皆さんこんにちは。エルサレム在住フリーアナウンサーの新田朝子です。
前回に続き、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA、アンルワ)のインターンの仕事の一環でガザ地区を訪問した際に見聞きしたことを中心にお伝えします。
皆さんは、2021年5月にあったイスラエルとガザ地区との軍事衝突を覚えているでしょうか。
私は当時エルサレムにいましたが、連日ガザが空爆される様子が報じられ、胸が痛む11日間でした。この軍事衝突で、ガザ地区では子どもを含む250人以上が死亡しました。
前回の空爆で特に被害を受けたのは、ガザ地区の中心都市であるガザ市でした。
UNRWAガザ事務所に駐在する吉田美紀さんによれば、2021年の軍事衝突はこれまでとは大きく異なるものだったと言います。
その理由は、戦闘の当初から、攻撃のターゲットがこれまでの衝突で比較的安全といわれていた住宅街や繁華街になったためでした。
ガザ市内で、国連の職員が住む建物から100mほどのところにある13階建ての建物も標的になりました。
2014年の戦闘では、高い建物が攻撃されたのは51日間続いた衝突の、最後の数日のことでした。
ガザ市にあるカタールの衛星放送局アルジャジーラと米AP通信が入居していたビルも空爆の被害を受けました。
吉田さんがガザ地区で目の当たりにした軍事衝突の様子については、5月21日にオンラインで行われたUNRWA主催のメモリアルイベント「空爆から1年 ガザを忘れないで。」の中で伝えました。
イスラエル軍は空からも海からも攻撃を行い、その爆音と衝撃で建物が揺れたり、ガザ地区からロケットが飛んでいき、イスラエル軍が「アイアンドーム」という迎撃システムを使って撃ち落としたりする様子が、自宅から見えたそうです。
戦闘時に検問所が閉ざされ、物資を届けるなどの人道支援ができなかったのも異例のことでした。
ガザに残った吉田さんは、同僚とやりとりするメールで「もう会えないかもしれないけど、これまでありがとう」といった内容があったことや、家族を失いながらも仕事をしていた同僚についても述べ、緊急支援の仕事に専念しつつも、どうしても感情的にならざるを得なかったと、当時を振り返りました。
停戦したからといって、失われた命が戻ってくることは決してありません。
多くの人たち、特に子供たちはトラウマを抱えていて、昨年の戦闘以来、一人で寝られなくなってしまい、両親と一緒に寝ている子供も多いそうです。
2008年、2009年、2014年、2021年と大きな衝突が起きていますが、今年の1月にも空爆があり、4月後半にはガザでも再び攻撃の応酬がありました。こういったことが大きな戦闘に発展しないか、今も多くの人が不安を抱えていることに変わりはありません。
それでも、閉ざされたガザ地区という場所で生きる人たちは、ここで生き続ける以外の選択肢がないのです。状況が改善するように祈りながら生きるしかないことを、吉田さんは強調しました。
昨年のイスラエル軍との軍事衝突では、ガザ市内で特に人口が密集した、にぎわいのある通りでも空爆がありました。
ちょうどその衝突から1年経った今年5月に私がガザ地区を訪問した際に、その場所に住む医師を訪ねてきました。
写真に写っているのが空爆のあったワハダ通りです。
建設中の家が見えますが、もともとここにはガザ市で医師として働くアミール・コーラックさん(31)の家族が住んでいた家がありました。
アミールさんの家に空爆の被害はなかったのですが、その目の前に建っていた兄や叔父たちが住んでいた家が空爆にあい、6人の兄のうち2人や、その子供たちを亡くしました。一番幼い犠牲者は、まだ生後6カ月の赤ちゃんだったといいます。
ガザの人たちは子供が多く、家族の人数が多いのですが、アミールさんのいとこや叔父叔母なども合わせて60〜70人ほどいる一族のうち、空爆があった一晩で、22人を亡くしたというのです。
一晩で22人の家族を亡くすということ自体も、その深い悲しみも私には到底想像が及びません。もし、自分がたった一晩で大切な家族を亡くしたらー。一人を失っても悲しいのに、こんなにもたくさん一瞬にして失ったらと考えるだけで恐ろしいです。
当時何が起きていたのか、そして、どんな心境だったのか、アミールさんが打ち明けてくれました。
アミールさんは、衝突が続いていた2021年5月15日の夜、自宅でテレビのニュースを見ながら過ごしていました。そして、日付が変わって夜も深い時間に破裂音のようなとにかく大きな音と同時に、子供の泣き声や人々の叫び声を聞きました。急に電気も止まりました。最初は何が起きたのか分からなかったそうです。
自宅から外に出ると、真夜中で電気も止まって街灯が消えていたこともあり、最初はすぐには状況をつかめなかったものの、自分の家族の住んでいる二つの家がその被害に遭ったことに気づきました。
「一瞬にして家族の家が二つも破壊されていて、どうしていいかも分からなかったし、言葉も出なかった」
これは5月16日の未明(アミールさんによると、午前0時半を回った頃)のことでした。
暗闇の中、崩れた家で家族が生きているのか、今どうなっているのか、全く何も分からなかったといいます。
家の中にいるはずの家族の何人かの携帯電話にかけてみましたが、つながらない人もいれば、つながっても応答がなかったりして、もどかしい時間が続きます。そして、兄の妻から電話があり、がれきの中に閉じ込められていてかなり怖がっている様子で子供や自分たちを助けに来てほしいと伝えていたそうです。
真夜中で電気もない状態で、アミールさんは「助けようにも建物のたくさんの天井がビスケットのように折り重なって倒れていて、どこに誰がいるのか見つけるのが難しく、どうやって助けていいか分からなかった」と話します。人命救助にたけた医師のアミールさんにも、巨大ながれきを前になすすべがありませんでした。
救助が来るまでには数時間がかかり、アミールさんはいてもたってもいられなかったそうです。自分たちも安全が確保されているわけではない上に、外は真っ暗。助けを呼びに行こうにも身動きも容易ではなかったそうです。「この間は、今まで生きてきた中で最悪の時間だった」と振り返りました。
数時間後、順に家族の人たちが救助されていきました。
空爆があってから約10時間経ってから助けられた人もいましたが、理学療法やリハビリなどを経てけがの状態はだいぶ回復したそうです。
空爆から7時間後に生きて救出された最後の子供は10歳のアミールさんのおいでしたが、その子は両親と2人の弟(8歳と3歳)を亡くし、自分の家族を全員失ったそうです。
14時間後に家族で最後に救助されたのは10歳のめいで、その時にすでに亡くなっていました。
このガザ市・ワハダ通りは住宅街や繁華街があり、これまで比較的安全だとされていた場所だったのです。2014年の戦闘の際は、このあたりが安全だからといって避難してきた人もいたほどだといいます。ただ、2021年の衝突では住宅のみならず、病院でさえも被害に遭いました。
「安全な場所はどこにもなかった」とアミールさんは続け、だからこそ、ガザの人たちに衝撃と大きな恐怖を与えたのだそうです。
「この1年はあっという間のように感じるけれど、とにかくとてもつらい時間で、今でもその時起きたことが信じられない」と話します。戦闘員でもない市民ですら、こうして亡くなってしまいました。そのことをアミールさんは強い口調で話しました。
今年5月、ようやく、アミールさんの家族が住んでいたワハダ通り沿いの二つの家の再建が始まりました。
「たとえ、家屋の再建が始まったとしても、亡くなった人は帰ってこない。時々私は、家も仕事もお金もなくていいから、とにかく私の家族を返してほしいと思ってしまう。それだけが私の願いだけれど、誰も返してはくれません」
あの時から1年が経っても、街にはまだ再建されていない建物や住宅も残っています。そして、アミールさんの言葉にあるように、建物は再建することができたとしても、この衝突によって亡くなった人は誰一人として帰ってくることがないのだと、ガザ市内を歩きながら感じました。
もちろん、街には衝突の痕跡が残ってはいるものの、私が訪問した今年5月のガザ市は平穏のように感じられ、本当にここで軍事衝突が起きていたのだろうかと信じられないような気持ちもありました。ですが、ここで多くの人が昨年の衝突時も、それ以前も、命を落としているのです。
ガザ地区で暮らす人たちの多くはイスラム教徒です。去年の軍事衝突はイスラム教徒の人たちにとって大切な断食月(ラマダン)に起こりました。
本来は家族と過ごし、祝うとても大事な時期です。そんな時に軍事衝突が起きて、多くの人たちは心に傷を負いました。アミールさんのみならず、ガザにいるUNRWAの同僚たちと話をしていると、トラウマを抱えていない人なんて皆無で、みんな恐怖におびえて過ごしていたと話します。
アミールさんにとっては、今年のラマダンはいつもと違いました。去年の今頃亡くした家族たちのことを思う、非常に悲しくてつらい時間だったからです。
「戦争のなかった頃に戻ってほしい。今の状況では、次の戦争もまた次の戦争もきっと起こるだろうが、戦争がとにかくなくなってほしい。今は何も解決策がない。戦争がまた起これば、その後ガザ地区はより厳しい状況になるだろう」
軍事衝突の事実を、ガザの状況を日本の人たちにも伝えてほしいと、当時のつらかった話を思い出したくないのにもかかわらず、2時間近くにわたって話をしてくれました。
きっと、アミールさんは詳細を話せば話すほど、つらい記憶がよみがえったことと思います。それでも、一人でも多くの人に真実を伝えてほしい、と願う彼の気持ちにとても強いものを感じました。
どうして、私たちと同じように家族がいて、働いて毎日を懸命に生きている人々が、ガザ地区で暮らしているというだけでこのような思いをし、ときに命を落とさなければならないのか、そんな疑問を持たざるを得ません。
そして、アミールさんの言葉にあるように、今は平穏でも、次の瞬間にも再び戦争が起こるかもしれない、そんな恐怖から解放されることのない日々の中で、自分の生まれ育った大切なふるさとで生き続けていること、また生き続けなければならないことを思うと、胸の奥が痛みます。
一日でも早くガザ地区で暮らす人たちに平穏な毎日が訪れることを祈りながら、この記事を書きました。
アミールさんの思いが、一人でも多くの日本の皆さんに届きますように。