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原爆の証言、コロナでも止めない 「広島にケイコあり」と 世界に知られる被爆者

Breakthrough 突破する力
毎月8月6日には多くの死者が出た爆心地近くの元安川のほとりに立ち、核廃絶の決意を新たにする=2020年6月20日、広島市中区の平和記念公園、上田幸一撮影

集まったのは、「平和のためのヒロシマ通訳者グループ(HIP)」の中心メンバー7人。小倉が1984年に立ち上げたボランティア団体で、被爆の事実を広島の人が自ら英語で世界に語り継ぐ取り組みをしている。本の出版やガイドをしてきたが、2007年からは毎年8月6日に外国人に英語で被爆体験講話会を開き、数百人の参加がある。会員20人で始めたHIPは、小倉の熱意に引き寄せられて220人にまで育った。その一人で胎内被爆者の二川一彦(74)は「『あなたには語る何かがあるでしょ』と声をかけられ参加した。すごい情熱家。真実を一生懸命追究し、いい加減なことは言わない。世界に発信しないで核廃絶はあり得ないという強い信念を実践している人だ」と語る。

小倉桂子の手帳。昨年の8月(右)は予定が埋まっていたが、今年(左)は空白が目立つ=2020年6月20日、広島市中区、上田幸一撮影

小倉は年平均2000人、これまで50以上の国・地域の人に証言してきた。今年は新型コロナで予定の多くが中止されたが、英語が堪能な唯一の広島被爆者として証言依頼の指名が相次ぎ、「広島にケイコあり」と言われている。だが、自らの被爆体験を話すようになったのはわずか15年ほど前のことだ。それまでは頼まれて断れずに証言台に立った83年の独ニュルンベルクの「反核模擬法廷」での1回だけだった。そもそも平和貢献活動も、広島平和記念資料館長などを歴任した米国生まれの夫の馨(享年58)がくも膜下出血で急逝した79年、夫の遺志を「仕方なく」引き継いだ。被爆体験を聞きに広島を訪れるメディアなど外国人らのコーディネートや通訳をしたが、自分の被爆体験についてはかたくなに口をつぐんだ。

■隠したかった被爆体験

6月20日のHIPの会議。タブレット端末も使ってメンバーと話し合う小倉桂子=広島市中区、上田幸一撮影

「平和貢献は夫の仕事。私は主婦だった。主人を失い、子ども2人を養わないといけない。下手だった英語を独学で猛勉強した。最初は本当に嫌だった」と小倉。「原爆症の不安から被爆者だとわかると結婚できないなどの差別が日本にあった。被爆者が一番隠したいのは遺伝的なこと。特に子や孫を心配する。差別されるのに好んで話しますか? 私は隠したかった」

45年8月6日午前8時15分。8歳だった小倉は、爆心地から2.4キロ離れた自宅そばの道路にいた。ピカッと閃光(せんこう)が走り、直後の強烈な爆風で息ができない。その瞬間、体が飛ばされ地面にたたき付けられた。気を失い、意識が戻ると、恐怖を感じるほどの静けさの中、近くの家の屋根が燃えていた。遠くで泣き声がした。頭から血を流した弟だった。周囲の家は壊れ、自宅の中は飛び散ったガラス片が壁に突き刺さっていた。住民の約半数が死傷したとされる広島市牛田町(現・同市東区)などで、兄弟姉妹6人と両親は全員が奇跡的に助かった。親戚の男性の背中に刺さったガラス片を姉がピンセットで抜いている横で、一つずつ数えたのを覚えている。近くの神社は焼けただれた被爆者たちで埋まった。それから連日、荼毘(だび)の煙が上がり続けた。黒い雨も降った。

こうした被爆体験を封印しつつ、小倉は広島に来る外国人のために被爆者を何人も探しては、その体験談を通訳し続けた。

「自分のことは隠したまま、同じように隠したいと思っている被爆者たちに無理やり話をさせてきた。私はなんて罪深いことをしているんだと。ものすごい罪悪感があった」

HIPのメンバーと代表の小倉桂子(左から2人目)。新型コロナ感染防止のため、マスクをつけて会話する=2020年6月20日、広島市中区、上田幸一撮影

差別を恐れる被爆者たちには必ず、「日本では絶対に公にしない」と一筆書かされた。外国でしか公表されないと知ると、逆に小倉も聞いたことがないような驚くべき証言が相次いだ。

火葬の後にできる遺骨の山から自分と友人の子どもの骨が判別できるように、頭をくっつけて焼いてもらったら足元だけが焼け残ってしまったと涙する父親。逃げる途中で亡くなった母親の遺体を葉っぱで覆って焼こうとしても、なかなかうまくいかずに何度も火をつけたと苦しむ男性。奇形で生まれてきた赤ちゃんの鼻の上にぬらした紙を置き、死産だったことにしたという女性の証言。「国内での差別の心配がないなら、海外の特に核保有国の人たちには原爆の悲惨さを知ってほしいというのが被爆者たちの本心だった」。そう語る小倉の心にも少しずつ変化が出だした。「外国人はあまりにも原爆のことを知らなかった。ちゃんと真実を伝えないといけないと思うようになった」

転機は約15年前。国内で暮らす米国人の高校生たちの通訳を広島で任された。生徒たちから「自分の目で見たことを話してくれないと信じられない」と言われ、自らの体験を語った。話を食い入るように聞いていた生徒に、小倉は最後にこう付け加えた。「最も多くの核兵器を持つ米国が変わらなければ、世界は変わらない。私の話を聞いた今日から、あなたたちは証人です。広島を知らないとは言わせない。だから、責任がある。素晴らしい大人となって、世の中を変えてほしい」。証言活動の扉が開いた瞬間だった。

■コロナ禍で新たな証言活動

「8月6日に世界に被爆体験を発信したい」と話す小倉桂子。見つめる先には常に世界がある=2020年6月20日、広島市中区、上田幸一撮影

戦後70年を境に、被爆者も変わり始めたと感じている。封印を解き、自らの被爆体験を語る人が増えた。「死期を考えた被爆者は、自分の生きている意味を思うのね。もし、自分が何もしないで、あの世に行ったらね、死んだ家族にどう言おうかと思うわけ。死ぬ前に何かしなきゃと、別の意味ですごい焦りを感じる。だってまだ核兵器はなくなっていないから」

厚生労働省によると、今年3月末時点で被爆者健康手帳を持つ全国の被爆者は過去最少の13万6682人、平均年齢は83.31歳になった。この1年で9254人が亡くなった。HIPでも被爆者は、今では小倉と、胎内被爆者の二川だけになった。

今年の8月6日。HIPはYouTubeを使って、小倉や二川の平和への思いを海外に向けて発信することにした。同時に広島の様子を終日世界に中継する計画で、機材もそろえた。「コロナの時代にあった新しい形を模索しながら、これからも広島の事実を伝え続ける。私たちも変わらなければいけない」。その練習も兼ねて4月8日にオンラインで被爆の体験を語った。視聴した米オレゴン州の8~11歳の子どもたちの母親から届いたメールにはこう書かれていた。「初めて一から核兵器や平和について、家族全員で考えてみたいと思いました」

■Profile

  • 1937 広島市で生まれる
  • 1945 爆心地から2.4キロの広島市牛田町(現・同市東区)で被爆
  • 1962 小倉馨と結婚。海外への平和発信などに努めた夫の影響で、外国人ジャーナリストや学者らと交友を深める
  • 1979 馨が急逝。友人のユダヤ人作家ロベルト・ユンクに強く勧められ、夫の遺志を継ぎ平和貢献活動を始める。英語を猛勉強
  • 1980 平和運動家や学者、メディアなど外国人の広島での活動の調整役や通訳を開始
  • 1983 独ニュルンベルク「反核模擬法廷」で被爆者証人として英語で証言
  • 1984 平和のためのヒロシマ通訳者グループ(HIP)を設立
  • 1987 米ニューヨークでの第1回核被害者世界大会に出席
  • 2003 米ワシントンでのB29爆撃機エノラ・ゲイ展示関連行事に被爆者の通訳で参加
  • 2005 HIPが同年度の広島市民賞受賞
  • 2011 広島平和文化センターより英語による被爆体験証言者を委託され登録
  • 2013 漫画「はだしのゲン」作者の中沢啓治や俳優の吉永小百合らが受賞歴のある谷本清平和賞を受賞。個人としては20人目

■2人の先導者…広島市職員だった夫の馨は、被爆地広島を世界に伝えた先駆者。国連本部での原爆写真展開催などに尽力した。英語が堪能で国際的な人脈も広い。なかでもベストセラー作家のロベルト・ユンクとの関係は特別だ。ユンクが広島を書いた「灰墟の光」には、馨が英文化した被爆資料が大きく役立った。「あなたがやらないで誰がやる」。夫の急逝に悲しむ桂子に馨の遺志を継ぐよう説得したのもユンクだった。

■紙芝居…外国人家族に被爆体験を語る際によく使う紙芝居がある。タイトルは「ケイコの8月6日」。広島市立基町高校の生徒が小倉と相談しながら1年かけて独自制作し、2019年12月に完成した。「生徒の感性が生きた優しい絵。子どもたちへ訴える力がある」と小倉。実際に見ると、生々しさはあるが、タッチが柔らかい分、逆に強く胸に響いた。

広島市立基町高校の生徒たちがつくった紙芝居は27枚で構成されている。そのうちの1枚。高校生たちの感性が光る=本人提供
広島市立基町高校の生徒たちがつくった紙芝居のうちの1枚。小倉の話を聞き、高校生たちが絵や文章をつくった=本人提供