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マゼラン出航500年 「本当の世界一周は我が国の航海士」と訴えるスペイン

ニューヨークタイムズ 世界の話題
Replica of Magellan's ship Victoria is docked before the reenactment of Magellan's embarkment during the commemoration of 500th anniversary of the first expedition that circumvented the globe, in Sanlucar de Barrameda, Spain, September 20, 2019. REUTERS/Jon Nazca
マゼラン船団のうち最後の1隻となってスペインに帰還したビクトリア号の複製。帰還当時はエルカーノが率いた。世界一周500年の記念帆走行事でサンルカル・デ・バラメーダに入港した=2019年9月20日、ロイター

ポルトガル人の探検家フェルディナンド・マゼラン(訳注=ポルトガル語ではフェルナン・デ・マガリャンイス)が初の世界一周の航海に旅立ったのは今から500年前、1519年の9月20日のことだった。

マゼランの探検は、世界の交易を一変させる功績を残し、その名は歴史書に刻まれた。マゼランはポルトガルが誇る歴史的人物であり、同国は2017年、いわゆる「マゼランルート」に世界遺産の資格が与えられるようユネスコ(国連教育科学文化機関)に申請した。

マゼランの「世界一周」航海には、しかし、別の国がマゼランとは違う航海士の名前を挙げ、少なくとも相当強く異議を唱えている。19年の出航500年記念に際し、スペイン――マゼランの「世界一周」は当時のスペイン国王がスポンサーだった――が、自国の功績と同国出身の航海士フアン・セバスティアン・エルカーノの再評価を目指しているのだ。

マゼランは5隻の船を率いてスペインの港から出航した。しかし、彼自身は世界一周の半分しか達成しなかった。今は彼の名前が付されている南北アメリカ大陸南端の海峡――マゼラン海峡――を越え、太平洋を航海。到着したフィリピンで、戦闘中に殺害された。

Portuguese explorer Ferdinand Magellan holding navigation instruments.Hand-colored woodcut of a portrait (North Wind Picture Archives via AP Images)
ポルトガル人探検家フェルディナンド・マゼラン=North Wind Picture Archives via AP Images

3年間に及んだ世界一周を果たしたのはわずか1隻、スペイン・バスク地方出身のエルカーノが率いた船(訳注=ビクトリア号)だけだった。

「いつもマゼランばかりに関心が寄せられてきた。しかし、皆さんは知るべきだ。最初の世界一周はスペイン国王が企画したのであって、費用もスペインの財政でまかなわれ、偉大な、しかし不幸にも忘れ去られたスペインの航海士によって成し遂げられたのだ」。スペイン王立歴史アカデミー会長のカルメン・イグレシアスはそう語り、「500年記念行事は、(マゼランとエルカーノの)関係についてぜひともバランスを取り戻す機会にすべきだ」と付言した。

スペインとポルトガルで行われる記念行事は、そのほとんどがマゼランとエルカーノに焦点が当てられるだろう。だが、3年間に及んだ航海中には、船員たちと地元の人びととの暴力沙汰も起きた。マゼランを殺害した部族兵を率いたラプ・ラプは、フィリピン国内ではヨーロッパの帝国主義に抵抗した英雄として称えられている。

初の世界一周航海は、スペインとポルトガルがそれまでに征服した広大な地域の管轄権を両国で二分した条約(訳注=1494年のトルデシリャス条約)から25年を経て、ヨーロッパが強固な植民地支配を確立する踏み台になった。

イグレシアスは、エルカーノがマゼランに追いつけないでいることは認め、その理由の一つは、スペインがエルカーノの功績を評価し損ねた点にあるとした。エルカーノの出身地ゲタリアは美しい海岸の町で、最近ピカピカのミュージアムが建てられた。しかし、これは同町出身の有名なファッションデザイナー、クリストバル・バレンシアガを記念する美術館だ。町には、エルカーノの記念碑と2体の像が立っているが、彼の名前が一番知られているのはミシュランの星付きレストラン「エルカーノ」だ。今のところ、おそらく航海士エルカーノの参拝客と同じくらい多くの巡礼者(訳注=付近をサンティアゴ巡礼の道が通っている)を引き付けている。

「エルカーノは我々の海への愛着と理解を代表する人物でもあったが、我々は単純に彼を高く評価してこなかった」とゲタリアの400人の漁民を束ねる漁業組合長Emeterio Urrestiは言った。

ポルトガルとスペインは、外交論争の末、初の世界一周航路を誇るべきものとしてユネスコに共同申請した。

両国は今後3年間にわたって数十もの世界一周500年記念イベントを実施する。現在スペインのセビリアで開催中の展覧会やポルトガルのポルトで20年に予定されている展覧会を含め、いくつかのイベントは両国の共同開催で祝う。2019年9月20日、500年前のこの日にマゼランらが出港したサンルカル・デ・バラメダ(訳注=スペイン・アンダルシア州)では、記念の祝賀会が開かれた。

「我々は一つの誤解からスタートした。というのは、初の世界一周はそれぞれの国に固有の物語がある歴史のエピソードだからだ」と語ったのは、記念行事プロジェクトを立ち上げたスペイン教育省の元副局長カミーロ・バスケス・ベロだった。

ベロは「我々にとって、マゼランは出発点として非常に重要な人物だが、彼は世界を一周する計画など決して立てたことはなかった」とも話した。「我々としてはもちろん、世界一周を初めて成し遂げ、グローバル化への開拓的貢献をしたエルカーノに焦点を当てたい」

マゼランは「香料諸島(訳注=インドネシアのマルク諸島、英名モルッカ諸島)」への新航路を開拓したかった。しかし、彼の計画は当時のポルトガル王マヌエル1世に拒否された。そこで彼はスペイン国王カルロス1世を説得して財政支援を求めた。マゼランは多国籍の乗組員を束ねて航海に出た。航海記録は同行のイタリア人学者アントニオ・ピガフェッタによって記された。

エルカーノも大きな航海実績をあげ、ポルトガルのチェックポイントを懸命に避けながら、アフリカを回ってスペインに戻った。しかし、ポルトガルの歴史家はほとんどマゼラン一色だ。マゼランこそ探検航海の中心人物であり、大西洋から彼が命名した「太平洋」を横断した最初の探検家だ、と。エルカーノは二番手だった。しかも彼は1520年にパタゴニア(訳注=アルゼンチン南部)で起きた乗組員の反乱に加担した。反乱はマゼランがかろうじて鎮圧した。

「航海はマゼランからエルカーノへ引き継がれた。とはいえ、マゼランの行動は自分の意志に基づいていたのであって、エルカーノは仕事を成し遂げたものの、彼が始めたわけではない」とポルトガルの歴史家João Paulo Oliveira e Costaは言った。「エルカーノは記録を達成したが、マゼランは地理学的知識を変えた。だからこそ当時からマゼランがエルカーノより広く認知された」とも付け加えた。

スペインでエルカーノの名前をもっと広めようとしてきた人たちにとって、それは苦悩の闘いだった。「マゼランなら誰もが知っている。私はもうエルカーノがどんな人物だったのかを伝える努力に疲れてしまった」と言ったのはマドリードを拠点とする国際問題研究グループ「王立エルカーノ研究所」の会長エミリオ・ラモ・デ・エスピノサだった。

スペイン・カディス港から出航するスペイン海軍の訓練船フアン・セバスティアン・エルカーノ号=2010年1月3日、AP

スペイン王立歴史アカデミーは2019年3月、エルカーノの重要性に関する事実を明確化するための文書を発行した。同文書は「元々スペイン人が始め、完全にスペイン人主体で行われた冒険だったことは明らかである」とも強調した。会長のイグレシアスは、エルカーノが長い間「惰性で」無視されてきた、と言った。「彼について、もっと多くのことが教えられ、話される時が来た」とも話した。

しかし、エルカーノの功績認知に立ちはだかってきた要因のひとつはスペインの政治的分断かも知れない。スペイン海軍の4本マストの訓練船「フアン・セバスティアン・エルカーノ」が7月、地元のある協会の招待でゲタリアに入港したが、町の政治家たちは不満だった。

エルカーノを称えて行われた記念帆走には多くの人びとが詰めかけたが、町長は出席せず、帆走中に抗議する町民もいた。

「エルカーノはバスク人だ。この祝賀会は我々の地(バスク地方)の特異性に焦点を当てるべきだ」と町長のHaritz Alberdi Arrillagaは不満を口にした。Arrillagaはバスクの分離独立派左翼政党「E.H. Bildu(エウスカル・エリア・ビルドゥ)」の代表でもある。

バスク人の歴史家Xabier Alberdiは、ゲタリアから東に15マイル(約24キロ)のサンセバスティアンにある海軍博物館の館長。彼の話によると、19世紀に歴史家でスペインの首相になったアントニオ・カノバス・デル・カスティージョが、エルカーノについて「一人の冒険家」に過ぎないと言い捨てて以降、「政治的な愚かさ」がエルカーノの記憶を抹殺してしまった、という。

スペイン内戦(1936~39年)の時代には、バスク民族主義への恐れから「スペイン人は、コロンブスに次ぐ偉大な探検家はエルカーノよりマゼランにしておいた方がいいと思ったのだ」と歴史家Alberdiは解説した。

エルカーノの生涯に関する資料はきわめて少ない。それでもAlberdiは、少なくとも彼の実家の所在を示す薄汚れた飾り額くらいは修復すべきだと言った。エルカーノの記念館を計画する者などは一人としていない。それよりゲタリアの町は、バレンシアガの美術館を巻き込んだ詐欺スキャンダルに揺れている。2019年6月、文書偽造と美術館建設のための公的資金を乱用した罪で元町長が実刑判決を受けた。美術館の建設費は3千万ユーロ(1ユーロ=118円換算で35億4千万円)で、当初予算の6倍に跳ね上がったのだった。

「我々はエルカーノよりむしろバレンシアガに、と美術館建設を決めた。気づいたら、こんな大問題となって我々にのしかかっている」。漁協組合長のUrrestiはそう言った。(抄訳)

(Raphael Minder)©2019 The New York Times

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