これらの靴は、足に病気やけががある人のために、幅を広くしたり、底を厚くしたりする医療用の「整形外科靴」。義足なども手がける義肢装具士が、医師の処方を元につくるが、色やデザインは地味なのが一般的だ。
だが、中井の靴がすごいのは、見た目だけでなく機能面でも絶賛されている点だ。生まれつき脳性まひの大学職員、一ノ瀬和紀(34)は、整形外科靴は「ダサい」と嫌い、普通の靴を履いて、よく転んでいた。中井に「全部かなえる靴をつくるから」とやさしく言われ、注文して驚いた。好みのデザインに仕上がり、歩行も楽になった。「ライブに行く回数が増えた」と喜ぶ。
当然のように患者のリピート率はほぼ100%。会社員の勢理客(せりきゃく)英男(58)もその一人だ。8年前から捻挫が続くような痛みを覚え、ほかで整形外科靴をつくった。一時、痛みは消えたが、しばらくすると再発した。「足をぶった切ってくれ」「こんな足はいらない」と、たびたび妻に叫んだ。4年ほど前、中井と出会った。1カ月ほどで完成した靴を履くと、足首からふくらはぎを支える「芯」がしっかり固定された。足の痛みはずっと消えている。靴が古くなり、買い替えのために訪れた。
こんな「魔法の靴」をどうつくるのか。中井は「僕は普通につくっているだけなんです」とさらりと言う。だが、勢理客の足を測る様子を見せてもらうと、「天賦の才」という言葉が頭に浮かんだ。足裏や足首を、両手でなでるように触り、骨盤や肩の位置など全身を観察。関節の動きや筋肉の使い方にも目を配る。冗談が飛び交う明るい雰囲気の中でも、中井の視線は鋭い。
足型のずれは、わずか0.1ミリでも患者が靴に違和感を覚えてしまう。少しの狂いもなくつくれるのは、目で患者の体を測る「目尺(めじゃく)」の能力が際立っているからだ。ドイツの修業時代にも一目置かれた。「最後は目尺になるんです。ドイツでも、僕にはそれがあると言われました」
■半年の修業で、別の工房へ
飄飄とした雰囲気とは裏腹に、常識の枠を飛び出す大胆さと視野の広さで周囲を驚かせてきた。5歳のとき、父の広満(66)がスキーに連れて行くと、初めてなのに「自分でやる」と一人で滑った。北海道の稚内市に住んでいた中1の夏休みには突然、「札幌まで行ってくる」と言い出し、約600キロを自転車で往復。翌年は北海道を一周した。「年齢も職種もいろんな人に巡り合えた。全部自分で決められるし、ひたすら楽しかった」
高校は進学校だったが、ボイラー整備士の父に憧れ、「手に職をつける」と決めた。当時はスニーカー人気の絶頂期。ブームになったエアマックスなど、流行のモデルを愛用していた。靴をつくって人の役に立ちたい。そんな思いが募っていたある日、テレビ番組で、地雷で足を失ったカンボジア人に、義足をつくる日本人を見た。義肢装具士の仕事に惹かれた。
医療系の専門学校に進み、整形外科靴の本場がドイツだと知った。語学は「最も苦手な教科」だったが、20代でドイツに行くと目標を定めた。ドイツ最高位の職人はマイスターと呼ばれ、生理学などの医学的知識も学ぶ。当時、日本人で資格を持つ人はおらず、俄然やる気がわいてきた。
そのころ、不思議な巡り合わせを感じる出来事もあった。実家の物置で見つけた写真の中で、幼いころの中井が、ふくらはぎまである茶色い革靴を履いていた。整形外科靴だ。広満によると、かかとが内側に入る「内反足」と診断され、2年ほど使っていたという。陸上やバスケットボールが得意なスポーツマンに成長したこともあり、本人の記憶には残らなかったようだ。
卒業後、靴の知識を深めるため、ドイツ流を取り入れていた梶屋正吉(82)の工房に入った。ドイツ語を勉強する時間にもなった。3年後、ドイツでマイスターの手前の資格「ゲゼレ」の修業を始めた。だが、「修理ばかりでオーダーメイドの注文が少ない」と不満が募った。一つの工房で修業を終えるのが通例だが、片っ端から電話をかけ、わずか半年で別の工房に移った。最初のボスが怒っていたと聞いたが、気にもとめなかった。
その後、ぐんぐん腕を上げ、厳しいドイツの国家試験に合格。整形外科靴マイスターの称号を得た。義肢装具士の中でも「ただ1人」という。9年間の修業で得た最大の成果は自信だ。「今でも立ち止まると、本場の技を知っているという事実が前を向かせてくれる。日本にずっといたら自分が納得していなかった」
■薬局みたいに身近な存在に
帰国後、梶屋の工房を継いだ。「歩く喜びをより多くの人に感じてもらいたい」との思いからだ。ドイツでは、歯医者に通うような頻度で、ちょっとした痛みでも、人々が足の医者にかかっていた。日本では、気軽に相談できる場所さえない。こんな状況を変えようにも、一人で生涯につくれる靴の数はしれている。すでにある工房を継ぎ、仲間をつくることが近道になると考えた。
これまでの5倍の広さとなる500平方メートルの新工房を都内につくって移り、患者のケアや病院のフォローを手厚くした。ホームページやSNSでの情報発信も始めた。靴関連の学会や業界の会合にも精力的に顔を出している。足の総合病院「下北沢病院」の院長菊池守(43)は昨年、ドイツ人の理学療法士を招いたセミナーで、ドイツ語で質問攻めにする中井に目がとまった。すっかり意気投合し、週に2回、病院に来てもらうようになった。学会などで知人を紹介しようとしても、いつもその前に仲良くなっている。「彼の辞書には『人見知り』って言葉があるのかなと思う。物怖じせず、どんな場にもすぐに溶け込む」と驚く。
改革が実り、工房は毎年20%の増収が続く。ベテラン2人だった職人の数も、今や14人。ほとんどが20代だ。とても順調な歩みに見えるが、やはり中井は「特別なことはしてないんだけどな~」と首を傾げた。ただ、その後にこうも付け加えた。「僕一人でできたなんてこれっぽっちも思ってません。その時々で、出会った人たちが手を差し伸べてくれたんです」
今月、神戸に初の支店を開き、念願だった足に悩みを抱える人が相談できるスペースもつくった。靴のデザイナーと組み、百貨店に売り場を設ける計画も進めている。「人生100年時代。歩けない人を減らすのが社会貢献です」。目指すは、病院のそばに薬局があるように、足のトラブルに対応できる場所を増やすこと。全国展開を見据え、今日も歩き続ける。(文中敬称略)
■Profile
- 1980 札幌市で、父・広満、母・慶子の次男として生まれる
- 1994 夏休みに自転車で2週間かけて北海道を一周
- 1999 早稲田医療専門学校の義肢装具学科(現・人間総合科学大学)に入学
- 2002 義肢装具士の国家資格を取得し、梶屋製作所に入所
- 2005 仕事を辞めてドイツに渡り、バイエルン州の工房2カ所で修業
- 2009 「ゲゼレ(職人)」の国家試験に合格。首都ベルリンの工房で研鑽を積む
- 2013 ドイツ整形外科靴マイスターの試験に受かり、帰国
- 2016 梶屋製作所の代表取締役に就任し、名称を「マイスター靴工房KAJIYA」に変更
- 2019 神戸市灘区に初めての支店を開設
■Memo
料理はプロ並み…家族で囲む夕飯まで待てず、小学生の頃から料理本を読んで、「あんかけ焼きそば」などをつくるようになった。専門学校時代も居酒屋で調理のアルバイト。「調理師の免許を持っている」と勘違いする人もいるほどの腕前だ。同時期にドイツで修業した友人の宮嶋明子(45)は「よく仲間を集めて、おいしい料理をふるまってくれた」。最近は酒の種類に合わせて料理をつくることが多い。
社員旅行は「フジロック」…ライブやコンサートに行くのが気分転換という中井の発案で毎夏、スタッフと一緒に国内最大級の野外音楽イベント「フジロックフェスティバル」へ。ペンションを借り切り、家族やパートナー同伴可の2泊3日。「自分が一番元気。気がつくと、みんな疲れて帰りたがっている」。いつまで続けるか悩んでいる。