カクテル史というのは、わりと新しい研究分野に違いない。
対象となるのは、主に19世紀から20世紀初めにかけてのバーのマニュアル類。そのほとんどは、腕利きの白人男性のバーテンダーによって作られている。ハリー・ジョンソンやウィリアム・ブースビー、ジェリー・トーマスといった名前が登場する。
関連の著作は、主に当時の居酒屋で出された飲み物について書かれている。女性が長らく入れなかった世界だ。
そこから描かれる歴史観は、男性中心となる。でも、それでは、カクテルがこれだけ社会にとけ込むようになった史実の半分しか表していない――この分野の研究家で、醸造起業家でもあるニコラ・ナイス(43)は、こう指摘する。
「そう思うようになったのは、この本にあるクレヨンの跡がきっかけだった」とナイスは明かす。表紙の折れ目を指でなぞりながら、そこに付いている線を示して、「私にとっては、この本が使われていた証拠でもある」と語った。
1933年に出されたアルマ・ウィテカー著「Bacchus Behave! The Lost Art of Polite Drinking(酒の神よ、行儀よくして! 失われた上品な飲み方の作法)」。「子供のいる女性がこの本を使っていて、離れた隙に落書きされたのだろう」
同じ経験が、自分にもある。「娘が3歳のときに、大事な本に落書きされ、値打ちが数百ドルも下がってしまった」
ナイスは、学問の世界に数年いてから市場調査に携わるようになった。消費者の心を動かすには、どうすればよいのかを醸造企業にアドバイスする仕事だった。その体験から、女性の消費者がこの業界では軽く見られていると感じるようになった。
そこで、女性向けのジンを造る「Pomp&Whimsy」社(在ニューヨーク。以下、P&W)を2016年に自分で立ち上げた。そして、醸造だけでは飽き足らず、ジンなどの蒸留酒についての文献資料を社として充実させることにした。
「女性が温かな家庭を築く役割を果たしていたことは、私にもよく分かっていた。でも、それだけではない。何かが見過ごされていると感じてもいた」とナイスは振り返る。
文献を読みあさるようになった。家事と家庭を楽しむノウハウ本が、積み重なっていった。すべて著者は女性。何冊かは、ベストセラーにもなっていた。数年で80冊を超えるようになり、P&Wのホームページに図書部門を加えた。全体を通じてくっきりと浮かび上がったのは、カクテル人気に果たした主婦の役割の大きさだった。
「確かに、新種のカクテルを女性たちが発明したわけではないのかもしれない。でも、それを広め、人気を高めるのに貢献したのではないか」とナイスは考えた。
「もし、自分が19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて、主婦として生きていたとすれば、カクテルのレシピをどこで見つけただろう」。こんな疑問と向き合うことになった。
すると、いくつかの文献が出てきた。古くは英料理作家イザベラ・ビートンによる1861年の「Mrs. Beeton's Book of Household Management(ビートン夫人の家政読本)」にさかのぼる。何百万部ものベストセラーになった(訳注=料理と家事全般にわたる幅広い内容の)本で、その中から落ち穂でも集めるようにカクテルの話題を拾い読みしたのかもしれない。ちなみに、著者は今風にいえば、米芸能界に旋風を巻き起こした「カーダシアン家」級の影響力の持ち主だった、とナイスは評価している。
1904年のクリスティーン・ターヒューン・ヘリックとマリオン・ハーランドの米母娘による「Consolidated Library of Modern Cooking and Household Recipes(現代風料理と家庭用レシピ全集)」の第5巻には、数十種類ものカクテルのレシピを記した長いセクションがあり、乾杯スピーチについても1章を設けている。
カクテル専門の本にも、女性は進出するようになる。ロンドンに住む米女性スリラー作家ニーナ・トイは、1925年に「Drinks Long & Short(ロング・ドリンク、ショート・ドリンク)」を料理作家のアレック・ヘンリー・アデールとの共著で出した。しかも、ヴォーグのようなファッションやライフスタイルの専門誌で、カクテルのレシピを発表している。
先のウィテカーは、1933年の「酒の神よ、行儀よくして!」で、「男性は、女性にたしなみを仕込まれる最後の存在」とした上で、いくつかの「正しい作法についての簡単な決まり」を示している。その一番には、「酔っ払ってしまうなかれ」とある。
これらの本には、共通していることが一つある。男性バーテンダーとの視点の違いだ。
「女性は、カクテルへの見方が、男性とは基本的に違っている」とナイスは説明する。「そこに、どんな人たちがいるのか。どういう場なのか。どんな季節なのか。食事は何が出ているのか」といったことを女性は考える。「マティーニをどう作るか」という単純に技術的な問題にはとどまらない思考がある。
こうした家庭的で、周囲の人たちに気配りする視点からカクテルについて記すアプローチは、今日に至るまで続いているとナイスはいう。
そのナイスは、2015年に出たジュリー・ライナー著「The Craft Cocktail Party; Delicious Drinks for Every Occasion(手作りのカクテルパーティー どんなときにもおいしく飲もう)」の大ファンだ。
ライナーは、ニューヨークで「Flatiron Lounge」(在マンハッタン。現在は閉まっている)や「Clover Club」(在ブルックリン)といったバーを開いた女性実業家でもある。そして、こう語る。
「友人や家族から電話やメールをしょっちゅうもらう。加えて、カクテルを求めてやってくる人も多い。だから、何を作ろうかと考えることになる」
カクテルについて書く女性は、男性とは違う視点でカクテルが持つカルチャーを考える傾向があることをライナーも認める。「女性はまず、カクテルを飲む客を思いやる。これが男性のバーテンダーだと、作る自分の方が先に立つ」
これまでに集めた女性著者の本を、ナイスはPDFにして自社のサイトで紹介していくつもりだ(今のところは、本の表紙と短い説明を付けているだけだが)。少しでも、著者が伝えようとしたことの橋渡しになればとの願いを込めての構想だ。
米料理作家エリザ・レスリーは、1837年に出した「Directions for Cookery, in its Various Branches(幅広い料理法の手引書)」で、(訳注=現代風のカクテルとは違うが、)自家製のワインやパンチ類、薬用酒の作り方を登場させている。15万部ものベストセラーになり、大きな影響を残した。
「カクテルを広めるのに、家庭にいる女性が与えた影響の大きさをきちんと認めてほしい」とナイスは力説する。
「それは、現在も続いているし、これからも続くだろう。家庭でカクテルをどう酌み交わすかは、バーでするのと同じぐらいに重要なことなのだから」(抄訳)
(Robert Simonson)©2021 The New York Times
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