ギリシャ神話に出てくる処罰の中で、最高神ゼウスがアトラスに与えた懲らしめほど厳しい罰はない。巨人族タイタンの神々を率いたアトラスは、ゼウスたちオリンポスの神々との宇宙の支配をめぐる戦いに敗れ、計り知れぬほど重い天空を永遠に支えるように宣告された。
そして、古代ギリシャ世界の中で、植民都市国家のアクラガス(現イタリア・シチリア島南西部のアグリジェント)に築かれたゼウス・オリンピア神殿ほど多くのアトラス像を配したところはない。
巨大な半分ほどの柱を土台にして立つ柱像は、全部で38体もあった。石灰岩でできており、高さはいずれも25フィート(7.6メートル強)。柱の頭部に乗る梁(はり)をこの像が支えていたと見られ、両腕を曲げて天空の重みに必死で耐えようとする姿をしていた。
この神殿は、紀元前480年のヒメラの戦いで(訳注=地中海をはさんで現在のチュニジアにあったフェニキア人の植民都市国家)カルタゴの大軍を破った戦勝記念として建てられた。建築様式はドリス式で、世界最大の規模を誇った。それが、今は(訳注=七つの古代ギリシャ神殿から成る)「神殿の谷」と呼ばれる遺跡公園の一角に、崩れ落ちた柱などが積み重なる巨大ながれきの山として残るだけだ。
アトラス像(もしくは男像柱)のうち、ほぼ完全に保存されているのは1体だけ。風雨にさらされてかなり傷んでおり、足首から先が欠けているが、まっすぐに立った状態で地元の考古学博物館に展示されている。
遺跡公園の園長ロベルト・シャッラッタは2020年8月、アクラガスの建国2600年(訳注=建国は紀元前581年とされる)にあたって、巨大なアトラスの像(フランケンシュタインにちなんで「フランケン・アトラス」とでも呼ぼうか)を組み立てると宣言した。バラバラになった男像柱の石材を集め、呪われたタイタンの姿に造り上げる。そのために、8本の男像柱の残存部分が鉄材の補強で組み合わされる。
この15年間、考古学者たちは遺跡のがれきの中から約90点の芸術性の高い埋蔵物を見つけ出し、目録を作成した。「素晴らしかったゼウス・オリンピア神殿の梁の様子を一つずつ再現し、かつての栄華を少しでも取り戻したい」とシャッラッタは今回の狙いを語る。「新しいアトラス像は、神々の父に捧げられたこの神殿の守り神となるだろう」
もっとも、アクラガスの歴史となると、アトラスをめぐる神話ほどわくわくとはさせてくれない。
この都市国家を築いたのは、主にギリシャのクレタ島とロードス島からの入植者だ。古代ローマ人は、(訳注=南イタリアからシチリア島にかけての古代ギリシャ人の植民地域を指して)一帯を「マグナ・グレキア〈大ギリシャ〉」と呼んだ。
そのアクラガスは、僭主(せんしゅ)ファラリス(在位:紀元前570年ごろ~549年ごろ)によって名を知られるようになった。悪名高い処刑方法が伝えられているからだ。
使われたのは、青銅製の空洞の雄牛像。中に閉じ込めて焼き殺すというやり方で、叫び声は共鳴パイプによって怒った雄牛の大きな鳴き声に聞こえるようになっていた――紀元前1世紀の歴史家ディオドロス・シクルスは、そう記している。
その後の僭主テロン(在位:紀元前488年ごろ~473年ごろ)の統治下で、アクラガスは社会的、文化的な隆盛を迎える。
詩人ピンダロスは、「最も美しい現世の街」として描いている。この都市が生んだ哲学者エンペドクレスは、市民の様子をこう例えている。「食べるときは、明日はもうないかのように食べた。建てるときは、永久(とわ)に生きるかのように建てた」
テロンの時代に、アクラガスの絶大な富は野心的な公共事業に注ぎ込まれた。水道橋などによって自然に水を流す水路。地下にめぐらした水道網。そして、地中海を見渡す岩肌の斜面に神殿を相次いで造った。
ゼウスに捧げた神殿だけではない。ゼウスの妻で最高位の女神ヘラ、調和の女神コンコルディア、英雄ヘラクレス、双子のカストルとポルックス、豊穣(ほうじょう)の女神デメテル、火と鍛冶(かじ)の神ヘファイストスがそれぞれに祭られ(訳注=以上が、神殿の谷にある)、さらに下ったアクラガス川の岸には医術の神アスクレピオスの神殿も建てられた。
ゼウス・オリンピア神殿(別名オリンピエイオン)は、カルタゴ人の奴隷を使って築かれた。建物は長さ340フィート(約104メートル)、幅160フィート(約49メートル)で、ほぼアメリカンフットボールのフィールドとエンドゾーンを合わせた広さを誇った。高さは、基礎部分を含めずに120フィート(約37メートル)あった。
その巨大さのために、この神殿はついに完成することがなかった。紀元前405年にカルタゴがアクラガスを征服したときは、中から空が見える状態だった。これだけの規模の屋根を張ることが難しかったためだろう。
なにしろ外側の柱にある溝の深さは、男性が入ることができるほど大きかったと先の歴史家ディオドロスは、一例をあげてオリンピエイオンの壮大さを表している。
ただ、当時の神殿の一般的な柱と違って、1本ずつが独立して立っているわけではなかった。梁などの水平方向の建築物の重みを支えるため、壁と柱が一体になっており、像が立つ四角い柱の断面は23×46フィート(約7×14メートル)もあった。地元の考古学博物館にある神殿の縮尺模型が正しければ、アトラス像は柱の棚状部分に立ち、頭の上に手を伸ばして梁を支えていた。
それにしても、現在のがれきの山に、こうした威厳を見いだすことは難しい。2千年以上もの間に受けたのは、地震の被害だけではない。人災もあった。1700年代の半ばには、近くの海に防波堤や突堤を築く材料として切り出され、かなりの部分が運び去られてしまった。
今回のアトラス像の復活事業に対しては、批判もある。そもそも、歴史的な遺産を扱う学術基準に反する。センスもよくない……。
オリンピエイオンのがれきの近くには現在、アトラス像のレプリカが横たわっている。1970年代に石材を集めて造られ、ロープを張って立ち入ることができないようにしてある。
「訪れた人の多くは本物だと思うけれど、そうではない」。遺跡公園の広報担当レオナルド・グァルニエリは、まるで米作家アイン・ランドを連想させるかのように肩をすくめた(訳注=ランドのベストセラーの一つに「肩をすくめるアトラス〈原題=Atlas Shrugged〉」がある)。
そして、新たに命を吹き込まれるアトラス像の手に、重荷を負わせるようなことはないといい添えた。 やれやれ。アトラスの肩は、ようやくあの重さから解放されることになりそうだ。(抄訳)
(Franz Lidz)©2020 The New York Times
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