飼いネコほどの大きさのオスのオランウータンが救出されたのは、生後10カ月ぐらいの時だった。鼻は大部分が切り落とされていた。おそらく、母親が山刀で襲われて殺された際にやられたのだろう。
その子はインドネシア・スマトラ島の都市メダンの近くにあるリハビリテーション・センターに連れていかれ、他の孤児たちと一緒に育てられた。ビナ・ワナと名付けられ、同センターの「森の学校」に入れられた。そこで、木登りや食べ物の見つけ方、野生で生き残る術を学んだ。
ビナ・ワナは現在6歳ぐらいで、近く、熱帯雨林に帰されることになっていた。救出されたスマトラ・オランウータン300頭超をすでに森へ帰してきた野心的な計画の一環として。
ところが、近縁関係にある人間の多くと同様、ビナ・ワナの自由は新型コロナウイルスに待ったをかけられた状態になっている。
科学者が懸念するのは、もともとコウモリから人間にうつったと考えられているウイルスがゴリラやチンパンジー、ボノボ、オランウータンといった類人猿にも容易にうつる可能性があること。そうした類人猿は人間のDNAの97%から99%を共有している。そのいずれもが、絶滅の危機に瀕(ひん)しているのだ。
ウイルスが、たとえ1頭であれ野生の類人猿に感染すれば、無制限に拡散し、集団を全滅させてしまう恐れがあると専門家はみる。野生では、食い止める手立てがないだろう。
「私たちはそのことを心配し、とても深刻に受け止めている」とイアン・シングルトンは言う。ビナ・ワナを2014年に救出して以来、ずっと育ててきた「スマトラ・オランウータン保護プログラム(SOCP)」のディレクターだ。「仮にそうしたことが起きれば、大惨事になる」と付け加えた。
イヌ、ネコ、ミンク、そして飼育下のライオンやトラたちはすべてウイルスに感染してきたが、多くの場合、人間からうつったと考えられている。4月のある研究は、類人猿とアフリカやアジアのサルは「きわめて感染しやすい」と結論づけている。野生のトラが、特にその大半が生息するインドで病気にかかる可能性があることも、専門家は心配する。
寿命が50年余のオランウータンは、人間以外ではアジアで唯一の大型類人猿だ。スマトラ島とボルネオ島(訳注=インドネシア名はカリマンタン島)にだけ生息している。その85%近くが、減少しつつあるインドネシアの熱帯雨林にすむ。あとは、ボルネオ島北部のマレーシア側にすんでいる。
「ボルネオ・オランウータン生存財団(BOSF)」の会長ジャマルティン・シーテは、インドネシアにある二つのリハビリセンターの一般公開をやめると宣言し、「人間と比べれば影響が少ないかもしれないが、もっと致命的な可能性もあり、とてもそうした危険は冒せない」と言っている。
インドネシアにはアニマルパークやリハビリセンター、動物園などオランウータンを飼っている施設が33ある。同国の環境森林省は2月の早い段階で、ウイルスが動物たちの脅威になると警告した。
3月中旬、当局は動物を野生に放すすべての計画をキャンセルし、施設への部外者の立ち入りを禁じ、オランウータンを扱うスタッフに防護用具を着用するよう命じた。それは、インドネシア大統領のジョコ・ウィドドが全国に社会的距離の保持措置を課した2週間近く前のことだ。
「私たちは、人間から野生動物への感染が起こらないよう、すごく注意を払っている」とインドラ・イクスプロイタシアは言う。インドネシア環境森林省の生物多様性保全局長で、「疾病は種の絶滅を引き起こす脅威の一つだ」と指摘する。
ボルネオ島のインドネシア側にあるリハビリセンターの一つ、「オランウータン保護センター(COP)」は、センターにいる16頭のオランウータンを守る最善の方法として檻(おり)に戻すことを決断した。
「ウイルス感染を阻止するために、オランウータンのロックダウン(閉じ込め)を選択したのだ」と同センターのリハビリ担当マネジャー、ラマダニは言う。
インドネシア政府の推計では、野生のオランウータンは7万2千頭未満だが、コロナ以外の脅威にもさらされている。
約1万3700頭いるスマトラ・オランウータンは、かつては広大な島を広範囲に動き回っていたが、森林破壊、とりわけパーム油のプランテーションによって、行動範囲はスマトラ島北部に限られてしまった。
3種類いるオランウータンのうち、最も絶滅の危機に瀕している種は最近その存在が判明したタパヌリ・オランウータンで、北スマトラ州に約760頭を数える。生息地は、森林伐採や大規模な金鉱山、バタントル水力発電ダムの建設に脅かされている。
ボルネオ・オランウータンもまた森林の農地転用に脅かされており、ここ20年間の激減で、インドネシア側では4万5600頭になった。その森は、特に火が放たれて農地化されているのだ。国境のマレーシア側には1万1700頭がすんでいる。
オランウータンの生息地の減少が、地元住民と遭遇しやすい環境をつくりだしている。住民は時に、オランウータンの赤ちゃんを捕まえてペットとして売りとばすために母親を殺すことがある。
昨年、1頭のスマトラ・オランウータンが、ペレット弾(空気銃弾)で74回撃たれて失明した。10代の少年がそのオランウータンの赤ちゃんを奪おうとしたのだ。撃たれた母オランウータンはビナ・ワナがいるSOCPに連れていかれ、手術を受けて生き延びた。しかし、赤ちゃんの方は途中で死んでしまった。
センターは毎年、数十頭のオランウータンを受け入れている。その多くはビナ・ワナのように年齢が若い時に救出された。あとは、捕まえられて何年も飼われていたオランウータンで、飼い主がセンターに引き渡したか、当局が押収して連れてきたのだ。
一部は、自力では生き延びられないほどひどい傷を負っている。それでも、ほとんどが野生に戻るチャンスはある。
保護プログラムの目標は、新しい自立した個体群を二つつくりだすことだ。
その一つはスマトラ島中部の「ブキットティガプル国立公園」で、そこには185頭のオランウータンが放たれた。もう一つは(同島北西部の)アチェ州にある「ピヌスジャント森林保護区」。125頭が解放されている。
「私たちの目標は、それぞれで、繁殖が可能な成体を250頭もつこと」。2001年に同センターを創設したシングルトンは、そう話している。(抄訳)
(Richard C. Paddock)©2020 The New York Times
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