イスラムの喜捨文化
インドネシア中部のスンバワ島。海岸沿いのドゥスントロライ村には、農家や漁師ら約600世帯が暮らす。小さな村に、公立と私立の二つの小学校がある。公立では授業料の負担はないが、制服や教材にお金がかかる。
私立のダールル・ウルーム小学校は、すべて無料だ。幼稚園児を含め94人が通う。教室は四つしかない、木造平屋建てのちっぽけな小学校が、国民の注目を集めている。なぜなら、この小学校を2008年につくったのが、月給300万ルピア(約3万円)の長距離バス運転手だったからだ。
ムハンマド・サレ(40)は、トラックを買って独立しようと2500万ルピア(約25万円)をためていた。ところが、教材を買うお金がなくて学校に通えない子どもたちを改めて見て、考えを変えた。「金持ちじゃなくたって、寄付するのは当たり前だろ?」
学校の敷地は両親から受け継いだ1000平方メートルの水田があった場所だ。制服や教材の費用に加え、政府の補助金では足りない教師14人分の人件費200万ルピアにも、ムハンマドが運転手として稼いだ収入や、市民から集めた寄付を充てている。
ムハンマドはイスラム教徒。インドネシアは2億5000万の人口の約9割をイスラム教徒が占め、世界最大の教徒人口を抱える。イスラム教は「六信五行」といって、六つの信じるべきことと、五つのやるべきことを定める。五行の一つが収入の一部を貧しい人に与える「喜捨」だ。
歳入の1割余りの規模に
世界銀行の11年の統計によると、インドネシアでは1日2ドル(約240円)未満で暮らす貧困層の割合が43%。スンバワ島には細々とした農業と漁業しかなく、ムハンマドは高校卒業後、ジャカルタへ出た。だが定職は見つからなかった。「プレマン(やくざ)」同然になったが、車の運転を覚え、5年後に故郷に帰り、バスやトラックの運転手をしてきた。
実感したのは、生き抜くには技術や知識が必要だということ。「学校は、生き抜く力のある子どもを育てることができる」とムハンマドは話す。
一昨年10月、インドネシアの大統領選が始まる前のこと。ジャカルタの貧困街に住むシングルマザーのジュリ・ヘルティ(52)は、立候補予定だったジャカルタ州知事ジョコ・ウィドド(現大統領)の支持集会に出かけ、思い切って手を挙げた。「私には、ほとんど歯がない。なんとかしてほしい」
「分かります。大変でしょう」。ジュリによるとジョコはこう応じ、担当歯科医に治療を始めさせた。そして総入れ歯を受け取ったという。プラスチックの安いものでも、総入れ歯は1800万ルピア(約18万円)ほどする。金属を使ったジュリのものは、その倍はするという。家政婦としての収入が月60万ルピア(約6000円)のジュリには手の届かないものだった。
インドネシアでも、選挙期間中に政治家が有権者に金品を贈れば違法だ。だが、期間中でなければ喜捨とみなされる。
喜捨は義務ではないが、国家喜捨管理庁という組織があり、寄付を個人や団体から集めて運用している。所得の2.5%が寄付の相場とされ、税の優遇もある。管理庁によると、13年は3兆ルピア(約300億円)が集まった。ただ、寄付全体でみれば、ほんの一部という。大半は管理庁を介さず、モスク(イスラム礼拝所)や民間団体などが集め、貧困対策などに充てる。管理庁は寄付全体の規模を約220兆ルピアとみている。
管理庁にあまり集まらないのは、「国民の多くは、行政に汚職のイメージを持っているから」とインドネシア大学イスラム経済学科長のユスフ・ウィビソノはみる。寄付全体の220兆ルピアは、国の歳入の1割余りにあたる。ユスフは「寄付を単に消費するだけでは貧困の解決につながらない。しかし透明性を高め、しっかり管理して使えば大きな力になりえる」と語る。
宗教がもたらす「心の安定」、寄付の背景に
欧米で寄付が盛んなのはキリスト教の精神が根づいているからだと指摘する人もいる。しかし、寄付に通じる精神は、イスラム教や仏教などの宗教にも見られる。宗教と寄付の関係について、比較宗教学が専門の中央大学総合政策学部教授、保坂俊司に聞いた。
私は主にインドを通して宗教を研究しています。多民族が住むインドにはヒンドゥー教や仏教はもちろん、小さな地域の信仰も含めると無数の宗教が存在している。それらの違いを省き、最後に残る共通の部分についてみると、どの宗教でも、未来を予想して心の安定を得ようとしていることがわかります。安定を得るための一つの行為が寄付なのです。
では寄付するとなぜ、心の安定が得られるのか。キリスト教のカトリックや仏教では、金品の寄付の見返りに、現世の罪の軽減や来世の幸福、いわゆる「救い」や「悟り」が得られると考えます。宗教において寄付は「ギブ・アンド・テイク」のギブであり、テイクできるものは目には見えない「心の富」なのです。
米国で寄付が盛んなのは、ピューリタンがつくった国だということが大きいと私は思います。ピューリタンはカルバンの「予定説」を信じます。神は初めから救済する人間を選び、決めているという考えです。「決まっているのだから、いくら寄付を積んでも無駄だ」と普通なら考えそうなもの。ところが彼らは、神に選ばれた人間ならば、その証しを示さなければならないと考えたのです。証しの一つは経済的成功であり、寄付行為だというわけです。
宗教には強制的な寄付もあります。例えば、キリスト教では教会が徴収する「宗教税」。イスラム教の喜捨の一つである「ザカート」は義務的な寄付です。教会もモスクも、維持するにはお金が必要なのです。
江戸時代までの日本には、神社やお寺などを、お金や物を出しあって支える文化が今よりもありました。その後、明治政府は近代国家をつくるにあたり、江戸時代の価値観に結びついた仏教より、国家神道を重んじました。ところが第2次世界大戦の敗戦で国家神道は解体され、仏教も神道もその存在が薄らいでいったとみています。
このような背景から、日本人は宗教を苦手とし、寄付に懐疑的ともいわれます。ただ、災害などでは多くの人が寄付をします。今は自分が助ける番だが、いずれ自分か自分の子孫にも困難が襲うかもしれない、その時は助けてもらう番かもしれないという未来予測は、宗教的です。時間や空間を超え、直接関わることのない人たちを結びつける力が寄付にはあるのではないでしょうか。
義援金、「思い」を配る難しさ
災害時にテレビなどで呼びかけられる被災地への「義援金(義捐金)」。東日本大震災では、窓口の一つの日本赤十字社に、2014年3月までで約3300億円が集まった。ただ当初、被災者に届くのが遅いと批判が出たほか、「日赤が手数料を中抜きしている」という話もインターネットで広がった。
日赤は、義援金のすべてを被災した自治体に送る。被災地で活動するNPOに渡したり、自治体が避難所で配る物品を買うことに充てたりしない。こちらは「支援金」として分けて募る。
災害があると、日赤と中央共同募金会などが義援金の受け付けを始める。テレビ局や銀行も窓口となるが、いったん日赤などに集約することが多く、そこから被災地の自治体に送る。自治体は配分委員会をつくり、被災者に配る基準や額などを決める。義援金から日赤が手数料などを差し引くこともない。寄付した人に送る証明書などの発行経費や郵送料は、日赤の活動資金で負担するという。
東日本大震災で配るのに時間がかかったのは、被害がいくつもの自治体にまたがり混乱したことが大きい。役所そのものが被災したことも響いた。日赤などは大震災から約1カ月後、専門家の意見も踏まえて、被害を受けた都道県に配る1回目の基準や額を示した。
災害で配分に格差
東日本大震災にかぎらず、日赤が頭を悩ます問題がある。配る「速さ」と、被災の度合いに応じた「公平さ」を両立させることだ。速さを優先すると、被害が大きい人にも、比較的小さい人にも同じ額を配ることになる。公平を重んじると、時間がかかりすぎてしまう。
そこで昨年8月に広島市で起きた豪雨災害の義援金の配分では、市と日赤が話し合いながら、速さと公平さの折り合いをつけようとする試みを行った。市は災害発生から約3週間後、被害が最終的に確定する前だったが、被災者を5000世帯と見込んだ。そして義援金から1世帯10万円を「1次配分」として一律に配ることを決めた。残った分はその後、「2次配分」として、死亡やケガ、住宅の損傷の度合いなどに応じて配った。
悩みはまだある。義援金は災害ごとに募り、配るのが原則。東日本大震災の義援金を、ほかの災害で配ることはない。そのため自治体に配る額は災害ごとに変わる。ある災害では住宅が全壊した人に1000万円余りが配られたが、別の災害では数十万円だったこともある。
基金としてためておき、迅速に公平に配る仕組みは考えられないのだろうか。日赤組織推進部長の成田裕資はこう話した。「故郷の役に立ちたいと送った人もいる。それぞれの思いを一緒にしていいのか考えないといけない」
これからの寄付とは/和気真也(GLOBE記者)
取材を始めたとき、私は世の中には3種類のお金があると認識していた。政策を行うために国が集める税、もうけのために企業が動かすお金、社会貢献のために市民が出す寄付だ。
なかでも寄付は、貧困や教育の格差など多様で複雑な社会の課題に対応するお金として、規模が大きくなるほど多くの課題が解決に近づくだろうと思った。だが、米国で会った、寄付や社会貢献活動の研究で著名なジョンズ・ホプキンス大教授のレスター・サラモンは私に指摘した。「政府や企業が取りこぼした課題について、寄付が増えれば解決できるという固定観念にとらわれてはいけない」
サラモンは、社会貢献活動をする米国の「非営利セクター」が、どんな資金に頼っているのかを調べた。寄付大国といえる米国でも、寄付がまかなうのは、わずか10%。52%は、非営利とはいえ事業から得る収入。残り38%は税金から出る助成金だ。サラモンは「非営利セクターは、政府や市場経済を抜きに存在しえない」と語る。
確かに、税や企業のお金に比べ、寄付は規模が小さく限界もある。さらに力を発揮するには、どうしたらよいだろう。
良い例がある。国際機関が、途上国でワクチン接種事業を進めるために発行するワクチン債だ。特徴は、債券を買った投資家への返済に「寄付」を充てる点。この寄付は、国際機関が各国政府から受け取る約束をしており、投資家にとってリスクは低い。国際機関も、債券の発行で迅速にお金を集められる。寄付と投資のお金が、うまくかみあった仕組みといえる。
お金を社会貢献に役立てたい思いを、投資の手法で積極的に動かす団体もある。米メリーランド州にある地域財団「カルバート財団」。債券を発行して得たお金を、途上国の太陽光発電の普及や、貧困層向けの手ごろな住宅開発などに投資する。債券を買う人は、10年ものなら年3%の利回りを期待できるが、社会貢献も投資の大きな「見返り」とみる。
社会への貢献度を投資の成果と考える手法は「インパクト投資」と呼ばれる。昨年9月には、主要8カ国(G8)が促進を呼びかける報告書を出し、世界に広まっている。日本でも昨年11月、NPOや大学の関係者が、インパクト投資を広めることを目指す報告書を出し、機運が生まれている。
インパクト投資は、投資の意識を一歩、寄付に近づけた考えともいえる。一方、寄付のなかにも投資の意識が含まれていると言うのが、社会起業家を支援しているコモンズ投信会長の渋沢健だ。「寄付が使われて社会が良くなれば、回り回って寄付した人やその子どもたちも恩恵を受ける。『利他』の色合いが強い寄付も、長い時間軸でみると『利己』の成果が得られる。その意味では投資なんです」
どんな社会を目指すのか。思い描く未来に近づくように、託すお金の形は寄付か投資か。その境界線は融け合い始めている。
(文中敬称略)