賞というのは、09年に受けた米国アカデミー賞短編アニメーション賞はじめ数々の栄誉のこと。所属していた映像制作会社ロボットで制作した短編「つみきのいえ」により、31歳で「アカデミー賞監督」の称号を手にした。水没していく町で暮らすおじいさんの話は、12分の短編ながら奥行きがあると絶賛された。なのに複雑な思いを感じ続けてきたと振り返る。07年から08年の制作当時を、ぽつりぽつり語り始めた。
「自分の考えを全部出そうと取り組んだ」「スタッフ16人で1年がかり。みな頑張ってくれたのに、監督としてまとめきれなかった」「達成感のなさだけが残った」
本人がまったく納得していない作品が世界最高峰の賞に輝き、ギャップに戸惑う。周囲の期待が高まり、海外から合作の誘いが寄せられた。また、加藤の口が重くなった。「作りたい気持ちはあったが、描きたい気持ちとつながらなかった」「作品として落とし込めなかった」
後に東日本大震災の津波被害を受けた宮城県気仙沼市を訪ね、街並みが奪われた現実を目の当たりにし、水揚げされたまま腐っていく魚の臭いにも言葉を失った。「穏やかに沈んでいく町なんて、頭の中だけで考えていたイメージ」と思い知り、ますます気分がめいってきた。なぜアニメーションを作るようになったのだろう。加藤は振り返り始めた。
■「なつぞら」のモデルから送られた手紙
一人っ子の加藤は幼稚園のころ、鹿児島市内で祖母が営む化粧品店で夕飯までの時間を過ごした。大人の女性に囲まれ、話し相手はいない。自然と紙に絵を描いて独り遊びをするようになった。
多摩美術大グラフィックデザイン科に進んだのは「幅広い分野の絵を描きたい」と考えたからだが、3年の時にアニメ教育の先導者だった教授の片山雅博(故人)の講義に目を開かれた。
毎週水曜の午後、片山は国内外の作品を見せ、解説した。とりわけ、ロシアのユーリー・ノルシュテインの切り絵のアニメーションに、加藤は「絵が動くと、こちらまで生き生きしてくる」のを実感した。やがて、絵に命を吹き込むアニメーションの世界に夢中になる。
片山は加藤の才能を見抜いた。卒業後も見守り続け、知人を紹介してくれた。NHK連続テレビ小説「なつぞら」の主人公なつのモデルとされる奥山玲子(故人)もそのひとりだ。
奥山は、04年に別の作家が国際的な賞を受けたニュースを見て、加藤にも大きな賞を狙うよう促す手紙を送ってくれた。それまでに発表していた「The Apple Incident」(01年)「ROBOTTING」(00年)「或る旅人の日記」(03年)について、それぞれの「シャープな批評性」「たくみな動きとセンスあるメタモルフォゼ」「ペーソスあふれる詩情と美しさ」を挙げて加藤の多面的な優れた資質をほめた。その上で「あのシャイで無口な心の中で次はどんなイメージを紡いでいるのでしょうか。期待をこめて応援しております」と激励した。「つみきのいえ」を見ないまま07年に他界した奥山の手紙は、今も加藤の宝物だ。
片山も、11年の震災前に56歳で急逝した。加藤の受賞を喜び、母校での凱旋講演を持ちかけてきた時の会話を思い出す。「とても、そんな気にはなれません」「なんでだよ」。あの時、わがままを言って甘え、先生にゆるしてもらえたのだと、今になって思う。
■僕はオーケストラでなくバンドだ
「まるで、おどおどしている子どもみたいでしたね」。展覧会企画や出版を手がける「ブルーシープ」代表の草刈大介(47)は、受賞直後の加藤との出会いを振り返る。15年に起業するまで草刈は朝日新聞社で展覧会企画に携わり、全国5都市で加藤の個展を開いた。草刈との出会いは「大きな節目でした」と加藤は言う。
これ以上「つみきのいえ」に触れられたくないと渋る加藤に、草刈は「じゃあ、いま考えていることをアニメーションにしましょう」と言った。ちょうど自分の歩みを振り返っていたころ。自身の記憶に基づく新作を提案し、実験的な七つの短編の連作「情景」が生まれた。
水平線に浮かぶ船など心の奥底に沈み込んでいる記憶をたどり、スケッチのように下描きの線を残した。絵を整えれば整えるほど、動かしてみると生々しさが失われてしまう。そのことを加藤は経験的に知っていた。だから、あえて線を残して、絵を動かしてみた。すると「心の重しを動かすような表現になった」と加藤は言う。
納得するまで加藤は制作を続け、展覧会の開幕ぎりぎりに駆け込むようにアニメーションが届いた。まだだれもいない展示室で、草刈はひとり新作を見た。その時のことを、今も鮮明に覚えている。「すごいなと思えてきて、涙が止まらなかったのですよ」
「情景」が完成した翌13年、巨匠・高畑勲(故人)が遺作「かぐや姫の物語」を発表した。下描きの線を残し、余白をいかした絵が動き、生々しいリアリティーが生まれるのを見た加藤は「情景」での試みに賛同してもらえた気分になった。でも、高畑のようにスタッフをまとめ上げる力はなく、企画書は書けてもなかなか完成にこぎつけないのが自分だ。
加藤は、アニメーション制作を好きな音楽にたとえてこう話す。
腕利きの描き手を敏腕監督が指揮し、長編に仕上げる交響曲みたいなやり方がある。一方でベース、ギター、ドラムの3人だけのバンドのように簡素ながら躍動感あふれるアニメーションもある。「オーケストラでないといけないと思い込んでいたのです。僕は少人数のバンドのタイプなのに」。40歳を目前に加藤は気づき、会社という組織を離れた。
フリーになり、また歩み始める。17年には「NHKみんなのうた」のアニメーションを担当。翌18年夏に都内のギャラリーで水彩画展を初めて開き、今年8月までの1年間、ファッションブランド「45R」の公式サイトで歳時記のような短編を毎月発表した。
そして今、日本ユニセフ評議員だった岡留恒健(85)と新しい企画を進める。岡留は元国際線パイロット。空から見た地球を憂え、迫り来る気候変動などに警鐘を鳴らす。地球規模の問題提起を加藤なりに解釈し、一人ひとりはどう生きていけばよいのかと胸の奥深く呼びかける短編を提案している。
2人をつないだのは、ロボットの創業者の阿部秀司(70)だ。アカデミー賞授賞式には社長として加藤とともに出席したが、翌年に退き、いまは個人で映像制作の事務所を経営している。
「元々まじめな完璧主義だったのが、すごい賞をもらって、恥ずかしいことできないなと、身構えだした」。阿部は加藤の苦しみとアニメーションに注ぐ情熱を知るからこそ、岡留から話を聞き「久仁生君しかいない」と確信した。「心の深いところでピリピリ震え、訴えかけるアニメーションを作れるのは彼だけだ。勉強家だし、大人になったよ」
応えるかのように加藤は話す。「生き生きとした感じや生々しさを表現し、見ている人の心の蓋をずらすようなアニメーションを追い求めたいのです」。ひとり、試みは続く。(文中敬称略)
■Profile
- 1977 鹿児島市に生まれる。小学校では剣道、中学では野球をする
- 1993 市立鹿児島玉龍高に入学。バンド活動でドラムに夢中になる。メンバーのひとりは、後にジャズバンドSOIL&“PIMP”SESSIONSのトランペット奏者、タブゾンビとして有名になる
- 1997 多摩美術大グラフィックデザイン科に入学
- 2000 同級生の漫画家クリハラタカシと共同で初作品「ROBOTTING(ロボッティング)」を発表
- 2001 大学卒業後に映像制作会社「ロボット」に入社
- 2003 入社後初の短編「或る旅人の日記」を発表。作編曲家の近藤研二と出会う
- 2008 短編「つみきのいえ」を発表。アヌシー国際アニメーション映画祭のアヌシー・クリスタル賞を受賞。文化庁メディア芸術祭賞のアニメーション部門大賞を受ける
- 2009 「つみきのいえ」で米国アカデミー賞短編アニメーション賞を受賞
- 2011 「加藤久仁生展」開催(13年まで青森、東京、愛知、鹿児島、兵庫を巡回)。連作「情景」に着手
- 2017 春にロボットを退社し、フリーのアニメーション作家になる。「NHKみんなのうた」の「風と共に」(宮本浩次作詞作曲)のアニメーションを担当。秋に東京都内から鎌倉に引っ越す
- 2018 東京のギャラリーで初の絵画展を開く。9月から19年8月までの1年間、ファッションブランド「45R」の公式サイトで毎月短編作品を発表
■Memo
海と船…父親の仁朗(まさお)は国内航路の客船の乗務員で、のちに船長になった。父に連れられて訪ねた海の香りや船の油から放たれる独特のにおいに、幼いころからひかれてきた。「海や船は心のなかに広がる原風景になっている」と言う。
ウサギ好き…夫婦そろってウサギが好き。鳴き声を上げないので「静寂の中にいて、こちらから気持ちを向けてあげなければいけない生き物だと思う」。幼稚園のころは空想の中でウサギを飼っていた。木箱にワラを敷き詰め、えさや水を置き、あたかも生きているウサギがいるように独り遊びをした。結婚後に飼い始めた片耳が垂れたウサギのアンコちゃんが2年半前に亡くなり、ずっと寂しさを感じている。