死をも覚悟したように大きく息を吸い込んで湖に入ると、すぐに何百匹ものオレンジ色のクラゲに取り囲まれる。もし、刺されたら……。
次の動きには、細心の注意が必要となる。死につながるかもしれないからだ。
といっても、ここではそれはクラゲにとってのこと。人間から受ける一撃は、死の宣告にもなりかねないのだ。
環状サンゴ礁の島の中にできた、「マリンレイク」と呼ばれる珍しい湖の一つが、インドネシアにある。(訳注=カリマンタン〈ボルネオ〉島東方の)デラワン諸島の一つ、カカバン島。その北西部にある手おのの形をしたカカバン湖だ。
ここにいるクラゲの種は四つ。海から隔離されて進化したため、外敵を刺して撃退する能力を失った。そんな「無害クラゲ」の数は数百万とも推定され、観光スポットになったこの湖の目玉になっている。
一方で、生態系は壊れやすく、クラゲの生息基盤はもろい。脅威となるのは、一つには温暖化。もう一つは、こんな秘境にまで来る観光客が増えたことだ。なにしろ平気で生息域に侵入してくる。
加えて、クラゲそのものも繊細だ。接触したりぶつかったりすると、傷つきやすい。湖には小さな魚もいて、弱ったクラゲは格好の餌食になる。このため、ここで泳ぐときは、足ひれの使用は禁じられている。泳ぎ方も、できるだけゆっくり、優しくするように指導されている。しかし、あまりにもクラゲが多く、傷つけないようにするのは至難の業だ。
観光客の増加ぶりは著しい。カカバン湖の岸辺に設けられた木製デッキは、ときどき黒いウェットスーツ姿であふれる。その様子は、米サンフランシスコの有名な埠頭(ふとう)、ピア39でひなたぼっこをするアシカの群れのように見えるほどだ。
しかも、環境に優しい人だけがやってくるわけではない。 最近、インドネシア税務当局の80人超の団体がここを訪れた。目的は、チーム作りの訓練。北カリマンタン州のタラカンから、船で3時間かけてやってきた。
湖に入ると、手をつないで大きな輪を作った。多くは救命胴衣を着けていて、水の中は見ていない。足を思い切りばたつかせ、周りの生き物のことは念頭にないようだった。
メガホンを手にしたリーダーが、大声で指示を出した。水に浮かんだ横断幕を誰かが広げると、ドローンで空中撮影が始まった。
これを見ていたダイビングガイドの一人は、この撮影のために数百匹のクラゲが死んだと見ている。
この地球上には、約200のマリンレイクがある。塩水湖もあれば、淡水湖もある。その一部では、クラゲは進化して刺さなくなった。海にいる天敵と出会うことがなくなり、身を守る手段を使う必要もなくなった。いや、正確には刺しはするが、感じられないほど弱くなってしまった。
科学者にとって、隔離された環境にあるマリンレイクは、実験室の水槽のようなものだ。温暖化で海水の温度が上がるとどうなるのか。それを先取りして観察できると考えられている。
「マリンレイクは広い海と比べて、より水温が高く、酸性度が強く、酸素が少ない状態にある。そこには、将来の気候条件があるともいえる」とインドネシア科学院の海洋気候の専門家Intan Suci Nurhati(以下、インドネシアの人名は原文表記)は語る。
何千年も前は、カカバン湖は海とつながった礁湖だった。しかし、島全体が隆起する中で、広さ92エーカー(37万平方メートル余)の現在の湖が生まれ、周囲は高さ130フィート(約40メートル)を超える丘に取り囲まれるようになった。
湖水は、塩水と雨水(淡水)が入り交じり、水温は周辺の海よりはっきりと高い。地下部分の亀裂から海の水がしみ込んではくるが、生き物が入ってくることはない。
カカバン島は、ほとんどが無人の約30の島々から成るデラワン諸島の一つで、カリマンタン島からは約35マイル(60キロほど)離れている。セレベス(訳注=インドネシアでは「スラウェシ」)海の一角にあり、世界でも屈指のダイビングスポットになっている。海水の透明度が高く、オニイトマキエイやウミガメ、ジンベイザメと出会うことができる。
「クラゲの湖」として最も有名なところは、太平洋に浮かぶパラオにあった。ところが、2016年にクラゲの数が急減した。エルニーニョ現象による干ばつと、それに伴う塩分濃度の上昇が原因とされている。それは、クラゲが環境の変化にいかに弱いかを裏付けてもいる。
一方のカカバン島。幸いクラゲはまだ健全な状態にあり、生息数も多い。それに比べて島に住む人間となると、2人しかいない。Suari(28)とおじのJumadi(48)だ。親族が、木製デッキがある岸辺の一帯を所有している。
多いときには、数百人にものぼる観光客が帰った後は、孤独さがこの島を支配する。「本当に静けさそのものになる」とSuariはいう。
近くのマラトゥア島には、約4千人が住んでいる。デラワン諸島では最大の人口で、多くはイスラム教徒だ。そのほとんどは、フィリピンから8世代前にやってきたバジャウ族。潜水にたけていることで有名だ。
この島の村の一つで村長をしたこともあるDarmansyah(60)によると、今でも漁業を営む島民は多い。「バジャウ族は、農業には関心がない。向かう先は、海と決まっている」
といっても、自分はもう漁業で暮らしているわけではない。他のほとんどの島民と同じように、盛んになってきた観光で生計を立てている。島に空港ができ、ダイビングのリゾート地がいくつも開発されるようになったおかげだ。観光客がもっと来ることを見越して、ホームステイ方式で宿泊できる施設の建築が増えており、自身も二つ建てている。
マラトゥア島には、少なくとも2カ所にマリンレイクがある。その一つ、ハジブアン湖にはかつてカカバン湖に匹敵する数のクラゲがいた。ところが、湖を所有するHartono(62)が手っとり早くひともうけしようとして失敗し、ほぼ全滅してしまった。
ウミガメのタイマイを育て、(訳注=べっこうの材料になる)甲羅を売って稼ごうと、30匹以上を湖に放った。ほどなくして、タイマイは絶滅の恐れがあり、保護の対象にされているため、違法行為になることを知ったが、後の祭りだった。タイマイはクラゲを常食としており、ほとんど食べ尽くしてしまったのだった。
「後悔してるよ。カカバン湖より多くのクラゲがいたんだが、観光資源になるなんて思ってもみなかった」とHartonoは肩を落とす。なんとかタイマイを捕まえて海に戻し、クラゲの数を回復させたいと考えている。
地元の観光当局は、4万ドル以上をつぎ込んで、この湖の岸辺に木製の橋やデッキ、日陰の下で座れる施設を作ろうとしている。
自然保護そのもののために自然を守ることには、Hartonoは関心がない。でも、こうして自分の土地に公的資金が入ることは、ありがたく思う。だから、当局の意向にそって、湖畔では木を伐採したり、家を建てたりしないようにしている。
「本当は家を建て、ここを発展させたい」とHartonoはいう。たばこの吸い殻を湖に投げ込み、「このまま放っておいたら、今と何も変わらないからね」と話すのだった。(抄訳)
(Richard C.Paddock)©2019 The New York Times
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