2020年の米大統領選で、民主党の副大統領候補として上院議員のカマラ・ハリスに白羽の矢が立った。米国の2大政党で、黒人女性がこのポストに指名されたのは初めて。インド系の血を引く人物としても初めてのことだった。
だから、この歴史的なできごとへの祝福が、すぐに続いた。
もう一つ。ハリスが女性だからこその声も、あとに続いた。着ているもので、おとしめられたりたり、決めつけられたりするだろうという憂いの声だ。
「ああ、悲しいかな。大統領選のファッション警察が復活」という嘆き節も、中にはあった(米経済誌フォーブス流の表現)。
ただし、事実はこうだ。「復活」といっても、ファッション警察がどこかに消えてしまったことは、一度もない(筆者もこの警察の一員なので、あえていわせてもらいたい)。なぜか――。
女性を追いやるのに、そのファッションセンスが攻撃の的とされてきたことは、疑いの余地がない。本題に迫ることなく、薄っぺらな理由であげつらう。うわべだけを見て、政治的な本質にまで立ち入ろうとしないやり方ともいえるだろう。
では、2大政党の一つの副大統領候補にまでなった女性の場合はどうか。しかも、その起用が世代交代を色濃く映し出しているとされる人物だ。ここで(訳注=うわべだけの批判と見なされないよう)あえて女性の服装を無視してしまうことは、逆の意味でステレオタイプな考えの落とし穴にはまるということになるのではないか。
重大な事案を前に進めるために、女性の候補としては、(訳注=服装を含む)あらゆる手段で世論を動かし、形づくろうとするに違いない。ところが、服装を無視してしまえば、称賛に値するほどベストを尽くしたとしても、その一部がポッカリ欠けているということにもなるだろう。
男性の政治家だって、長らく服装にも注意しながら、全力をあげてきた。ありとあらゆる場を、政策論議だけでこなすことは誰にもできない。でも、その場にふさわしい服装をすることなら、いつでもできる。
「全米向けの舞台」とか「一大政治劇」という言葉を私たち報道陣が使うことには、訳がある。
威風堂々と。統治を誇るには、これを欠かしてはならない。どんな政治制度のもとでも、共通する鉄則だ。
そんな壮麗な式典や催しには、衣装が本来的な構成要因の一つとして含まれている。そこに登場する人物が持つ個性と、伝えるべき意思を表すものとして織り込まれているのだ。
とくに、公の注目を集めるときはそうなる。正副大統領候補を選ぶ党大会、大統領候補者による討論会、大統領の就任式、大統領による一般教書演説。今や私たちはみんな、カメラのフレームの中で生きているといってよいのかもしれない。それも、常に。
そして、見ている映像をもとに、お互いに相手のことを即断する。それは、人間の本能であり、相手の好感度、信頼度を推し量り、リーダーとしてふさわしいかを判断するのに不可欠な要素でもある。しかも、相手の性別を問わない。クレオパトラからカストロまで。
私の友人の一人に、政治的な危機管理のコンサルタントをしている男性がいる(テレビドラマ「スキャンダル 託された秘密〈原題:Scandal〉」のオリビア・ポープのような仕事)。その人によると、顧客の政治家とは、信じてもらえないほど長々とネクタイの色について論議している(それも、顧客の求めに応じて)。重要な政治案件(例えば和平の進め方)にあててもよいほどの時間をかけているという。
別に、ネクタイの方が、和平の進め方(もしくは他の政策案)より重要だというのではない。もちろん、政治家としての内実は、外形的なスタイルより優先されるべきことだろう。しかし、内実は、スタイルとまったく切り離されてあるものでもない。
一方で、注意も必要だ。服装の選び方(訳注=つまりスタイル)が、政治的な姿勢の一部でもあるという見方には、性差別を助長する恐れも宿っている。
女性の政治家の政策内容を無視して、服装だけを取り上げる。あるいは、男性政治家の服装を、女性の場合と同じようには扱わない。すると、その恐れが現実化する。あってはならないことだ。
ちなみに、筆者がその服装を報じた内外の男性政治家の一部をあげると、こうなる――ドナルド・トランプ、バラク・オバマ、ジェブ・ブッシュ(元フロリダ州知事)、ティム・ケイン(米上院議員)、ボリス・ジョンソン、エマニュエル・マクロン、テッド・クルーズ(米上院議員)、ナレンドラ・モディ、ネルソン・マンデラ。前段の指摘の意味合いを分かってもらえると思う。ネクタイをどう選んだかについても、大統領候補の討論会を中心に、長らく書いてきた。
しかし、女性の場合と比べて、男性の服装について書いたときの方が、反響がかなり小さいのも確かだ。女性について触れる機会が多いのは、服装の多様性が異なるだけでなく、関心の強さも違うからだ。ファッションの選択肢が広いことは、さまざまな意味で、女性にとっては問題というよりは利点になるといえるだろう。
よい例が、ヒラリー・クリントンだ。服装ばかりが注目されると長らくぼやいていた。しかし、それを見事に逆手にとってみせ、何度も繰り返されるジョークのネタにしてしまった(自分のスーツについて最初にインスタグラムで紹介したときの「難しい選択」を思い出してほしい〈訳注=2016年の大統領選の前年にインスタグラムで「#Hillary2016」をスタートさせている〉)。
これで服装をめぐる悪口の毒気を抜き、自身の人間味を出せるようになった。同時に、支持者には、連帯の印として着る制服ができた。男性の政治家だったら、「#PantsuitNation(パンツスーツの国)」なんてタグを作って騒ぐなどということは、想像もできないだろう。
では、ハリスはどうか。黒っぽいスーツにきちんと身を包んだ検察官との評価が一般的だった。それが、コンバースのスニーカーにはまっている、と打ち明けるようになった。元大統領のジョージ・W・ブッシュが、カウボーイブーツをアピールしたようなものだ。
暮らしと政治で、服装が持つ役割をより深く認識する。そうなれば、服装についてもっと語ることもいとわなくなるだろう。それが当たり前のようになるほどに、おとしめるための武器として使われることも減るだろう。
それは、私たちみんなにとって、よりよいことでもある。(抄訳)
(Vanessa Friedman)©2020 The New York Times
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