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バスケ日本代表強化の重責担う 「五輪で金」を公言する男の「修行時代と友」

Breakthrough 突破する力
「八村塁と渡邊雄太という2人のNBA選手。何十年かに1回、たまたま良い選手が固まったという偶然にしてはいけない」と語る東野智弥=2019年8月、東京都北区、仙波理撮影

「男子バスケットの日本代表は、オリンピックで金メダルをとる」――。一瞬、耳を疑うようなことを、東野智弥(48)は臆面もなく口にする。

W杯に向け、記者会見に臨む男子バスケットボール日本代表候補の選手たち=仙波理撮影

日本バスケットボール協会(JBA)の技術委員長は、日本代表の強化を仕切る責任あるポスト。夢を語るのは大切だが、男子の日本代表は1976年モントリオール五輪以来、五輪に出場すらしていない。日本バスケット界はたしかに最近、明るい話題が続いている。昨年10月、渡辺雄太(24)が日本選手2人目の米プロバスケット(NBA)選手になり、今年6月には八村塁(21)がNBAウィザーズからドラフト1巡目指名された。だが、その前から、東野は「金メダル」を目標に掲げてきた。

W杯に向け、記者会見に臨む男子バスケットボール日本代表候補の選手たち。NBAの八村塁⑧、渡邊雄太⑫の姿も=仙波理撮影

代表監督の選考、代表選手と所属チームの調整、若手の育成、海外との親善試合の調整……。365日、丸一日休める日はない。元バレーボール日本代表で、JBA会長の三屋裕子(61)は東野を高く評価する一人だ。「マグロみたい。自動巻きの時計と一緒で、動いていないと止まってしまうほど働く」

バスケットと出合った小学3年の頃から、身体能力は群を抜いていた。石川県加賀市の中学時代、陸上部の助っ人として走り幅跳びや走り高跳びの地区大会で優勝してしまうほど。卒業後は、福井県のバスケットの強豪・北陸高に進んだ。同級生で、後に日本を代表する司令塔になる佐古賢一(49、現・男子日本代表アシスタントコーチ)は、入学前の練習で驚いた。「右手でも左手でも3点シュートを決める繊細なシューター。身長180センチもないのに、軽々とダンクも決めていた」

高校総体で初優勝した北陸高。東野(右から3人目)、佐古賢一(同2人目)、西俊明(右端)=西明生さん提供

当然、中心選手になると期待されたが、不遇だった。入学前の練習でいきなり足首をけが。復帰しても、肝心の場面でシュートを打たない。佐古が「打て」と怒鳴るほど、マークがない場面でもパスを出してしまう。本人は「周りの素晴らしい選手を優先しただけ」と言うが、消極性が目立った。高校総体で全国優勝のメンバーだったが、佐古らの陰に隠れていた。

■21歳で逝った友の言葉

早稲田大学に進学後も殻を破りきれず、1年生で交通事故に遭う不運にも見舞われた。試合に出してもらえず、腐ってパチンコに走りそうになっていた時、叱ってくれたのが北陸高の同級生、西俊明だった。

佐古の控えだった西は、「コーチとして日本代表を目指す」と、米国でコーチ学を学ぶと決めた。ところが、合格通知をもらった直後、精密検査でがんが見つかった。病巣は鼻の奥で、手術は難しい。体調が万全ではないのに実家の広島から東野のもとを訪れ、こう諭した。「試合に出るだけが全てじゃない。バスケにはどんな存在でもかかわれるんだ」。まもなく、西は亡くなった。21歳だった。自分のふがいなさを恥じた東野は、指導者としてバスケットにかかわる道を考え始めた。

大学卒業後、実業団のアンフィニ東京で3季プレーし、25歳で引退して退社。周囲の反対を押しきり、親族から借金をして本場、米国へ留学した。ところが、自信があったはずの英語が通じない。ファストフードばかり食べて体調を崩し病院に運ばれた。「帰りたいと何度も思ったけど、強くなるしかなかった」

知人のつてを頼り、米ルイス・アンド・クラーク大のコーチに弟子入りし、練習用具の準備から遠征の運転手まで務めた。体当たりの努力が認められ、アシスタントコーチに抜擢(ばってき)された。

米国の指導スタイルは、日本と大きく違っていた。指導者の経験則に頼りがちでその場しのぎの日本に対し、米国は対戦相手を研究し、綿密に作戦を立てて準備する。選手の個人練習も実戦に即し、個人ごとに課題に応じてメニューを作っていた。

3年間の米国修業が東野を変えた。堂々とした物言いと押しの強さに、佐古も目を見張る。「外国人選手が文句を言うと萎縮してしまう指導者がほとんどなのに、英語でどんどん言い返す」

2010年3月、日本リーグ・レラカムイ北海道の監督を務めていたころ=吉本美奈子撮影

日本のバスケット競技人口は、高校生だけで約15万人。全競技を通じてサッカーに次いで2番目に多いのに、90年代に大ヒットしたバスケット漫画「スラムダンク」(井上雄彦作)の人気も、2006年に日本で開催された世界選手権もメジャースポーツに押し上げるには至らなかった。一方で、JBAは内輪の主導権争いに明け暮れ、男子の国内リーグは分裂し、国際バスケットボール連盟から制裁を受ける始末。まさに、混乱状態だった。

「自分なら変えられるのに……」。当時、苦々しい思いで見ていた東野に、Jリーグの初代チェアマンで、当時JBA会長となった川淵三郎(82)が声をかけた。技術委員長の選考で、他の候補が「日本の選手は身長がないので……」と無い物ねだりする中で、東野は力説した。「日本とほとんど同じ平均身長でアルゼンチンはアテネ五輪で金メダルを取った。だから、日本もできる方法がある」

■見習うべきはアルゼンチン

アルゼンチンは44年間、五輪出場がないのにリーグのプロ化など強化に成功して盛り返し、04年には金メダルを獲得。18歳男子の平均身長は172.6センチと、日本男子と1.6センチしか変わらない。強くなった理由を知りたい一心で、東野は11年、ブエノスアイレスの同国バスケット協会をアポ無しで訪ねた。

初めてアポ無しで訪れたとき、アルゼンチンのバスケットボール協会のホームページで紹介された=同協会提供

広報担当者を口説き落とし、代表監督のフリオ・ラマス(55)を紹介してもらう。東野は毎日のように誰よりも先に練習場に現れ、ラマスや選手の話を聞いて知見を深めた。後に技術委員長となり、ラマスに日本代表監督就任を要請するときも行動あるのみだった。日本代表の映像を送って意見を求める。妻子の誕生日には贈り物を忘れない。彼が率いるクラブチームの遠征先にも足を運ぶ。「三顧の礼」に、ラマスも根負けした。「世界各地に友人がいるけど、智弥ほど電話をかけてくる人はいない」

飛び込みで訪れたアルゼンチンで、世話になったアルゼンチン協会の広報と米国で偶然再会した。現在は代理人を務めている

バスケットでは、監督が代表チームに思い通りに選手を呼べるわけではない。代表の試合日程に所属チームや大学の試合がかち合えば、反対される場面もある。八村塁が男子ワールドカップ(旧世界選手権)のアジア予選に出場できたのも、東野が八村の所属する米ゴンザガ大に通いつめ、関係を作っていたからこそだった。

八村が出場した試合は4戦全勝。予選突破は98年以来、W杯出場も06年以来の快挙。そして、東京五輪への出場も決まった。東野は言う。「塁は日本のバスケットが世界に通じることを示してくれた。そして、今後、日本のバスケットを変える存在となる。ただ、塁だけに任せず、そういう選手を次々と生み出すことが私たちの役目だ」

8月31日から中国で始まった男子W杯。「東野さんを中心に日本のバスケットを盛り上げようと頑張ってきた。W杯は日本バスケット界全体として特別な大会になる」と、八村。日本は9月1日に初戦を迎える。東野が思い描く日本バスケットの成長の第一歩が始まる。(文中敬称略)

■Profile

  • 1970 石川県加賀市で、材木会社社員の父と教師の母の元に生まれる
  • 1986 福井・北陸高に進学
  • 1988 後に日本代表となる佐古賢一(現・日本代表アシスタントコーチ)らとともに全国高校総体で初優勝
  • 1989 早大進学
  • 1993 日本リーグ1部アンフィニ東京(現・埼玉ブロンコス)でプレー。3季プレーして引退
  • 1996 米ルイス・アンド・クラーク大学でアシスタントコーチ。指導者生活を始める
  • 2001 トヨタ自動車(現・アルバルク東京)でアシスタントコーチを務め、1季目に優勝
  • 2004 日本代表アシスタントコーチ。06年世界選手権(現・ワールドカップ)で敗退し、退任
  • 2013 bjリーグ浜松・東三河フェニックス(現・三遠ネオフェニックス)の監督に就任。15年に優勝
  • 2016 2リーグが統合し、Bリーグが開幕。日本バスケットボール協会技術委員長に就任
  • 2019 男子日本代表が21年ぶりにW杯予選を突破して出場権獲得。男子日本代表が開催国枠で44年ぶりの五輪出場決定。八村塁が日本選手として初めてNBAドラフト1巡目でウィザーズから指名

■Memo

妻とパチンコ…日本代表のアシスタントコーチとして臨んだ2006年の世界選手権(現W杯)。自国開催で気合を入れていたものの、1次リーグ敗退。当時付き合っていた恋人とも別れ、自暴自棄になり、パチンコに明け暮れる生活だった。ところが、いくらパチンコで勝っても楽しくない。やり直そうと思い、唯一、携帯電話の連絡帳に残っていた女性に連絡を取った。それが、いまの奥さんの香代子さん(47)だ。

人生観…1999年7月の全日空061便ハイジャック事件で、車椅子バスケットの日本代表の仕事に行くため、機内にいた。1995年3月の地下鉄サリン事件ではたまたまいつもよりも1本早い日比谷線に乗っていたため、難を逃れた。「今の命は生かされた命だと思う」。そんな気持ちで、今の仕事に猛進する。