その母親と女の子の赤ちゃんをアベベチ・ゴベナが見たのは、聖地に巡礼しての帰りだった。
母親は、道ばたで眠っているように見えた。赤ちゃんは、懸命におっぱいを吸おうとしていた。その子の様子を見ていたゴベナは、母親が死んでいるのに気づいた。
1980年。ゴベナは、エチオピアの首都アディスアベバの北300マイル(約480キロ)ほどのところにあるエチオピア正教(訳注=この国で独自に発展したキリスト教)の聖地ギッシェン・マリアムに詣でた。
帰路。干ばつと飢饉(ききん)に見舞われてほどない地域を通った。沿道には、たくさんの人が横たわっていた。多くはすでに息を引き取り、いまわの際にある人も。なんとか座ることができる人は、食べ物を求めていた。
「飢えた人が、数え切れないほどあちこちにいた。普通に歩くこともできないぐらいだった」。ゴベナはそのときの様子を、2010年の米CNNテレビとのインタビューでこう振り返っている。持っていたパンと水を分け与えるのが、やっとだった。
ゴベナが、その母親の死に気づくと、遺体を集めている男性がそばにいた。赤ちゃんが死ぬのを待っている、といった。
とっさにゴベナは、赤ちゃんを抱え上げていた。小さな体を布で巻くと、アディスアベバの自宅に連れ帰った。
翌日、もっと多くの食べ物と水を持って、現場に引き返した。
今度は道ばたにいた、衰弱しきった男性の一人が訴えた。「ここに、私の娘がいる。もうすぐ死ぬだろう。自分もそうなる。お願いだから、わが子を救ってほしい」
「ひどい飢饉だった」とゴベナは語る。当局は、何もしようとせず、こうした事態が公になるのを嫌った。「だから、自分の子であるかのように装って、こっそり連れ出すしかなかった」
1980年の末には、21人の子供を引き取っていた。夫のケベデ・イーコステルは、当初は理解してくれた。しかし、しまいには「おれを取るか、子供を取るか、どちらかにしろ」と二者択一を迫った。
ゴベナは、夫も資産も捨てた。子供たちと森の中にある掘っ立て小屋に移り住んだ。身につけていた宝石を売って生活費の足しにした。「インジェラ」と呼ばれる主食のパンやハチミツ酒を販売し、なんとかその日をしのぐ暮らしが続いた。学費までは払えなかったが、家庭教師代わりに教えにきてくれる人を見つけることができた。
その後も、子供の引き取りは続いた。国中ではびこる政府のお役所仕事と闘いながら、86年にようやく非営利組織を立ち上げることができた。「Abebech Gobena Children's Care and Development Association(アベベチ・ゴベナ子供養育協会)」。これで、寄付を募り、助成金などを受け取れるようになった。
アディスアベバの郊外に、農地を購入した。孤児たちとともに育てた作物を売って、日々の糧とした。そして、街のあちこちに公衆施設を作った。野外トイレや共同調理場、給水所が数十カ所にできた。
協会は、エチオピアの事実上の公用語であるアムハラ語の頭文字を取ったAGOHELMAの名で知られるようになり、この国で最も大きな非営利組織の一つとなった。
児童養護施設の運営だけにはとどまらなかった。何百人という貧しい子供たちに無償の教育の場を与え、エイズの予防や妊産婦の健康管理にも携わった。80年の第一歩からこれまでに、150万人のエチオピア人を助けることができたと協会は推定している。
「アフリカのマザー・テレサ」。協会の内外で、ゴベナはいつしかこう呼ばれるようになった。
ゴベナは2021年6月、新型コロナにかかった。アディスアベバのセント・ポール病院の集中治療室に入ったが、翌月4日、帰らぬ人となった。85歳だった。
「私が会った人の中で、アベベチ・ゴベナほど無私無欲で純粋な心の持ち主はいない」――国連の世界保健機関の事務局長で、エチオピアの保健相などを務めたテドロス・アダノム・ゲブレイェススは、声明でその死を悼んだ。「多くの子供が、生きながらえられただけではない。その人生に、豊かな実りをもたらしてくれた」
アベベチ・ゴベナ・ヘイェは1935年10月20日、アディスアベバ北方の村で生まれた。その月の初めに、当時のエチオピアの隣国エリトリアを支配していたイタリアが侵攻してきた第2次エチオピア戦争が勃発。農民だったゴベナの父ゴフェ・ヘイェは、そのときの戦闘で死んだ。
このため、ゴベナは母ウォセネ・ビルとともに、母方の祖父母を頼って暮らすようになった。ゴベナが10歳になると、はるか年上の男性との縁組が決まった。しかし、結婚式が終わると、ゴベナはすぐに逃げ帰った。家族が、この男性のところに連れていくと、夜は逃げ出せないよう部屋に閉じ込められる日々が続いた。
しかし、屋根に開いた穴を見つけたゴベナはそこから抜け出し、アディスアベバにたどり着いた。なんとか受け入れてくれる家庭を見つけ、学校にも通った。
その後、コーヒーや穀物を輸出する会社の品質管理の担当者として働き始めた。当時としては、安定した中流の暮らしを築くことができた。
しかし、AGOHELMAを設立したころは、ほとんど貧民に等しかった。給料は決してもらわず、児童養護施設の宿舎に隣接した部屋で寝た。
アムハラ語で「エマイェ」(「素敵なお母さん」というような意味)と呼ばれるようになったゴベナは、子供たちを引き取って育てただけではなかった。学校で教育を受けさせながら、必ず役に立つ技能を覚えさせた。
金属加工やししゅうのほかに、時代の流れに合わせて写真撮影の技術なども習わせた。子供が大きくなると、自分で事業を始めるための資金も与えた。
「エマイェのことをなんといったらよいのか、言葉が見つからない。彼女は、私のすべてだった」。AGOHELMAで育ち、独立したラヘル・ベルハヌは、地元誌アディス・スタンダードにこう語っている。学校を卒業してからエマイェと一緒に仕事をするようになったが、「お母さんたちの中の最高のお母さんだった」と生前をしのんだ。
ゴベナには、直接の身寄りはない。でも、これにはきっとこう反論するに違いない。
「私には、自分の子供はいない」とゴベナは、2004年に英紙タイムズに語っている。
「ただし、私には何万人、何十万人という大きな家族がある。後悔なんて、これっぽっちもしていない」(抄訳)
(Clay Risen)©2021 The New York Times
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