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白球を追う喜びをアフリカに伝えたい

Breakthrough 突破する力

西アフリカ・ガーナの首都アクラから20キロほど東の港町テマ。4月上旬の日曜日、ガーナ代表の野球選手30人が集まった。ニューヨーク・メッツや横浜ベイスターズなど、ユニホームはまちまちだ。アフリカ2位の強豪ナイジェリア代表との交流試合が月末にあるという。

気温35度。熱帯の風に乗って、太鼓の音やダンス音楽が聞こえてくる。グラウンドには石が転がり、金属製のバックネットはあちこち盗まれて穴だらけだ。

キャッチボールが始まった。選手たちは長い腕をムチのようにしならせ、矢のようなボールを投げる。真っ赤なユニホームを着て、その様子を見守る日本人がいた。NPO法人「アフリカ野球友の会」代表の友成晋也(48)だ。国際協力機構(JICA)の職員で、1996年から3年間、ガーナに赴任した際、代表チームの初代監督を務めた。日本に帰国すると「友の会」を立ち上げ、タンザニア事務所次長になったいまは、休日にアフリカ各地で野球を指導している。

ガーナ代表チームにノックをするのは久しぶりだ。友成は甲高い声で選手たちにゲキを飛ばし、野手を走らせる。

「これがトモナリのノックだ。私たちに規律と闘志を植えつけてくれた」。ガーナ野球連盟会長のアルバート・フリンポン(40)は笑顔で言った。

野球不毛の地で

慶応大学の野球部時代は「暗黒時代だった」という。在学中、チームは東京六大学リーグで2回も優勝。部員は100人を超え、プロに誘われた選手が何人もいた。だが、友成は一度もベンチ入りすることなく、4年間、神宮球場のスタンドで学生服を着て応援し続けた。

「野球をやめて留学しよう」と考えたこともある。たびたびアフリカに出張する父親を見て育ち、海外でバリバリ働くビジネスマンにあこがれていた。それでも最後まで野球を続けたのは、「壁から逃げたくはない」という意地があったからだ。

卒業はバブル時代の88年。海外不動産の買収を手がけていた不動産会社に就職した。海外で仕事ができると期待して入社したのに、バブル崩壊とともに会社は海外での事業を縮小してしまう。

この先、どうしよう。将来を思い描けずに求人誌をめくっていたとき、JICAの広告が目にとまった。「ここなら海外に行ける」。思い切って転職して4年後、ガーナに赴任することになった。ただ、アフリカは野球不毛の地という印象が強い。社会人になっても続けていた野球が、もうできなくなると覚悟していたのだが――。

意外にもガーナに野球チームがあった。さっそく現地の日本人たちを集め、対戦したのがフリンポンのチームだ。

「トモナリの軽やかな守備に目を奪われた」とフリンポンは振り返る。3年後の99年にあるシドニー五輪アフリカ予選を戦うため、フリンポンは友成に監督になってほしいと頼んだ。「勝つために自分が必要とされている」と感じた友成は、二つ返事で引き受けることにした。

「大学で日本一になったチームからきた」。友成はハッタリをかますと、「闘志なき者は去れ」と言って日本の体育会式の練習を始めた。遅刻すれば罰のランニング、特訓の100本ノック……。主力選手だった連盟副会長のエドワード・クエノ(38)は「つらかったけど、これが本場の練習なんだと耐えた」と話す。

すべてが順調だったわけではない。

日本のバラエティー番組に出演するため、数人の選手が東京を訪れたことがある。ガーナに戻ると、口々に訴えた。「遠征費として500ドルほしい」。友成は怒鳴った。「みんな金、金、金。金のために野球をやっているのか!」。フリンポンは言い返した。「この国では、スポーツ選手は名士なんだ。みんな借金してでも、親や兄弟、親類に金を振る舞う」

「もう監督は続けられない」。友成は辞任を口にした。フリンポンは「やめてもらいたいんじゃない。父親のように私たちのことを考えてほしいんだ」と引き留めた。経済的に苦しい一部の選手に、友成が金を貸す形で一件落着した。

その後、ガーナ代表はシドニー五輪アフリカ予選で4位になった。五輪出場こそ逃したものの、実力はアフリカでトップクラスに近づいていた。「チームが成長する日々に立ち会えて感無量だった」

首都にコウシエンを

photo:Miyazaki Yusaku

ところが、ガーナ代表は政府の財政支援が得られず、アテネ五輪(2004年)の予選に出場できなかった。05年には、ロンドン五輪で野球が実施種目から外れることが決まってしまう。「もう、野球は終わりだ」。選手たちは肩を落とした。

いや、五輪だけが野球じゃない。友成は、ガーナ10州の高校代表が競う「ガーナ版甲子園」を始めようと考えた。

スポーツ省の幹部や教育関係者に話をもちかけても、あまり乗り気ではない。そこで友成は、夏の甲子園大会をDVDで見せた。「すごいまるで五輪じゃないか」。野球のパワーに驚いた幹部らは、高校の部活動として野球が広がるよう協力してくれることになった。

いま、友成の教え子や、その教え子たちがガーナ全土に散り、高校生に野球を教えている。年内には、大会会場ガーナ・コウシエン・フィールドができる。

「無から立ち上げて指導していくことが、どれだけ大変か」。元西武ライオンズの石毛宏典(56)は、そう話す。石毛は友成に頼まれ、日本を訪れたアフリカの子どもに野球を教えたことがある。体のバネや肩の強さに将来性を感じたという。

「打席に立つと、敵も味方も僕に注目してくれる。だから野球が好き」。ガーナの少年(12)の笑顔が、友成は忘れられない。そう、誰でも打席ではヒーローだ。ホームランをかっ飛ばしたときの快感を、多くのアフリカ人に味わってほしいと思っている。

Self-ratingsheet 自己評価シート

友成晋也さんは、アフリカで野球を広めるうえで、自分のどんな「力」に自信があるのか。編集部があらかじめ用意した10種類の「力」に順位をつけてほしいとお願いしたところ、半分を独自に考えた「力」に入れ替え、そのうちの一つ「使命感」をトップにすえたランキングをいただいた。

社会人になってからもずっと野球に関わってきた。「野球の神様がおりてきて使命を授かった」という感覚で、これまでアフリカで野球を広める活動をしてきた。「野球の神様は、ガーナでも野球に出合わせてくれた。自分が行動すると、神様が必ず道を開いてくれる」

NPO法人「アフリカ野球友の会」を立ち上げる際、JICA人事部長だった金子節志さんに、NPO法人代表を兼務することを認めてほしいと交渉した。金子さんは前例がないので悩んだが、アフリカ野球に対する情熱に共感してGOサインを出した。「若いスタッフにも型破りな情熱をもつ人材がほしい」

ともなり・しんや

1964年、東京都生まれ。小学生のころに野球を始め、慶応義塾高校野球部で遊撃手として活躍。慶応義塾大学でも野球部に入ったが、ベンチ入りできなかった。88年、リクルートコスモス(現・コスモスイニシア)に入社、92年に国際協力事業団(現・国際協力機構=JICA)に転職。96~99年、ガーナに赴任し、ガーナ代表チームの初代監督を務める。日本に帰国した後、2004年、アフリカの野球振興を支援するNPO法人「アフリカ野球友の会」をつくった。JICAでは広報課長などをへて、12年1月からタンザニア事務所次長。03年、『アフリカと白球』(文芸社)を出版した。

MEMO

背番号「30」…東京六大学野球で監督がつける背番号をユニホームにつけている。「ベンチにも入れなかった僕が監督をするってのも不思議な話ですが」

携帯電話の着信音…全国高校野球選手権大会の大会歌「栄冠は君に輝く」。甲子園に出たことはないが、「アフリカでどんなにつらいことがあっても、このメロディーを聴くと闘志がわいてくる」。

ソーダ…ガーナでは、人が集まるとソーダ(炭酸飲料)をみんなで飲むのが習わし。選手が野球を続けることに勤務先や家族が反対した場合、説得するための切り札はダース買いしたソーダだった。いっしょに乾杯すると、険悪なムードが一気に友好的になるとか。

三角ベース…バットの代わりに手でゴムボールを打つ三角ベースの普及にも努めている。「アフリカ野球友の会」のメンバーとともに、これまでタンザニア、ウガンダ、南アフリカ、ケニアなどで指導した。