ハンガリー南部のクベクハザ村は、東のルーマニア、南のセルビアと接する静かな農村だ。村ができたのは19世紀半ばで、ドイツ系移民らによる葉タバコの生産で栄えた。第2次世界大戦では、ソ連軍の占領でドイツ系住民の多くが難民になったという。
村長のモルナル・ロベルト(46)は、そんなドイツ系の祖父らのもと、冷戦時代に育った。ハンガリーは共産主義陣営だったが、共産主義を嫌う祖父は、「鉄のカーテン」の西側から届くラジオ・フリー・ヨーロッパを好んで聞いた。放送は妨害電波のせいで聞きにくく、モルナルの役目は、ラジオに耳を押しつけて内容を聞きとり、耳の悪い祖父に伝えることだった。
おかげで、モルナルは幼い時から、政治への関心が高かった。地下組織で政治活動に関わっていたが、冷戦が終わると20代で国会議員になり、表舞台に立った。
そんなモルナルにとって、難民危機のさなか、村の国境に突然建てられたカミソリワイヤ付きのフェンスは、「冷戦時代の暗い時代を思い起こす」ものだ。「冷戦が終わる前後、村にはルーマニアのチャウシェスク政権を逃れた人たちが大勢来た。ユーゴスラビア紛争の時も国を逃れた人がたくさん来た。村の人たちは難民には慣れている」
今回の難民危機で、村に大勢の人々が押し寄せることはなかった。だが、モルナルはいざという時のために、300人分の世話ができる救援センターを1日で立ち上げられるよう、食料やテント、簡易トイレなどの調達を準備していた。
「移民や難民とまったく接したことのない人ほど、デマにだまされ、彼らにヘイト感情を持ちやすい」。モルナルがそう主張する一つの根拠は、政府が難民の受け入れをめぐって16年10月に実施した国民投票だ。
排外主義的なオルバン政権は、街頭広告やメディアで、難民や移民とテロや犯罪を結びつけるキャンペーンを展開した。投票結果は、難民受け入れに「反対」が有効投票の98%を占めた。ただ、有効投票が有権者数の50%に届かず、不成立になった。
政権の方針に反対する野党は、投票のボイコットを呼びかけていたが、クベクハザ村の投票率は、31%と全国で最も低い水準だった。「政権によるヘイトスピーチに、村民が影響されなかったのはうれしい」。モルナルはやや誇らしげな顔を見せた後、こう政府を批判した。
「政権は自分たちの問題から国民の目をそらすために、難民を『敵』として利用したのだ。権力はいつも『敵』を求めている。ナチスにはユダヤ人、(冷戦下の)ソ連にはアメリカが必要だったように」