南壮一郎(40)はインターネットに解を求めた。ネット上に求人企業と転職希望者の情報を載せ、互いに直接やりとりすれば、はるかに可能性が広がるぞ!
南の構想を聞いた業界関係者たちはせせら笑った。「ここは、君がいた転職が当たり前のアメリカとは違うぜ」
サービスを始めて8年。登録する人材も企業も倍々で増え、今や登録者は85万人、企業は6100社にのぼる。2012年秋にシンガポールに拠点をつくり、アジア太平洋での人材還流ビジネスもはじめた。
「すべての人が、自分らしくキャリアアップできる社会をつくってみせる。Business is Entertainment!(仕事は最大の遊びだ!)」
大リーグ球団のオーナーに
南は、「つねにマイノリティー(社会的少数派)の側に身を置いてきた」と考えている。6歳から中学1年の夏までカナダのトロントで暮らす。会社員の父は息子を白人ばかりの小学校に放りこんだ。英語で考え、自己主張する。日本語は第2言語になった。
父は「少年よ、大志を抱け」というクラーク博士の言葉をくれた。南は夢を持った。大リーグ球団のオーナーになる。
帰国すると静岡・磐田市の中学に通う。当時、帰国子女は珍しく、英語をしゃべるらしいよと、学校中の生徒が南を見にきた。衝撃だったのは、厳しい校則だ。男は丸坊主に学生服。そろいの体操服には名前が書かれたゼッケンをつける。「生徒は囚人か?」と南は思った。
あるとき、番長から呼び出され、「生意気なんだよ」と殴られた。そして、取り巻きたちに正座させられた。「これからは会釈しろよ」と番長が言う。南は返した。「あのー、『会釈』って何ですか?」。南の語彙にその言葉はなかったのだ。
県内有数の進学校に進み、高校3年のとき、本屋で世界の大学ランキングを立ち読みした。上位はアメリカの大学ばかり。「東大が1番じゃないのか。ならアメリカの大学に入れば、僕が日本の高校生で1番じゃないか?」
米国の大学を受けたいと教師たちに言うと、「前例がない」「非常識だ」と反対された。自ら出願書を書いて受験し、タフツ大学へ。見た目は日本人、心は北米人ができあがる。今いる場所への同質化を嫌う、悪く言えば「あまのじゃく」になった。
大学を卒業後、証券会社に就職、企業のM&Aを手伝うが、スポーツに関わる仕事がしたくて2年で退職。スポーツと名のつく仕事なら何でもいい、とフットサル場の管理の仕事についた。利用者にカップラーメンを出しながら、南は思った。「大リーグ球団のオーナーにはほど遠いな……。でも、第一歩だ」
あるとき、証券マン時代の知人のつてで、楽天のM&Aを手伝った。04年、楽天のプロ野球参入が決まる。南は社長の三木谷浩史(52)に、20分の面談の間、ありったけの思いを込めて直訴し、球団の創業メンバーに加わった。「日本一のボールパークをつくるぞ」「プロ野球構造改革だ!」
球場に馬を入れ、子どもたちをグラウンドへ招き入れた。観客に楽しんでもらうためなら何でもした。非常識だと反対されても自説を曲げなかった。けれど、球団社長だった島田亨(52)は、南にこんなアドバイスをした。
「突破するなら、けんかをしちゃダメだ。仲間をつくれ。仕事のときだけ、ビジネス人格になればいい」
起業家に出資もする島田は、南は起業にむいていると思っていた。地頭がいいし、変化を楽しむ。そして、「和を以て貴しとなす」の日本的組織の中では生きづらいだろうとも思った。球団創設から2年経つころ、島田は言った。「ここにいても、君は大リーグ球団のオーナーにはなれないぞ」
心躍らせるピーターパン
翌年、南は球団を去り、会社をおこした。社名の「ビズリーチ」には、さまざまなビジネスチャンスをつかむぞ、という思いをこめた。
自ら転職を重ねたことと、ネットへの興味が合わさり、ネットによる転職革命を夢見た。人材業界やネット業界の人間に話すと、「無理」「不可能」「非常識」とむざんな言葉を浴びた。
否定されつづけると、燃える。島田の「突破するには仲間をつくれ」の教えを思い出した。会合に顔を出しては、熱く思いを語り、ときに思いの押し売りもしたりして、仲間を増やしていった。
10年、ベンチャーキャピタルの「ジャフコ」が2億円の出資を決めた。見極めた藤井淳史(36)は、2時間にわたって語りつづける南に「鬼気」を感じたという。「南さんは、頭から出血するほど考え抜いていた」
12年4月、人事部の立ち上げに多田洋祐(34)が加わった。およそ2000人の経営者と会ってきた元ヘッドハンターにとって、初めからなれなれしい南は嫌いなタイプ。なぜ人に愛され、優秀な人材が集まってくるのか、その答えを知りたくて入社した。翌年の正月、100人弱の社員全員で初詣に行った時、南が言った。「明治維新から今まで、日本の人口が3倍になったのは、子どもが増えたから。会社の成長には従業員を増やさなくては。今年は100人採用するぞ!」
何言ってんの、この人? ところが9カ月で100人採用。目標をクリアすると、今度は200人だと言い出した。
多田は、南に乗せられている自分を感じた。南は「ぼくにはできないことだから助けて」と正直に言う。助けると、素直に「ありがとう」。ふつう日本人は、できないことをできると言うし、「ありがとう」をなかなか言えないものだ。
南はこんなゲキも飛ばした。
「会社がつぶれるぐらいのチャレンジをし続けよう。つぶれても、みんなは能力が高くて価値がある。どこでも食っていけるさ」
これで心が躍らないヤツはいない。多田は、南はいつまでも少年のままの「ピーターパン」だと思った。
いま、南が力を入れているのは、大都会の優秀な人材を地方へつなぐ懸け橋になることである。
丘の美しさで観光客に人気の北海道美瑛町。観光協会で働く後藤みづ絵(30)は、ビズリーチで転職した。大都会での、電車とバスでの片道1時間半の通勤に、身も心もへとへとだった。いまは職場まで車で5分。旅行会社勤務の経験も生かせる。近くの空港を飛び立つ飛行機が頭上を行き過ぎる。「あんなにジェット機が大きい。空を見上げる暮らしって、楽しい」
南の根っこにあるのも、その思いだ。
人生を楽しもう。Life is Entertainment!
南は大リーグ球団のオーナーになる夢も捨てていない。でも、まずはグローバルな企業になることが先決だ。日本で押しも押されもせぬ会社になったら、世界に挑戦する。古巣の楽天イーグルス、田中将大が大リーグに旅立ったのは、日本のナンバー1投手になってからなのだから。
(文中敬称略)
MEMO
旅行…独身の一人暮らし。趣味は旅行で、休暇や週末をつかって毎月、海外に行く。昨年は、スイス、イスラエルなど15カ国ほど訪ねた。自分の目で見て、肌で感じて、日本という国は何がいいのか、何がダメなのかを体感する。そうして感性を磨くのだとか。
桜とすし…お花見シーズンは毎年、古くからの友人たちと、佐賀県の唐津城で桜をみて、北九州市・小倉にある有名すし店で舌鼓を打つ。「ぼくも不惑(40歳)。あと何回、行けるか分かりませんが、大切にしたい時間です」
肉離れ…小学生のころからサッカーをしているので、いまも時々、フットサルをする。ただ、身体はやや衰えているのに意識は学生時代のままなので、ついつい無理にボールをとりにいき、肉離れすること、しばしば。「これは、やばい」と、サイクリングやトライアスロンに切り替えはじめている。
文と写真
文・中島隆
1963年生まれ。「中小企業の応援団長」を自称する、英語はからっきしだよ、の編集委員。
写真・仙波理
1965年生まれ。朝日新聞東京本社カメラマン。アフガン、イラク戦争などを取材。