インド中央部のペンチ・トラ保護区。2020年4月に入って、様子のおかしな1頭のトラが見つかった。
10歳のオス。ひんぱんに池のほとりに姿を現すようになった。観察していた保護官は、高熱に冒されているのではないかと推測した。抗生物質を与えてみたが、症状は改善せず、最後は水飲み場で死んでいるのが見つかった。
死因は当初、実態不明の呼吸器系疾患と思われた。
その2日後。インド当局は、全国50カ所にある野生のトラの保護区に緊急警報を出した。米国ニューヨークのブロンクス動物園で飼われていた4歳のトラが、新型コロナに感染していたことが確認されたからだ。大型のネコ科動物としては、世界で初の事例だった。
インドには、世界のほぼ4分の3にあたる推定2967頭の野生のトラが生息している。ネコ・ウイルス性鼻気管炎(訳注=通称ネコヘルペス)のような呼吸器系の感染症にかかることが知られているだけに、衝撃は大きかった。
冒頭のトラの死因は、その後の解剖結果で、巨大な毛玉が腸に詰まったためと見られることが判明した。
それでも、新型コロナの危険性について、インドの大型ネコ科動物の保護にあたる国立トラ保護局(NTCA)のアヌップ・クマール・ナヤックは、警戒を強めている。「これから何が起こるか分からない。非常に危険であることが考えられ、あらゆる予防策をとるようにしている」
NTCAとインド環境・森林・気候変動省は、野生のトラが生息する全ての州の動物保護関係者に、国立公園や保護区、禁猟区に入る人の動きを制限するよう勧告している。同時に、トラをよく観察し、鼻水、せき、呼吸困難といった呼吸器系の症状に気を付けるように指示した。さらに、地元社会に迷惑をかけるトラを引き離したり、病気のネコ科動物を扱ったりする要員は、新型コロナに感染していないかどうか、野生動物と接触する前に検査を受けさせることにした。
冒頭のペンチ保護区でトラが死んだときは、NTCAは新型コロナ検査の手順をまだ作っていなかった。現在は、監視の強化を継続する一方、動物の死因を突き止めるために解剖を実施した場合は、組織などの標本を国の研究所に送ることも義務づけている。
インドでは、人々の移動を禁じるロックダウンが20年3月24日、全国に発令された。しかし、野生動物の保護に携わる関係者は仕事を続けている。
ペンチ保護区と同じマディヤ・プラデシュ州にあるカンハ・トラ保護区。362平方マイル(940平方キロ弱)の区域内には、90頭がすんでいると推定されている。「ここには、専門の獣医師たちがいて、動物病院もあるので、体制は整っている」と現地責任者のL・クリシュナモーシー。「どこでも懸念を呼んでいる問題だが、私たちも決して怠りのないようにしたい」
中国ハルビンの獣医師研究所による一連の実験では、イエネコの体内で新型コロナウイルスが効率的に繁殖し、せきやくしゃみによる飛沫(ひまつ)で動物間に感染が広がることも確認されている。20年3月に査読前の報告書がサイトにアップロードされたが、まだ専門家の間で査読されてはいない。
新型コロナが野生の大型ネコ科の動物にどう影響するのかは、科学の世界では未解明の問題だ。実験室や動物園での管理された(もしくはこれに準じる)状況下で起きることが、自然の生態系の中にいる様々な動物種の間に起きることを正確に示してくれるわけではない、とニューヨークの非営利団体・野生生物保護協会の役員クリス・ワルザーは指摘する。
その上で、新型コロナウイルスが確認されたブロンクス動物園(訳注=20年3月16日から閉園されていた)のマレートラ、ナディアの感染経路については、檻(おり)の中を高圧洗浄機で清掃したときの水が蒸発して発生したと見ている。ただ、ナディアの症状は軽く、せきと食欲の減退が認められるにとどまっている(似た症状がある他の大型ネコ科の6頭も同じような状況だ)。
トラは、野良犬がよく媒介する狂犬病や炭疽(たんそ)病、犬ジステンパーにかかりやすく、命に関わる麻疹ウイルスに感染することもあることが分かっている。さらに、ネコ科特有の感染性腹膜炎にもよくかかる。こちらは、別のタイプのコロナウイルスが、胃や腸の消化管を冒すことによって引き起こされる病気だ。
インドのトラが置かれている環境は、確かに脆弱(ぜいじゃく)だ。このため、当局が過剰に反応している側面はあるだろう。それにしても、問題の捉え方自体が誤っているとの批判も出るようになった。
インドの野生生物研究センターの所長ウラス・カランスは、新型コロナへの当局の不安は見当はずれだと考えている。ロックダウンで食料の入手が困難になった地元住民が、やむを得ず野生のトラの獲物になる動物を密猟することの方が、新型コロナそのものよりも大きな脅威になると思うからだ。
最近も、インド南部のバンディプール・トラ保護区で、シカを仕留めた密猟者7人が捕まっている。「密猟が、本当に増えている」とカランスは眉をひそめる。
ロックダウンで暮らしに困るようになれば、(訳注=密猟などトラを保護する上での)負の連鎖も拡大する。他の自然保護活動家は、保護区内や近隣での移動禁止で、人々が最小限のマキや木の実などの食べ物すら採りに出られなくなってしまう事態を警戒する。インドの野生生物の専門家ラビ・チェラムらはこのほど、環境省にあてた書簡の中で、保護区内の生活のための活動を制限したり、保護区から村民を閉め出したりしないよう訴えた。
「新型コロナよりはるかに強力ないくつもの危機要因に、インドの野生生物は直面している。生息地の分断や破壊に規模の縮小。気候変動。密猟。他の数多くの疫病だって、潜在的な脅威になっている」とチェラムはいう。(抄訳)
(Gloria Dickie)©2020 The New York Times
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