとの和解を目的としたいわゆる「オスロ合意」に署名し、「中東に平和をもたらす努力」が共に認められた。
ラビンは首相だった1995年、和平合意に反対するイスラエルの狂信者に暗殺される。以来、紛争解決の努力は繰り返し行き詰まり、暴力や苦々しい非難の応酬で中断されてきた。「2国家解決」という提案に対する疑念は、イスラエルが占領下のヨルダン川西岸の領土を併合するという脅しによって近年深まるばかりである。
■アウンサンスーチー、1991年の受賞
ミャンマーの国民民主連盟(NLD)の創設者スーチーは、軍事政権による容赦ない弾圧を受けて自宅軟禁状態に置かれていた期間、世界の人権擁護派にとっての英雄だった。ノーベル委員会は授賞に際し、「民主主義と人権のための彼女の非暴力闘争」に言及した。ミャンマー軍事政権の将軍たちが彼女を解放したのは2010年になってからだが、以後、彼女はミャンマーの文民トップの指導者になった。
しかし、権力を握ってからのスーチーは、多くの人権擁護派による指摘通り、すっかり人が変わってしまい、ミャンマー少数派のイスラム教徒ロヒンギャに対する組織的かつ残虐な迫害の証拠をはねつけている。昨年、彼女はジェノサイド(集団殺害)が告発された国際司法裁判所(ICJ)でミャンマー当局を擁護し、組織的な軍事作戦は行われなかったと主張した。
ノーベル賞の歴史を研究している学者の中には、たとえ欠陥のある選択がなされたとしても、平和賞本来の価値は変わっていないという人もいる。
「ノーベル平和賞は、常にその理想に沿うとは限らない個人や団体にも授与されてきたと言える」。この問題に関する著作がある米インディアナ大学教授のリチャード・B・ガンダーマンはそう述べ、「それでも、ノーベル平和賞自体は国際関係における大切な願いである平和を主眼にしているのだ」と指摘した。(抄訳)
(Rick Gladstone)©2020 The New York Times
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