フィリピン・ルソン島の西岸沿いに生きる漁民は、何世代にもわたって、その海、その潮流、その天候が、漁獲を左右することを理解してきた。最近はそこに、中国という要素が加わった。
南シナ海のスカボロー礁はサンゴ礁や岩が三角状に連なる近くに位置し、かつては大きな魚が捕れる豊かな漁場だった。だが、漁民たちはそこに近づけなくなった。
「中国人がKaruburo(カルブロ)をすっかりのみ込んでしまったけれど、そこは、本当は自分たちの領域なのだ」。ジョニー・ソニー・ゲルエラは、スカボロー礁の地元名を使って、そう語った。ゲルエラはこの礁からほんの124カイリ(約230キロ)離れた小さな漁村マシンロックに住んでいる。
ここ10年ほど、中国の沿岸警備隊はスカボロー礁付近に船を停泊させてきた。5年前の7月半ば、国際法廷(訳注=常設仲裁裁判所)はその地域がフィリピンの排他的経済水域(EEZ)の内側に位置するとして、南シナ海における中国の領有権拡大の主張を退ける裁定を下したが、中国政府は事実上それを無視し、この海域でのプレゼンス(存在感)を拡張してきた。
ゲルエラのようなフィリピンの漁民は今、その浅瀬を避けているが、かつて暴風の時には避難所になり、いつもはあいさつを交わしてたばこを交換、サンゴ礁の魚を捕る場所だった。しかもスカボロー礁のレッスン(見せしめ行為)は、南シナ海の随所で展開されている。中国は海上で力による威嚇を続け、持続的な挑発行為を通じて影響力の拡大を図っているのだ。
中国は今年に入り、ウィットサン礁近くに数百隻の船を停泊させた。そこはスカボロー礁からわずか数カイリ(訳注=1カイリは1.852キロ)のごく狭い陸地だが、フィリピンやベトナムが領有を主張している。
中国海警局の船舶に支援された中国漁船は、フィリピンが占有するスプラトリー諸島(訳注=中国名は南沙諸島)の一角に位置するティトゥ島(訳注=フィリピン名はパグアサ島)の周辺にも停泊した。フィリピン、ブルネイ、マレーシア、台湾、ベトナムはそれぞれ南シナ海の一部について領有権を争っているが、中国は南シナ海の大半の領有権を主張している。
米国務長官アントニー・ブリンケンは7月11日、常設仲裁裁判所の裁定5周年に際して声明を発表し、中国の抑圧と威嚇を非難し、南シナ海での「挑発的な行動をやめる」よう促した。
ゲルエラは、国際法廷でフィリピン側に立つ弁護団のための画像やデータの収集に一肌脱いだ。弁護団の一員で、フィリピン最高裁の判事だったアントニオ・カルピオはゲルエラへの感謝のしるしに、一冊の書籍(訳注=カルピオ氏が南シナ海紛争の歴史的経緯をたどり、関係国の主張を整理し、常設仲裁裁判所の裁定を解説した本で、2017年に出版)と彼の頻繁な出漁を記録するためのニコンの水中カメラ2台を贈った。
「我々みたいなちっぽけな漁師に、何ができるというのか?」。つい最近の出漁後、ゲルエラは自分の船の操舵(そうだ)室で語った。「不平は何でも言えるけど、敵は強力だから、我々は何とか生き延びて漁を試みるしかない」
ルソン島沿岸部に点在する集落の人たちは、海域をうろつく中国漁船の乱獲が地元の漁獲量の急激な減少を招いていると言っている。
漁民の権利のために闘う団体「Pamalakaya(パマラカヤ=全国漁民組織連盟)」が調べた推計によると、マシンロックとその周辺地域の漁民はスカボロー礁に近づけなくなったために収入の約70%を失った。
非難の矛先のほとんどは、フィリピン大統領ロドリゴ・ドゥテルテに向けられている。大統領は経済援助の獲得と引き換えに中国にすり寄り、国際法廷でのフィリピンの勝利を台無しにした。漁民たちは、そう言っている。
ドゥテルテは中国の膨張主義をあまり批判していないが、裁判所の判断は勝利として語っており、昨年の国連総会で「裁定をないがしろにする企ては断固拒否する」と述べている。
経験豊富な58歳の漁師ジェリー・リサールからすれば、大統領の声明は不十分で、スカボロー礁近辺での中国の領域侵害が引き起こしたダメージを元の状態に戻すには遅すぎた。
孫が3人いるリサールは、1980年代からスカボロー礁の周辺で漁をしてきた。「何度もそこへ行こうとしたけど、中国人から立ち去るよう告げられた」とリサールは言う。「彼らは拡声器を使って我々に、消え失せろとほえるけど、彼らこそ立ち去るべきなのだ。あそこは我々の昔からの漁場であり、避難場所でもあるのだ」
リサールはマシンロックから北へ約50キロの村カトで暮らしている。彼は、礁の内側の穏やかな潮だまりが魅惑的な魚たちの広場で、そこに足を浸すと魚が突っつこうとして寄ってきたことを覚えている。今では中国海警局の船が、そこを頻繁に巡視している。
中国の沿岸警備隊員は漁民に対し身体的な嫌がらせはしないが、フィリピン人が残してきた釣り糸に時として妨害を加えたりする。
2019年には、中国船がフィリピン漁船に衝突、その漁船は沈没し、フィリピン人漁師22人を助け出す必要があった。一部の漁師たちは後になって、ドゥテルテが中国政府との関係を損なうのを避けるために事件を軽視したと感じた。
フィリピン外務省は、ドゥテルテが2016年に政権に就いて以来、中国に対してざっと100件の抗議を行ってきたと述べている。最新は5月のことで、ティトゥ島付近における「中国のmaritime assets(訳注=直訳すると『海事資産』だが、フィリピンの用語では「海のスパイ機関」を意味する)や漁船の絶え間ない展開、存在の長期化、違法な行為」に関する抗議だった。
中国の農業・農村省は5月、南シナ海での年次禁漁に着手した。8月まで続くとみられている。この禁漁は漁業資源を回復する狙いがあるとされるが、フィリピン当局は、厳密にいえばその禁漁はフィリピン漁民に適用されないので無視するよう告げた。
また、同当局が言うには、漁業資源の枯渇はフィリピンの貧しい漁民が一般的に使っている小型のカヌー(訳注=舷外浮材付きの小舟)やモーターボートよりも中国の大型船による可能性が高い。
最近の、ある晴れた日のこと。最大22人が乗れるゲルエラの木造船「J―Dan」は夜間の漁を終えてマシンロックの港に滑り込んできた。地元の市場で売るアジの一種をちょうど300キロ積んで戻ってきたのだ。
「最近はこの程度だ」とゲルエラは言う。「礁の内側に行ければ」、釣果ははるかに大きかったはずだと振り返った。
それでも、4人の子を持つ温厚な父親ゲルエラは十分に現実主義的であり、自国がすでにスカボロー礁を失ってしまい、その豊かな漁場を全部取り戻せる可能性は低いと思っている。
「力で彼らを排除することはできない」。中国人について、そうゲルエラは語り、「我々が太刀打ちできる相手でないのは確か。でも、我々は抗議することはできるし、状況に順応できる」と話していた。(抄訳)
(Jason Gutierrez)©2021 The New York Times
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