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火山の恵み

World Now 更新日: 公開日:
2010年のムラピ山の噴火の様子。約25キロ離れた世界遺産ボロブドゥール遺跡も降灰による被害を受けた photo:Reuters

私は火山の厄災ではなく、人類にもたらした恩恵について話したいと思います。人類全体にとって、火山の噴火で被った損害よりも、利益が比べようもなく大きいからです。現代の日本が豊かで繁栄しているのも、また、はるか昔の縄文の人々が驚くほど進んだ技術を持っていたのも、日本に火山があることが大きな理由なのです。

火山は溶岩や火山灰を噴き出すことによって、地球内部にある栄養分を地表に届け、土壌を若返らせます。なかでもリン酸塩、カリウム、ナトリウム、カルシウムが植物の成長には重要です。植物がよく育てば、それを食べる動物もたくさん生きられます。雨によって土壌から流れ出た養分は、川を通じて海にも注がれます。日本の近海が海藻や魚介類に満ちているのは、火山のおかげなのです。

地球上にはほかに、土壌を豊かにする現象が二つあります。一つは氷河です。巨大な氷の塊が前後にずれて地表がすりつぶされ、内側から養分が供給されます。米カンザス州など「小麦ベルト」と呼ばれる地帯がその例です。もう一つは地殻の隆起です。私の住むカリフォルニアのように、プレート同士がぶつかり合って山が盛り上がり、新たな土壌ができます。

これら三つのなかでも、火山はもっとも広がりがあります。火山が集まる日本、インドネシア、イタリアなどは世界のほかの地よりも農地の生産性が高いのです。

日本の外交や政策について話すとき、決まり文句は「日本には資源がない」です。確かに、石油も石炭も鉄も限られています。しかし産業革命より前に目を向けると、日本は資源小国などではありませんでした。江戸時代、200年以上続いた鎖国政策で、ほとんど資源を輸入せずに自給自足の経済を実現していました。火山がもたらした豊かな土壌と、適度な降雨のおかげで、食料や木材など、生活に必要な物資の大半を手に入れていたのです。

火山のおかげで食料豊富に

日本は国土が狭いうえ大半を山が占めるので、人が住み、農業を営める土地は限られています。それでも多くの人口を維持できたのは、火山が100以上も集中しているからです。

もっと昔の縄文人たちも、世界の狩猟採集民のなかでは特異な存在だったと言えます。獲物を追いかけて移動して回るのが普通なのに、縄文人は村々に定住し、狩猟採集民としては異例の人口密度を保っていました。一定の場所にとどまっても、火山のおかげで野山や海で食料がたくさんとれたからです。

そして、食べ物を加熱したり、木の実のあくを抜いたり、保管したりするために縄文土器を発展させました。たいていの狩猟採集民は、頻繁な移動の邪魔になるので重い土器などつくりません。縄文文明は、人類でおそらくもっとも早期に土器を発展させた文明の一つです。

日本とはまったく対照的に、温帯でもっとも土壌が貧弱なのがオーストラリア大陸です。火山も氷河も隆起もほとんどないからです。かつてわずかに火山活動のあった東海岸の一部を除けば、森林をいったん伐採してしまうと回復に非常に時間がかかります。土壌を豊かにするには肥料を加えるしかありません。そのオーストラリアから日本に木材や小麦が輸出されているのは皮肉なことです。

もちろん、ときに火山は脅威になります。噴火で大勢が命を失い、都市が埋まり、いくつかの文明も消えました。ポンペイに限らず、ギリシャ・クレタ島に栄えた古代ミノア文明は、サントリーニ島の噴火で弱体化し滅びました。南九州の初期縄文人も、(鬼界カルデラの)大噴火で全滅しました。どれも大変な悲劇です。

しかしもっと重要なのは、それは人類全体にとっては決定的な打撃にはならなかったということです。それぞれの場所で見ても、イタリアもギリシャも、そして縄文人も、噴火の後に人が戻ってきているでしょう。その暮らしを支えたのもまた、火山です。だから、日本をはじめ火山が集中する地域の人たちは、火山を呪ってばかりいない。火山の存在をありがたいと思っているのです。




Jared Diamond 
1937年生まれ。米カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)地理学科教授。研究領域は生理学、進化生物学、人類学などにも及ぶ。



ジャレド・ダイアンモンドのインタビューの一部と日本の火山を上空から撮影した映像をご覧いただけます。(撮影:江渕崇、平田篤央、機材提供BS朝日「いま世界は」)

シドレジョ村のスキマン家に描かれたムラピの壁画 photo:Ebuchi Takashi

いくたび噴火に襲われ、住民の命が奪われようとも、山の懐から離れない人々がいる。

ジャワ島中部、古都ジョクジャカルタの北30キロに、富士山によく似た霊峰ムラピがそびえる。山麓は網の目のように道路が張り巡らされ、頂上のかなり近くまで村々がへばりつく。

火口から約7キロのプトゥン村に住んでいたテモン・テム・スラメット(38)は、2010年10月26日の大火砕流を思い出すと今でも身震いするという。村の集会所で噴火を警戒していたら、突然、周りの竹林が熱でバチバチと音を立て始めた。バイクで必死に逃げたが、途中で後輪がパンクした。バックミラーに目をやると、黒々とした煙と光る稲妻、真っ赤な火柱が背後に迫っている。なんとか避難所に逃げて助かった。「あんなに恐ろしい光景は見たことがない」

この日の火砕流は、火口から4キロと最も近いキナレジョ村も襲った。「ムラピの山守り」として尊敬を集めていた村の長老、ンバ・マリジャン(当時83)が亡くなった。一緒にいた村人や取材中のメディア関係者も道連れになり、犠牲者は計37人にのぼった。

ムラピは06年にも大噴火を起こしている。このときマリジャンは「ここで祈りつづけるのが私の役割」として当局の避難要請に応じなかった。幸い火砕流は村を避け、マリジャンはますますカリスマ性を高めた。

10年の噴火で、インドネシア政府火山地質防災センターのジョクジャカルタ所長、ジョコ・スバンドリヨは部下を村に送り込んだ。マリジャンらに逃げるよう訴えたが聞き入れられず、その2日後に火砕流が村をのみ込んだ。

2010年のムラピ山の噴火の様子。約25キロ離れた世界遺産ボロブドゥール遺跡も降灰による被害を受けた photo:Reuters

「山が豊かさを与えてくれるからこそ」

この噴火全体で犠牲となったのは約400人。インドネシアではバリ島・アグン山が1963年に噴火したときも、逃げずに寺にこもっていた200人以上が死亡した。ムラピはイスラム教、バリはヒンドゥー教の土地だが、「火山の神への信仰は、宗教の違いをはるかに超えて、共通の強い力を持つ」と、インドネシア紙「コンパス」の災害専門記者、アフマド・アリフ(37)は感じている。「火山で死ぬのが崇高なことだと信じられている。そこがやっかいなのです」

マリジャンの跡を継いで山守りになったという息子のアセ(49)に会った。「37人の犠牲を出して、私たちはやっと気づいたのです」とアセは切り出した。村の住民270人はいま、数キロ下った復興住宅に住む。村はいまだに噴火の危険にさらされ、出入りはできるが居住はできない「レッドゾーン」に指定されている。住民たちは、昼間に観光客を村や噴火跡に案内したり、土産物を売ったりして生計を立てているのだという。

ムラピでは、いまも三つの村の計500世帯が「レッドゾーン」のなかで暮らす。スバンドリヨは、極めて危険だと警告し続けてきたが、「山への信仰だけでなく、移住先で生活を維持できるか不安もあるようだ」と言う。

一方、10年の噴火で100メートル手前まで火砕流が迫ったシドレジョ村は、住民が防災に熱心なことで知られる。リーダー役のスキマン・モフタル(45)の家の上階には、防災に役立つコミュニティーFMの放送局まである。DJブースの窓から火口が見え、政府の警報よりも早く火山の様子が分かる。

世帯ごとに車の種類、牛やヤギの数も登録しておき、毎月情報を更新。噴火が迫れば、車を割り振って家畜ともども素早く避難できるようにしている。

村は標高1200メートルほど。過ごしやすい気候で、畑では唐辛子やキャベツ、トマトなど地元でおいしいと評判の野菜がとれる。スキマンは「先祖から受け継いだ土地に合った暮らしを築いてきた。山は神様だからというよりも、豊かさを与えてくれるからこそ、ここに住むための努力を惜しんではいけない」と言う。彼の家の壁一面に、火山が畑作に適した土やきれいな水といった恵みを人々にもたらす様子が描かれていた。

キラウエア山の溶岩流が祖父母の墓に迫っている。そう知らせを受けたハワイ島・パホア村の日系3世、アイコ・サトウ(64)は昨年10月、庭で摘んだ花を手に墓地に駆けつけ、墓前に手向けた。小さい頃から月2回の墓参りが習いだったが、もう二度とかなわないだろう。最後のお別れのつもりだった。3日後、パホア日系人墓地を、溶岩流が爆発音とともにゆっくりと覆っていった。

数日後、科学者が見せてくれた1枚の写真に、サトウは目を疑う。「佐東家之墓」と彫られた日本式の墓石をぐるりと取り囲んだところで、溶岩が止まっていた。あの花が焦げてひからびていた。

「墓が残っているなんて、夢にも思いませんでした」。普段は英語をしゃべるサトウだが、記者には丁寧な日本語で話してくれた。「ペレの力がちょっと怖い気もしましたし、ペレが守ってくれたのかもしれないとも思いました」

ペレとはハワイに伝わる火山の女神だ。いまはキラウエア山の火口に住み、溶岩の流れはペレの意志そのものである、と信じられている。彼女の計らいなのか、溶岩流は約270区画あった日系人墓地の8割をのみ込んだところで流れを変え、村の中心部は難を逃れた。

「ペレのバチが当たりますよ」

パホアは島の中心都市ヒロから車で30分ほど南下した高台にある、ひなびた村だ。広島や熊本からサトウキビ農場の労働者として移住してきた日系人たちが開いた。墓地は1900年ごろにできたといい、村の親睦組織「パホア日系人会」がずっと維持してきた。

7月上旬、サトウたちの「お盆」の墓参りに同行させてもらった。花を抱えた村人たちとともに草むらを進み、溶岩を乗り越え、10分ほどで墓地にたどりついた。溶岩は10メートルはあろうかという厚みで、墓のほとんどはのみ込まれていた。なかには溶岩から頭だけ出して浮いている墓石も。サトウたちは、見渡せるすべての墓石に花を手向けて回った。

パホアの近くには二つ、溶岩流に埋まった村があるという。うち一つは10年かかって徐々に溶岩に覆われていった。パホアも安心できない。

ハワイ郡市民防衛局の担当官で日系3世のドゥエイン・ホサカ(53)によると、かつては溝を掘るなどして溶岩流の方向を変えようとしたこともあった。だが溶岩は簡単に溝を乗り越えていったという。

人の手で溶岩流の方角を変えるのは、女神ペレに逆らうことになる、という抵抗感も根強い。流れを変えて別の村が被災したらだれが責任を取るのか、という法的な問題も生じる。「溶岩は、自分の好きなところに行く。この島に住む人はみな、それを受け入れているのです」とホサカは語る。

墓地で固まった溶岩は表面がもろく、歩くとシャリシャリ音がした。破片を手に取ると、表面はガラスのようだが、裏側は磨いた金属のような虹色の光を放つ。記念に一つ、日本に持ち帰っていいか尋ねると、その場にいた全員の表情が凍りついた。「自由ですけど、病気やケガなど、ペレのバチが当たりますよ」。溶岩は、その場に置いて帰った。
(江渕崇)(文中敬称略)

普賢岳の火砕流で焼けた学校跡 photo:Kurosawa Tairiku

何十万年もの歴史を生きる火山に対し、人間の寿命はせいぜい100年。噴火の記憶をどう語り継ぐか。火山国に住む人々は、それぞれに模索する。

インドネシア・タンボラ山のふもとでは、200年前の噴火で埋まった王国の発掘が進められている。ベズビオ噴火で埋まったポンペイの知名度にあやかり、「東洋のポンペイ」との触れ込みだ。

カルデラの西側、コーヒープランテーションの林道を分け入ったところに、発掘現場の一つがあった。これまでに、家の台所跡と見られる場所などで人骨が見つかった。カンボジアやベトナム由来の陶器や金銀なども出土し、当時の交易の広がりをうかがわせた。

木材やロープなどは炭化しており、空気に触れるとすぐにぼろぼろになってしまう。注意深い作業が必要なため、発掘開始から5年で10メートル四方を調べるのがやっとだという。国立考古学研究所の考古学者、ソニー・ウィビソノは「ここには200年前に起きたことがしっかり残っている。同じような噴火に備えるため、学ばないといけない」と話す。

ソニーは今年3月、研究所長のマデ・グリアとともに来日し、近畿・九州の博物館や埋蔵文化財センターを巡った。炭化した出土品の保存法を日本から学ぶためだ。グリアは、「発掘現場を将来はエコミュージアムにしたい。世界中の人に、大噴火が何を残したか見てほしい」と語った。

雲仙・普賢岳の噴火を伝える記念館で

噴火の実験をする子どもたち photo:Kurosawa Tairiku

長崎県島原市の雲仙岳災害記念館で7月12日、長崎市立川原小の児童たちが実験「火山を作ろう」に取り組んだ。

カップゼリーを紙皿に盛りつけて火山に見立て、皿の裏側から容器に入れたリンゴジュースとホイップクリームを注入、山頂から「噴火」させる。ジュースはさっと流れ、クリームは山頂に丸くたまって「溶岩ドーム」を作った。

「ジュースはハワイのように流れやすい溶岩、クリームは雲仙岳のように流れにくい溶岩だと思ってください」。館長の松尾好則(65)が説明する。実験後はみんなで試食し、会場は笑顔と興奮に包まれた。

記念館は1990年から96年に40人以上が犠牲となった雲仙・普賢岳の噴火を後世に伝え、火山防災や自然を学ぶため2002年に開館した。噴火やその後の土石流を体感できるシアター、火砕流の速さを実感できる展示、火砕流で焼けたテレビカメラなども公開されている。館長の松尾は当時、火砕流に襲われた小学校に勤務していた。

普賢岳の山麓には、噴火による熱風で焼けた小学校の校舎や土石流で埋まった家屋も残されており、見学することができる。窓ガラスが割れ、窓枠が焼けた教室の様子が熱風のすさまじさを伝える。校庭では、校舎が焼けてから今日までの時間経過を示す掲示板が時を刻む。校舎が焼けてから、まもなく24年になる。
(江渕崇、黒沢大陸)(文中敬称略)