アンリさんは東アフリカの内陸にある高原の国、ブルンジの出身。今は交換留学生として東京外国語大学で学んでいる。
生まれはルワンダ国境近くにある北部の町ヌゴジ。
「雄大な山々、畑の色鮮やかな野菜、駆け回る子どもたちの歓声・・・・・・。東京のように近代的な建物も、便利な交通網もないけれど、私にとって最愛の場所です」。6月中旬、アンリさんはオンラインインタビューでそう振り返った。
だが、筆者が「きっと美しい場所でしょう」と尋ねると、アンリさんはうつむいてこう語った。
「でも、故郷にいつ戻れるのか全く分からないんです」
アンリさんがブルンジの故郷を離れたのは、今からちょうど6年前のことだ。2015年6月26日。高校1年生のとき、政権による市民弾圧から逃れるため、父とともに弟の手を引き、隣国ルワンダの難民キャンプへ駆け込んだ。山道を含む、150kmの道のりだった。様々な事情があって、母と妹はキャンプには来られず、離ればなれになった。
当時、ブルンジ国内では、政府軍や警官隊が、多くの市民を「反政府的だ」として、弾圧していた。アンリさんの地元も例外ではなかった。反政府デモに参加していなくても、『与党員ではない』『野党員と話した』などの理由だけで、拘束されることがあった。穏やかだった故郷の雰囲気が、一変した。「いつ誰が狙われるか、分からない。それが何よりの恐怖でした」
アンリさんたちが身を寄せたのは、ルワンダ東部にある「マハマ難民キャンプ」。政情不安によるブルンジ難民を受け入れるために2015年に開設され、約6万人のブルンジ人(2020年のUNHCR調査)が暮らしている。ルワンダ国内で最大規模の難民キャンプだ。
キャンプでは、最低限の食べ物やわずかな生活費が支給されていたが、栄養失調や病気にあえぐ子どもたちは後を絶たなかった。
アンリさんは、先の見えない生活に不安を覚えた。「たしかに難民キャンプには、横暴な政治家も警察もいないが、明日のこと、将来のことは誰も保証してくれないのだと実感した」
アンリさん家族も、生活に余裕はなかった。仕事はなく、故郷から持ち込んだわずかな貯金を切り崩して日々しのいでいた。
このままでは、家族の生活が立ちゆかなくなってしまうと、アンリさんは危機感を覚えた。
「このひどい状況から、安定した生活を取り戻すには、遠回りにはなるけれど、大学進学しかないと思ったんです。すぐ働くこともできないわけではありませんが、より安定した仕事に就くには、学び続ける必要がありました」
アンリさんは、幼いころから、学ぶことの大切さを、父親に言い聞かされてきた。
「私も母さんも高等教育は受けられなかったが、お前には、自分の未来のために、しっかり学んでほしい」。故郷の学校で勉学に励み、成績優秀者として表彰されたこともあった。
一方、難民キャンプでは、教育環境が大きく変わった。誰でも、キャンプ内にある無料の高校に通えるが、教員が少ない上、教室は児童生徒でパンク状態だった。電気は使えず、図書館や自習室もなかった。そもそも、大学受験に必要な科目の授業が、キャンプ内では一部しか受けられなかった。
大学進学を目指すなら、キャンプ外の高校に通うしかないが、学費は日本円にして年間3~10万円。アンリさんの家には、学費を払うほど、蓄えに余裕はなかった。
「難民になると、普通の学校に通って、大学を目指すことすら、かなわないのか・・・・・・」
そんな絶望的な状態でも、アンリさんはあきらめずに情報を集め続けた。奨学金を利用できないかと考えていると、キャンプ内の掲示板で1枚のチラシを見つけた。ルワンダのNGOが奨学金受給生を募集する内容だった。
アンリさんは、故郷の高校での成績が優秀だったと認められ、受給生に選ばれた。以前の成績が証明できず、落選した難民の友人もいたという。
「故郷にいたころは、『普通に学べる環境』というのは、空気のような当たり前のものでしたが、環境が変われば、実はとても特別なことなんだと思い知りました」
当初は安定した生活を求め、必死に学ぶ場所を求め続けたアンリさん。高校進学後、自分が学び続ける理由について、考え直すようになったという。
「難民キャンプに来た当初は、自分たちのことだけで精いっぱいでした。でも、私は、最終的には母国ブルンジが平和になってほしいと考えていました。自分や家族だけが助かれば、良いわけじゃないと気づいたんです。母国が平和になるためには、多くの若い人材が必要です」
ところが、高校の同級生には、アンリさん以外に難民はいなかった。
「自分が学んで得たことを、母国の平和や同世代の難民に還元したい。難民を含めたブルンジ人の同世代と一緒に、母国の明るい未来をつくっていきたい」
大学進学へ向け準備を進めるなかで、その思いは強くなった。
大学の試験を突破するだけでなく、奨学金申請もクリアする必要があった。ルワンダ国内で、いくつもの大学に申請したが、奨学金の条件を満たしていなかったり、受け付けを停止していたりして、なかなか受給の見込みがつかなかった。ネット上でも、奨学金の最新情報がまとまっておらず、申請は難渋。高校卒業直後の進学には間に合わなかった。それでも、アンリさんは、辛抱強く、電話で問い合わせたり、書類を送ったりし続けた。
これまで、優秀なのに進学をあきらめる難民の友人を、何人も見てきた。
「アンリ、奨学金またダメだったよ。難民になったら、良い教育を受けるなんて無理なんだ」
そういった報告を聞く度、アンリさんは悔しくてたまらなかった。サポートする余裕がない自分も、ふがいなかった。だが、そうした友人の存在は、どんなにつらい状況でも、自分が学ぶことをあきらめない原動力にもなった。「難民でも、当たり前のように学べる世界であってほしい」
申請を始めて1年以上が経ったころ。最終的に1校から奨学金支給決定の連絡が来た。ルワンダ南部にあるプロテスタント人文社会科学大学で、平和学を専攻する学部。2018年秋に入学することができた。難民を支えたいと望んでいたアンリさんにとって、偶然にもぴったりの学部だった。
平和問題や紛争構造について学び始めると、難民として自分が直面した困難の多くが、学問の中で語られていることに驚いた。「いきなり全てを平和にするのは難しいけれど、まずは市民が紛争に巻き込まれないよう、サポートすることが大切だと気づきました」。
大学では、授業のかたわら、難民キャンプなどで知り合ったブルンジ難民が奨学金を申請するのを、サポートし始めた。奨学金申請書の書き方や面接のポイントを教えると、口コミで評判が広まった。これまで12人を大学に送り出した。
個人的な活動だったが、必要としている人が多いと感じ、教育支援団体「Enough is a little(EIL)」を立ち上げた。「ほんの少しで十分」を意味する団体名は、かつて難民として支援を受けたアンリさんの思いそのものだ。ささいな支援の積み重ねに大きく救われた経験から、「あなたがちょっと手を差し伸べてくれるだけで、十分助かる難民がいる」というメッセージが込められている。
そして、大学3年生となった昨年11月、東京外国語大学との提携プログラムで、念願だった半年間の東京留学を始めた。日本の文化には縁遠かったが、戦後復興に成功した国として憧れがあった。東京外大が集めた寄付から、航空代金と生活費を賄い、オンライン授業を受けている。
ほぼ1人で進めてきたEILの活動に、来日後、日本人の仲間が加わった。ルワンダで知り合った大学4年生、桂川睦美さん(22)と田畑勇樹さん(22)だ。2人は、アンリさんと同じプロテスタント人文社学大で昨年まで交換留学をしていた。
桂川さんは、ルワンダ留学中、アンリさんの難民問題や平和についての強い思いを、間近で見てきた1人だ。
昨年1月。平和学の授業の発表会で、アンリさんは難民となった体験を、初めて公の場で話した。政権の弾圧から逃れるため難民キャンプに逃げ込んだこと、母や妹と離ればなれになったこと――。涙を流しながら、権力者の横暴で最後は市民が犠牲になる理不尽さを訴えた。発表会を見ていた桂川さんは「思い出すだけでつらかったはず。芯が強い人だと感じた」と振り返る。
アンリさんは今年2月、日本人2人の協力を得て、日本でクラウドファンディング活動を始めた。今回は、アンリさんの後輩が大学で必要な生活費をサポートすることが目的だ。ブルンジ出身で、政情不安による混乱の中で兄を亡くした。アンリさんと同じ時期に、同じ難民キャンプに避難し、この春からの大学入学を目指していた。
アンリさんたちはフェイスブックなどで寄付を呼びかけた。連日、動画や文章で難民支援の思いを語ると、協力の輪が広がった。1カ月間で、63人から、目標額の1.5倍の約37万円が集まった。アンリさんは「最初はとても不安でしたが、会ったことがない人からも支援してもらい、とても感動しました」と話す。
現在、クラウドファンディングで寄付は集めていないが、今後、難民学生の入学に合わせ、再び募る予定だ。Facebookで情報を更新する。
アンリさんは、クラウドファンディングの活動を通して、多くの日本の同世代と出会った。10人を超える日本人の若者がSNS上や大学内で「難民についてもっと知りたい」と、声をかけてくれたこともあった。
桂川さんや田畑さんのおかげで、多くの日本の友人たちと、オンラインで難民問題について議論する機会もあり、交流は広がっている。
アンリさんは、7月末にルワンダに帰国する。ルワンダの大学卒業後は、大学院で引き続き平和学を学び、将来は難民支援の仕事に就くつもりだ。
「どんなにつらくても、明るい未来を信じ、学ぶチャンスを求め続けてきました。それは、私にとっては、決して特別なことではありませんでした。難民でも、子どもでも、誰もが将来を自由に思い描ける平和な日が来てほしい。そんな「当たり前の日常」を願っていたからです。日本留学中、コロナ禍で直接会えた人は少なかったですが、心強い同世代の仲間が多くできました。母国の平和に貢献できるよう、学び続けたいと思います」