機を見るに敏だったカジノの帝王、スタンレー・ホーが2020年5月26日、死去した。98歳だった。中国大陸沿岸のわずかなエリアであるマカオを世界で最も収益のあがるギャンブルの地へと変えた人物だ。
巨万の富を誇る帝国を築く過程で、ホーは彼を打ち負かす恐れがある勢力を相手に、戦うこともあったが、たいていは交渉したり手を組んだりしてきた。その相手の中には、第2次大戦中に故郷を占領した日本人もいた。トライアド(訳注=「三合会」、香港を拠点にした犯罪組織の総称)として知られる中国人のギャングもいた。中国本土の共産党政府も相手にした。さらには、マカオを「アジアのラスベガス」にしようと企てた米国のギャンブル業者もいた。
ホーは、世界一熱いギャンブラーを生む中国という世評をうまく利用して財を成した。ブルームバーグの2017年の見積もりだと、一族の総資産は120億ドルを超える。
運営あるいは所有する20のカジノとその関連事業で、マカオの労働力の4分の1を雇用した。元ポルトガル領のマカオは、香港からフェリーですぐの距離にある(ホーの会社はカジノに来る顧客を乗せる水中翼船の資金を提供した)。何年にもわたり、ホーの企業はマカオの全税収の70%以上をあげてきた。
多くの中国人起業家がそうであるように、17人の子の父親だったホーは、創業者である自分の生涯が終幕に近づく中で、もうけの多い一族経営のビジネスが直面する落とし穴を具現化してしまった。最晩年、4人の妻との間にできた子どもたちが苦々しい公然の口論を展開したのだ。健在だった子は14人いたが、その多くがホーを脇に押しのけて「帝国」の権利を要求した。
ホーが脳の手術から回復しつつあった2011年初め、2番目の妻と3番目の妻の家族でけんかになった。ホーの弁護士は、親戚が彼をだまし、持ち株譲渡に署名させようとしたと主張した。だが、ホーが元気を取り戻すと親戚たちは身を引き、公におわびをした。
生涯を通して、ホーは回復力を発揮してみせた。
「敗北を受け入れない人だった」。雑誌マカオクローザーの発行人リカルド・ピントは07年、ニューヨーク・タイムズのインタビューにそう語った。その年、ホーは同誌に「私は挑戦することが好きだし、『ノー』という答えをそう簡単に受け入れることは決してない」と話している。
スタンレー・ホーは1921年11月25日、著名な香港の家庭に生まれた。一家は世界大恐慌の時に破産する。祖父は英国の商社ジャーディン・マセソンの買弁(仲買人)で、中国や英植民地下の香港と取引をしていた。
父は別の有力な英商社サスーンの買弁だったが、1930年代に破産し、貧した家族を残して東南アジアに移住。1941年、日本が香港を占領したため、若かったホーは大学を中退し他の難民とともにマカオへ逃げざるをえなかった。
マカオで、ホーは日本人が所有する貿易会社に事務員として雇われた。雇用主は彼の商才にとても感銘し、43年、彼をビジネスパートナーに登用した。22歳の時だった。
ジョー・スタッドウェルの2007年の著書「Asian Godfathers: Money and Power in Hong Kong and Southeast Asia」(アジアのゴッドファザー――香港・東南アジアにおけるカネと権力)によると、ホーは第2次大戦中、日本人と手を組んで中国大陸にぜいたく品を密輸して最初の財を築く。ホーは後に、日本人が(報酬の)一部を食料で払ってくれたので、それをマカオの貧しい人たちに配ったと言い張った。
戦時中の密輸で得た収益の多くを投入して建設会社を立ちあげ、それが戦後の香港の建設ブームで富を生んだ。
1960年代初頭、ホーはギャンブル業界の大物としての地位を築き始める。彼は(今日の)投資グループの一部を設立し、ポルトガルの植民地当局にギャンブルが観光を促進しインフラを改善させると約束、マカオでのカジノ運営の独占権を勝ち取った。「Sociedade de Turismo e Diversões de Macau(STDM)」と名付けた独占会社と、その旗艦会社「リスボア・カジノホテル(Lisboa Casino Hotel)」は61年、すぐに国際的な名声を博す。
STDMの資産は80年代に飛躍的に増えた。中国本土に台頭した新たな資本主義階級が、成長しつつあったホーのカジノでカネを使いたがったのである。ホーは収益があがる戦略を考案した。大金を賭けて勝負するアジアのギャンブラーを呼び込む手段として、VIPルームを下請けに出す戦略などだ。ホーと下請け業者は収益を分け合った。
ホーのホテルとカジノは何から何までケバケバしく低俗だったが、その不道徳が評判になり、悪名高い三合会のメンバーや売春婦たちを引き付けた。司法当局と世界中のギャンブル・アナリストたちは、カジノ、とりわけVIPルームが、三合会が違法事業で得た収益のマネーロンダリングに利用されていると断言した。
ホーは2007年にニューヨーク・タイムズにあてた書面の声明で、そうした主張を否定しなかったが、1980年代や90年代は「賭博業にかかわった人たちは誰もがそうした非難を受けた」と指摘した。
ポルトガルによる442年間のマカオ植民地支配が終わろうとしていた1999年、マカオのカジノ支配を巡って三合会による銃撃事件や刺傷事件が起き、ギャンブラーや観光客を引き付け続けるホーの帝国とマカオの魅力は脅威にさらされた。暴力は、中国本土から治安部隊が来たことで収まる。
ホーのギャンブル事業の独占は2002年に終わった。中国当局が、マカオを外国のカジノ会社にも開放して競争させるよう命じたのだ。時を置かずして、スティーブ・ウィンやシェルドン・G・アデルソンといった米国の有力事業者が参入し、キャバレーやレストラン、五つ星ホテルを備えた10億ドル規模のギャンブル宮殿をマカオにオープンした。
「スタンレー・ホー(の事業)はあまりうまくいかなくなるだろう」。ラスベガス・サンズ社の会長アデルソンは2017年にニューヨーク・タイムズとのインタビューで、そう語っていた。「彼は本物のマーケットで勝負したことがない」と言うのだ。
だが、実際には、その勝負に拍車をかけられたかのように、ホーは事業を近代化し、新たな高級カジノホテルを建設した。中国本土の新興富裕層がマカオに大挙してつめかけ、2006年までに米ラスベガスを超える世界最大のギャンブル目的地に押し上げて、ホーの収益は膨れ上がった。
ところが、それ以降、マカオのギャンブル市場におけるホーの会社のシェアは急激に縮小する。
ホーは年をとるにつれて衰え、一番危険なライバルからの攻撃を招いてしまった。それが自分自身の一族だったのだ。彼は2009年に自宅で転倒し、7カ月入院する。
親戚との間で持ち上がった相続争いは、ホーが脳手術から徐々に回復する間に話し合いで和解をみた。一族の全員が2011年に声明を出し、こう表明した。「私たちはみんなで協力し合い、(ホーが創業した)ギャンブル・ビジネスを発展させていくことで意見が一致した」(抄訳)
(Jonathan Kandell)©2020 The New York Times
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