男性だけの宗教行事に女性が飛び入り参加し、騒動となった実話を題材にした北マケドニアの映画「ペトルーニャに祝福を」が今月22日、封切りされる。
監督は北マケドニア出身の女性テオナ・ストゥルガル・ミテフスカさん。新型コロナウイルスの感染拡大で公開が1年延期になったが、宗教行事という視点から女性差別の問題を浮かび上がらせようとする注目作だ。
作品を通じて監督が伝えたいことは何か。本人に聞いた。
――映画『ペトルーニャに祝福を』は2014年、実際に北マケドニア東部の町・シュティプで起こった事件をもとにしているそうですね。
そうです。初めてこの事件のことを聞いたとき、これは、ただ座って眺めているわけにはいかないと思いました。
私は自分の国では「挑発者」として知られているんです(笑)。常に社会を刺激したり、挑発したりするような作品を撮る映画作家であると。
これまでに手がけた作品でも、正義や公平性、男女の平等など、自分の腹の底で何か痛みを感じるような題材、社会を刺激したいと心の深いところで思う題材を常に扱ってきました。
この事件を知ったとき、ただただ自分はこれにリアクションしなくてはいけないという思いで脚本に着手しました。この映画を通して自国の社会に変化をもたらせられたら……という思いだったのです。
――十字架を誇らしげに手にしたペトルーニャは参加した男性たちから抗議され、なじられ、世間からも糾弾されます。皆が彼女に十字架をおとなしく返すように要求して過激な行為に出るようになりますが、それでも彼女は「十字架は私のもの! 絶対に渡さない」と周囲をはねつけますね。
バルカン諸国は父権主義的で、まだまだマッチョイズムがとても根強い社会です。もちろん憲法など紙の上では男女平等をうたってはいますが、それが日々の行いの中に表れているかというと、まだまだ。道は長くかかると思います。
ですから私たち女性も長年こういう中で暮らしていると、どうしても正面から突破しようとするのではなく、その中でどううまく立ち居振る舞って切り抜けていくかを学んでしまうところがあるんです。
18年前、最初の映画を撮ったとき、文化庁に制作費の助成金を申請しました。申請できる金額の上限は40万ドイツマルク。
しかし、プロデューサーを務める妹は、その半分の額に申請金額を留めて申し込んだのです。女性が申請する場合、男性が申請する額よりも少額にすれば審査に通りやすいということを見越してのことでした。
それって真の平等を求めるにあたっては、最悪の考え方ですよね。でも、当時の私たちはそれが現実だと割り切って自然にそういうことをしてしまっていたんです。
あれから18年経って、もちろん変化もありました。たとえば今作の助成金申請は、匿名での応募、審査が行われたんです。結果、「ペトルーニャに祝福を」の企画が最高点を獲得しました。
監督が私だとわかったときには、女性だからなのか微妙な反応も確かにありましたが、男性女性一切関係なく、資質で判断されるという方法は、とても美しいと思いました。私は民主主義を信じているし、誰に対しても平等な機会が与えられる社会の実現を信じています。
――今作で取り上げられるテーマは男女間の格差だけではありません。なぜ男性たちがそこまで狂気の形相でペトルーニャに迫るのか。十字架は彼らにとって何を意味するのか。そう考えたときに、小さな地方の町で就職口が見つからないペトルーニャの悩みは、そのまま彼らの悩みでもあるかもしれないと気づかされます。
彼らもまた、この伝統的な社会的構造の被害者であり、囚われの身なんですね。しかも「マッチョな男である」こと以外に自分を定義する選択肢を与えられていなくて、それまで教えられてきた型を模倣しているだけ。
改めて自問することもなく、それが自分たちに求められているものだと勝手に考えているんです。
――物語の中盤以降、ペトルーニャにはいくつかの出会いがもたらされます。そのことによって彼女の心が見る見る変わっていきますね。何をしていても無気力でつまらなそうであった彼女の目に生き生きとした光が宿ってくるのを感じます。
主演のゾリツァ・ヌシェヴァは、そのプロセスを繊細な演技で巧みに演じてくれました。
人間は社会的な生き物であって、自分自身が存在するために、あるいは自分自身を肯定するために、誰かに認識してもらうことが必要です。つまり「自信」は、自分が誰であるかということと、とても深いつながりを持っているものなのです。
そのキャラクターの「真実」が瞬間でも表現されているかどうかが大切なのですが、ゾリツァはものすごく才能もあると同時に努力家で、すべてのことに疑問を呈し、このキャラクターは今どこにいて、どんな気持ちで、何をしようとしているのかもっと知りたい……という気持ちで臨んでくれました。
その存在感を活かすためには、シーンからシーンへとシルクの細い糸でつないでいくようにディテールに配慮した演出も必要になってきますが、こういう役者との作業は、美しいダンスを踊っているような感じがします。
――テーマとしては重めですが、映画全体を通して見ると、ユーモアやウィットに富んでいて、思わずクスッと笑ってしまう場面が少なくありません。痛快で、見終わったあとの後味がなんとも爽やか、それでいて、きちんと投げかけられたものは胸の奥に残っています。
人生において笑う瞬間は非常に大事です。映画にもユーモアが欠けていると観客がなかなかアクセスしにくくなってしまう。
私の作っている映画は、家族だけに見せるものではなく、税金や国の助成金を使って制作した以上、社会に見てもらう責任があります。それは「ペトルーニャに祝福を」のように、みんなが関心を持っているような問題を描くことであり、それをさらに誰もがアクセスしやすい状況にすることです。
ユーモアがあることで、悲劇や厳しい話題も飲み込みやすくなり、「ああ、自分はこういうふうにものごとを見ているんだ」と自覚したり、共感したりして、一呼吸おくこともできる。それは映画としても、今日の世界においても、とても必要なことだと考えています。
――人間は誰しも生まれ落ちた時代や環境の中で生きていくしかありません。そういう場で自分を幸せにしていくには、何が必要だと監督はお考えでしょう。
それはやはり、「真実」と「認識」ではないかと思います。自分が誰であるかを知ること、そして周りの環境を深い意味で認識できるかということ。
これはときに最も難しいことでもあるわけです。なぜなら、流れに身を任せて何の疑問も呈さないことのほうがずっと楽ですから。
反抗期真っ只中の10代の頃、「世の中、合点がいかない。どうしたらいいの」と父に訴えたことがあります。すると父がこういったんです。
「テオナ、人生には道が二つあるんだ。ひとつは多くの人が歩く、スムーズで居心地がよくて、危険も何もない、物静かな人生が歩める道だ。そしてもうひとつの道は、とても急峻な山や途中に落石などもある、時には途中で倒れてしまうかもしれない道のりだ。しかしこれは真実の道。お前の行く道はこちらだよ」
娘の幸せはこちらだとよくわかっていたのだと思います。
――素敵なお父様ですね。
母も素晴らしい人で、私はいつも脚本があがると母に見てもらうことにしているんです。
なぜなら、とってもはっきりものを言う人だから。そして口癖のように必ずこう言います。「テオナ、言葉にするような価値のないことを書かないで。言いたいことがないのだったら、私の時間を無駄にしないで」と(笑)。
この両親から影響を受けて今の私があるのだと思っています。