私はこの時、新聞社の特派員としてリオデジャネイロに駐在していた。110年前に本格的な移民をはじめ、その後、ブラジルの発展に汗を流してきた日本人とその末裔たちは、当時も社会の至る所でその献身的な営みが感謝されていた。
ブラジル政府高官に取材したときも、「われわれの国に日本人の血が入ったことは社会をどれだけ良くしているだろうか」との言葉をもらった。
リオ大会の開会式は現地時間8月5日夜に予定された。日本とブラジルの時差は12時間。開会式の実施中に日本では8月6日午前8時15分を迎えることになった。
開会式の総合プロデューサーとなった映画監督フェルナンド・メイレレス氏は早くからこの運命的な偶然に目を付け、開会式のプログラムに「広島」を模した演出ができないかと考えていた。
メイレレス氏は2002年、リオのファベーラ(貧民街)の子どもたちの抗争を描いた「シティ・オブ・ゴッド」を手掛け、世界中で評価されていた。親日派でもあり、早くからブラジル国内の日本人研究者に会ったり、原爆の資料を集めたりするなどして準備を進めていた。
平和の祭典であるオリンピックで、とりわけ世界の耳目が集まる開会式の瞬間に世界平和を願って広島に思いを馳せることはメイレレス氏の本望だった。
そうして企画されたのは、ブラジル時間8月5日午後8時15分、つまり日本時間翌6日午前8時15分に、広島市の平和記念公園で開かれる式典に合わせて、開会式会場のマラカナン競技場に集まったIOC関係者、選手、観客たち全員が黙とうを捧げるという演出だった。今回、広島市や市民団体がIOCに対して行ったのと同じ黙とうの要請をブラジルで実践しようとしていたのだ。
IOCから政治的な行動にあたることを理由にこの演出は反対されたが、メイレレス氏はあきらめなかった。
この時間帯に、艶やかな日の丸をモチーフにした数十人のダンサーを舞台に登場させ、日系移民をテーマにした舞いを披露した。演出の姿はかなわぬこととなったが、「広島」への連帯はこうした形でブラジルから世界へ発信された。
IOCのトーマス・バッハ会長は東京大会1週間前に広島市を訪問し、平和記念公園の原爆慰霊碑に自身の名前と「平和」と書かれた花輪を献花した。雨中で1分近く黙とうをささげ、「団結なくして平和は実現できない。オリンピックを通じて平和に貢献したい」と語った。
8月6日の一斉の黙とうが認められなかったのは、IOCを取り巻く政治的な要因が影響しているからだろう。大会参加国には核保有国もあり、核兵器廃絶を願う唯一の被爆国、日本も核兵器禁止条約への署名・批准をしていない状況にある。先の大戦において日本軍によって多大な被害を被った国々も参加している。
それでも、開会式に「広島」を演出しようとしたメイレレス氏の願いは形となってオリンピックに反映された。
リオ大会以降、閉会式には歴史の痛ましい出来事や、さまざまな理由でなくなった人たちに思いをはせるプログラムが盛り込まれており、IOCや大会組織委員会は広島の人たちへの思いも8日の閉会式に共有したいとの意向を抱いている。
4年に1度、8月6日は夏季オリンピック期間中に到来する。二度と核兵器の惨禍を繰り返してはならないことを、世界の耳目が集まるオリンピックで誓ってほしいと心から願う。