オークションのサイトに出てくる最初の遺品をいくつか見てみよう。
白黒の写真では、息子と母親が笑顔で互いを見つめている。金縁の額に入ったカラー写真では、父親となったその子が、一人息子の肩に手をまわしてほほ笑んでいる。二人ともパリッとした上着に身を包み、柔らかなフェルトの中折れ帽をかぶっている。
家族を愛する男の姿が、そこにある。名は、アル・カポネ。米ギャングのあの超大物ボスだ。
この競売を主催するウィザレルズ・オークション・ハウス(本拠、米カリフォルニア州サクラメント)のサイトを、さらにスクロールしてみよう。すると、悪の世界につながる品々が相次いで出てくる。孫たちには〝パパ〟の愛称で親しまれたのかもしれないが、カポネには凶悪な組織のボスとしての顔があった。
その凶暴性を象徴するのが、1929年2月14日に起きた「聖バレンタインデーの虐殺」だ。
警察の手入れを装った4人の配下が、抗争相手の7人がいたシカゴのガレージに突入した。全員を壁に向かって立たせると、ハチの巣になるほど銃を乱射して殺した。この事件は、カポネが命じたと信じられるようになった。
「悪の世紀:アル・カポネの遺産」。こう題された今回のオークション(2021年10月8日開催)には、持っていた銃器もいくつか出品される。中でも、愛用していた拳銃1911コルト45には、10万ドル単位の落札希望額がすでに2件も来ているとウィザレルズ社の創業者ブライアン・ウィザレルは明かす。
このことは、没後70年以上がたっても、カポネという人物に強い関心が寄せられていることを示している。
「多くの人が加わり、熱い競りが繰り広げられるに違いない」とウィザレルは見る。「長年の経験からどれだけ注目を集めるのか、だいたいは分かるが、今回は予想不能だ」
カポネは1947年1月、脳卒中と肺炎の合併症を患い、フロリダ州パームアイランドの邸宅で死去した。48歳だった。
遺品は家族内にとどまり、カポネの一人息子アルバート・フランシス・カポネ(愛称ソニー)の4人の娘が受け継いだ。現在、存命なのは3人で、いずれもカリフォルニア州オーバーンの近辺で暮らしている。
その一人、ダイアン・カポネ(77)によると、遺品を売ることにしたのは、姉妹が年をとったからということだけではない。むしろ、オーバーンを含む州北部で、大規模な山火事が相次ぐようになったことが大きい。急きょ避難する事態になったら、遺品はどうなるのか。そんな不安が、決断を迫ったという。
「3人とも今年と昨年の夏は、いざというときに持ち出すスーツケースをドアの前に置いて過ごした」とダイアンは語る。
競売にかけられる遺品の総数は174点。家具や時計。葉巻に火をつけるのに使った(訳注=軸の部分が厚紙でできている)紙マッチを収める白金製カバー。刑務所からソニーにあてて書いた手紙……。
宝飾類もある。ダイヤをちりばめたネクタイピン。きらびやかなネクタイバーには、ダイヤで名前の「AL」があしらわれている。
「それにしても、祖父が見せた『私生活の顔』と、新聞や映画、本で語り尽くされている『表の顔』との間には、とてつもない溝がある」――ダイアンは、そう実感するようになったと話す。
「多くの悪事に祖父が責任を持ち、配下に命じていたことを知っているかと問われれば、『もちろん』といわざるをえない」とダイアン。「一方で、その人物がさまざまな次元の『顔』を持っていたことも、よく知っている。家庭での顔と、表の顔との間に、きちんとけじめを付けることができた人だった」
祖父が死んだとき、ダイアンは3歳だった。でも、祖父のことは鮮明に覚えている。本を読んでくれたこと。ひざに載せてくれたこと。邸宅の庭を案内し、指につかまった自分に花や小さな像を指し示してくれたこと。「とっても優しい人だった」
イタリア系移民の家庭に(訳注=1899年に)生まれたカポネは、ニューヨーク市で育った。伝記によると、10代でギャングになろうと決めた。靴磨きをしていたとき、商売人から金品を巻き上げる様子を見て憧れるようになった。
チンピラ時代に顔に傷を負ったことから、「スカーフェイス(疵面〈きずづら〉)」の異名が付いた(訳注=そう呼ばれるのを本人は嫌っていたとされている)。そのカポネは、1920年から33年の米国の禁酒法時代に、非合法化された酒類を売りさばいて自らの「帝国」を築き上げた。
ハーバード・ビジネス・スクールの研究者によると、年間1億ドルも稼いだことがあった。その戦略には、「20世紀初めの米企業家の破壊的な経営手法が映し出されていた」という。
カポネは、200人以上もが殺されたさまざまな事件の黒幕だったと見られている。被害者には、検事も1人入っている。
カポネが拠点とした米第3の大都市シカゴでは、「バグズ(虫けら)」の通称で知られたジョージ・モランの一派と抗争を繰り広げた。その最たるものが、先の聖バレンタインデーの虐殺だった。
この事件の発生時に、フロリダ州で休暇中だったカポネ自身が逮捕されることはなかった。背後で命令を下していたこと自体を疑う声も出るような状況だった。
カポネが殺人罪で有罪になることは、ついに一度もなかった。しかし、脱税容疑で捕まり、31年に禁錮7年半の判決を受けて連邦刑務所で服役した。
収監中にカポネの健康状態は、著しく悪化した。連邦捜査局(FBI)によると、(訳注=若いときに感染した)梅毒が進行し、体の機能が部分的にまひするようになった。
刑期を終えると、メリーランド州ボルティモアで入院し、それからパームアイランドの邸宅に移った。「もう精神的にギャングの世界に戻ることができる状態にはなかった」とFBIは見ていた。
しかし、ダイアンはこれを疑う。祖父は、その世界と自ら縁を切ったのだと信じている。
というのは、祖母のこんな証言があるからだ。
かつてのギャングの仲間たちが、出所したカポネを訪ねてきたことがある。帰り際に「やる気が失せて、頭がいかれちまったんじゃねえか」と話すのを妻が小耳にはさんだ。
「そのことを祖母が祖父に伝えると、〝パパ〟はこう答えたと祖母は教えてくれた」とダイアンは語る。
「勝手にいわせとけ。これであの世界とおさらばできるんだから」
一人息子のソニーはその後、カポネの姓を捨ててカリフォルニアに移り住んだ。4人の娘は、いずれもビジネスや教育の分野で身を立てるようになった。結婚して子供をもうけ、夫の姓を名乗った。
「別に隠れて暮らそうとしたわけではない」とダイアンはいう。「ただ、静かに暮らしたかった」
そのダイアンは、未亡人となったメエ・カポネの記憶をもとに祖父についての本を出し、再びカポネ姓を名乗るようになった。
今回の競売による自分の収益については、すでにダイアンなりの考えがある。貧しい人に食料援助をしている地元の団体に、一部を寄付するつもりだ。大恐慌の時代(訳注=1929年に米国から始まった世界的な恐慌)に、祖父がお金を投じて何カ所かで開いた無料の炊き出しと同じような事業をしているからだ。
カポネの孫娘として、祖父の二面性にはいつも神秘的なものを感じているとダイアンは話す。
「表の顔をああして生きながら、根っからの家庭的な男であり続ける。そんなことを、一人の人間がいかになしえたのか。私には、見当もつかない」(抄訳)
(Maria Cramer)©2021 The New York Times
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