米ニューヨーク港を再生させる歩みが、大きく前に進んでいる。水質を浄化し、生き物のすみかをつくり出すことを目指している。
主役はカキ。市の中心地マンハッタンの南部沖合にある特定水域に、2021年7月から半年かけて稚貝が大量に投入された。その数、1120万個。といっても、養殖してレストランの大皿に盛ろうというのではない。
港の水質は、カキを採ってそのまま食べるには、まだあまりに汚れている。ゴミや下水、産業排水を数世紀にわたって垂れ流してきたつけは、あまりに重い。
とはいえ、この水域では、水質の改善が着実に軌道に乗るようになった。大きな役割を果たしているのは、かつてはニューヨーク名物とされたほど広く生息していたカキだ。
昔のこの街は、世界的なカキの特産地の一つだった。全米のみならず、世界中に何百万個も出荷していた。
ニューヨークっ子は当時、社会的な地位を問わず、みなこの貝に舌鼓を打った。
屋台で、居酒屋で、あるいは遊覧船で売られていた。楽しみ方も実にたくさんあった。まず、生で。さらに、焼いても、酢漬けにしてもうまかった。フライもあれば、チャウダーも。ソースにもなったし、シチューにも入れた。
米ベストセラー作家のマーク・カーランスキーは、ニューヨークのカキの歴史はこの街の歴史そのものだ、と2006年の著書「The Big Oyster:History on the Half Shell(邦題=牡蠣と紐育〈かきとニューヨーク〉)」で記している。
そのカキは、長年の乱獲と環境汚染による水質悪化で、一時は死に絶えるかに見えた。しかし、今はこうして新たに投入されるようになった。それだけではない。マンハッタンの西側を流れるハドソン川に突き出たピア(桟橋)の下や隣接区のブロンクスでは、天然のカキが見つかるようにもなった。
「ここで採れたカキを誰もが安心して食べられるようになるには、まだ100年かかるかもしれない」とキャリー・ローブルは話す。ハドソン川のピア40(マンハッタンを東西に走るウェスト・ハウストン・ストリートの西端付近)にある海洋生物観測所「ハドソン川公園財団リバー・プロジェクト」(以下、海洋生物観測所)で、港が広がる河口・沖合水域を担当し、関連の教育分野に携わっている。
でも、そのカキは、今やニューヨークの港と水路の再生力を示す象徴となった。そして、著しい気候変動の不穏な知らせが相次ぐ中で、数少ない希望の旗印にもなっている。
十分に成長すれば、カキ礁を形成するようになる。それは、波の力を消散させる働きすらして、異常気象の際には高潮や洪水から陸地を守る役目を果たす。
「生息環境を整える請負人」とローブルは、カキが持つ多機能を例える。
冒頭のカキは、マンハッタン南西部のトライベッカにあるピア26から34にかけて、計200カ所以上に投入された。金属製のかごや大型の容器などに入れ、干潮時も水面下にあるように沈められた。
ハドソン川公園の河口保全域としては、カキの生息域を復活させる初の大規模な事業だった。あたりは、上流からの淡水と大西洋からの海水が入り混じる汽水域。養分豊富な生態系があり、85種以上の魚のすみかになっている。
この河口域は、周辺の水域一帯にとって非常に重要な「保育器」の機能も果たしている、とローブルは指摘する。
多くの種の魚が回遊し、卵を産む。ニューヨーク州の隣のコネティカット州やニュージャージー州で釣ったシマスズキ(訳注=釣りで人気がある北米の大型肉食魚)は、稚魚の時代をハドソン川で過ごしていたことだろう。
活力に満ちた海洋生物の世界では、飛躍的な連鎖が生まれることがある。例えば、北米の大西洋岸に生息するニシン科のメンハーデン。銀色のこの魚(訳注=体長約20~30センチ)の大群は、エサとしてザトウクジラを呼び寄せることがある。
今回のカキ投入事業(総額150万ドル)は、ハドソン川公園財団とニューヨーク州環境保護局、エンジニアリング企業のモファット&ニコルが計画を練り、ニューヨーク州の予算があてられた。
稚貝はNPO「ビリオン・オイスター・プロジェクト(Billion Oyster Project)」が供給した。名の通り、ニューヨーク港全体でカキの数を2035年までに10億個にまで回復させる目標を掲げている。2014年に設立され、これまでに7500万個のカキの再生を果たしたという。
「誰もこんなことをやったことはない」。21年11月、カキのすみかとなる容器を沈める準備中に現場で取材すると、ハドソン川公園の設計・建設担当幹部ケビン・クインはいささか興奮気味にこう語った。「ワクワクしてくる。もっと何回もやってみたい」
21年7月に始まった半年がかりのこの事業は、全体として見ると、カキのリーフ(礁)を張りめぐらせたような構造になっている。魚の安全な通り道になり、貝類にとってはカキの増殖にとどまらず、ムール貝やフジツボの繁殖拠点にもなっていく。
ちなみに、大量のカキの稚貝に加えて、600個の大人のカキも投入された。こちらの供給元は、養殖業者だ。コロナ禍でレストランが閉まり、売れ残るようになったものを救済する措置の一環として加えられた。
「通常は、ピアの建設が本業なのだけど」というのはジョン・オニール。カキが入った容器を沈める作業を請け負ったレイコン・グループの現場監督だ。「今回は、いわば環境保護事業への実験的な参入というところかな」
ハドソン川の再生に1960年代から取り組んでいる古参NPO「リバーキーパー」も、今回の事業の実現に手を貸してきた。
「カキは、私たちのこの河口域では、とてつもなく重要な価値を持つ要の生物種」とする声明をジョージ・ジャックマンが、今回の事業の節目に合わせて出している。このNPOで、生息環境の再生部門を担当するマネジャーだ。
「下水道から汚水があふれるようになることを減らすとともに、カキなどの二枚貝が張りついたリーフを増やそう。それが、ハドソン川の河口域の水質を回復させ、そこにすむ生物の多様性を維持する最良の方法だ」と声明は続ける。
先の海洋生物観測所では、カキがどう成長し、水質の改善にどれだけ貢献するかを追跡することにしている。
その観測所は、ピア40で小さな入場無料の水族館を運営している。この水域が、どれほど豊かな海洋生物を育んでいるか、多くの人に分かってもらうためにわざわざ造った施設だ。
このピアの下には、とてつもないカキが生息している。大きさは8.6インチ(21.8センチ強)、重さは1.9ポンド(861.8グラム強)もある。その名も「ビッグ」。2018年に発見され、この1世紀の間にニューヨーク港で確認されたカキとしては最も大きいと見られている。
水族館の見学者を案内した最近のツアーで、観測所員が改めてビッグを計測してみた。わずかしか大きくなっていなかったが、健康状態はよさそうとの判定だった。
案内の観測所員にとって課題の一つは、カキのことを習いにきた見学者に、食用としては安全ではないとの認識を徹底させることだ。
大雨が降ると、ニューヨーク市は未処理の下水をまだ川に捨てている。危険なバクテリアが一緒に流れ込む。さらに、あの公害を忘れてはなるまい。1970年代までは、ポリ塩化ビフェニール(PCB)を含む有害物質が、上流の工場の排水に混じってずっと垂れ流されていたのだった。
カキは、強力な浄水機能を持っている。大人のカキだと、1日に50ガロン(190リットル弱)をもろ過することができる。ただし、重金属やPCBをろ過する能力まではない。
「カキを食べられるようになるまで、道のりはまだまだ遠い」と先の観測所の河口域担当ローブルは話す。
でも、悲観はしていない。カキが入った水中の器は、簡単に引き上げることができる。
「それを見てもらえれば、水面下で何が進められているのか、理解もしやすくなるだろう。そして、この世界を守ろうという意欲も、わいてくるに違いない」とローブルはいう。
「社会の真の参加。それを私たちは、心底望んでいる」(抄訳)
(Karen Zraick)©2022 The New York Times
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