シリアの質素な国境検問所に、イラク側から9人の若い母親が駆け込んだ。そして、もう決して見ることはないだろうと思っていたわが子を懸命に探した。ほとんどの親子にとっては、2年ぶりの再会だった。
幼い子供たちは、ポカンとしていた。みんな、収容先の孤児院で与えられた新しい綿入りのジャケットを着ていた。
母親が涙もふかずにわが子を抱きしめ、キスをすると、みんなすぐに泣き出した。親を覚えているには、あまりにも小さかった。
すぐに、親代わりとなっていた孤児院のスタッフとの別れが来た。
「とてもうれしかった。でも、ショックも大きかった。私にも、子供にも」と母親の一人は戸惑っていた。娘と会える日を夢にまで見ていた。それなのに、「なかなかなついてくれようとしない」。
娘は、2歳半だった。
2021年3月、イラク北部のファイシュハブール国境検問所の地点で、極秘の再会事業が決行された。その現場に、ニューヨーク・タイムズ紙(以下、本紙)の記者らは居合わせることができた。
生き別れになったイラクのヤジディ教(訳注=クルド人の一部の民族宗教)信徒の母と子を引き合わせるのは、知られている限り今回が初めてだった。
母親たちは、過激派組織「イスラム国」(以下、IS)に捕らわれ、強姦(ごうかん)されて性的な奴隷にされた。そして、子供が生まれた。
想像すらしがたい恐怖の5年間を生き延びたこの女性たちは、今も苦境のさなかにいる。
この過激派組織が、2014年にイラクとシリアにまたがる広大な支配地域を築くと、多くの悲劇が生まれた。中でもこの女性たちの悲運は、ほとんど知られずにきた。
その終わりは、見えそうにない。これからの人生も、定かではない。
イラク北部の小さなヤジディ教社会には、今も深い傷痕が残る。この母親たちの子は、あの悪夢をもたらしたISとのむき出しの接点となる。何千人ものヤジディ教徒が虐殺され、6千人以上が連れ去られた。
だから、そんな子を受け入れるわけにはいかない、と長老たちは語る。その一人は、母親が連れ帰りでもしようものなら、子供は殺されるかもしれないとすらいう。
母親たちが解放されたのは、2年前だった。シリアにあったISの最後の拠点が陥落すると、まさに身を引き裂かれるような選択を迫られた。イラクの故郷に帰るには、乳飲み子や幼児を残していくしかなかった。多くは、「また会いにこられるから」と説得された。実際は、そうはいかなかった。
そして、今。再び苦渋の選択となった。
先に、シリアの国境検問所でわが子と再会した母親たちは、肉親との別れを選ばざるをえなかった。親を、きょうだいを、古里の村を捨てたのだった。
「どれほど重い一歩を、この女性たちは踏み出したのか。だれにも、分かりえないだろう。背負ったリスクの大きさも、どれほどの勇気がいったのかも」。イラクとスウェーデンの国籍を持ち、この事業の実現に努めた医師ネマーム・ガフーリは、こう話す。
そこまで踏み切れなかったり、わが子を手放すことを決めたりした母親の子供が30人ほど、シリア北東部の孤児院にまだ残されている。
今回の9人は、いずれも家族に別れを告げることすらできなかった。もし、そうすれば、再会事業そのものが危うくなっただろう。しかも、9人の多くは、ISに連れ去られたときは、自身が子供だったという過酷な運命を背負っている。
「もう3日間も泣き続けている」とその一人は打ち明けた。5歳の娘を引き取るために、年老いた母を後に残してきた。
「これで、母を死に追いやってしまうような気がする。でも、私が娘のためになら、命を捨ててもいいように、母も娘の私のためになら、そうするのだとも思う。どうすればよいのか、分からない」
そういって、その場に泣き崩れた。
この9人の母親と12人の子供は、現在はイラクのある安全な場所にかくまわれている。なんとか、どこか第三国に受け入れてもらえないか。そう待ち望みながらの日々を過ごしている。
これからどうなるのか。シリアの孤児院に残る子供たちの母親20人ほどが、それを見守っている。
(本紙は、再会を果たした母子の安全が確保されるまで、報道を控えた。また、身元も特定されないようにすることで、事業者側と合意している)
この再会事業をひそかに計画した中心人物は、元米外交官のピーター・W・ガルブレイスだ。当初は関心を示さなかったイラク、シリア双方の政府を動かし、関係する各党派を説得して必要な支援を引き出した。もともと両国のクルド人勢力には、太いパイプがあった。米ホワイトハウスの当局者も動いてくれた。
それでも、このような形で実現するまでには、1年以上もかかった。コロナ禍による遅れもあった。
子供たちがまだ残るシリアの孤児院は、米が支援するクルド人勢力が中心となった地元当局の支配地域(準自治区)にある。国境をはさんで向かい合うように、今回のヤジディ教徒が暮らすイラクのシンジャル地区がある。
その女性たちにとって、悪夢の始まりは2014年だった。ISがイラク北部に攻め込み、かなりの部分を支配するようになって、カリフ制国家(訳注=イスラム共同体の指導者による支配体制)の樹立を宣言した(訳注=14年6月)。
14年8月には、異教徒と見なすヤジディ教徒が住むシンジャルを手中に収めた。男性と大きくなった男の子は集められ、皆殺しにされた。その数は最大で1万人ともされ、国連と米議会は民族虐殺として非難した。
さらに、約6千人の女性と子供が捕らえられ、多くがISの兵士に売り飛ばされた。使い捨ての持ち物と見なされ、繰り返し強姦された。売買の対象となり、勝手気ままに売り払われた。
19年(訳注=3月)に、ISはシリア東部にあった最後の拠点バグズを失った。ヤジディ教徒の女性の大半は解放され、子供とともに社会復帰施設に収容された。ヤジディ教徒の長老たちは帰郷を認める一方、子供たちは残していくよう命じた。このため、その多くがクルド人の運営する孤児院に入れられた。
その際に、子供と一緒に居続けるために自分の身元を隠した事例も含めて、ヤジディ教徒とは特定されなかった女性たちは、アルホル難民キャンプに移された。シリア北東部にあるIS兵士の妻子を収容する殺伐とした収容地だ。
このキャンプの生活条件は、(訳注=超過密で)極めて厳しい。しかし、冒頭の2歳半の娘と再会したあの母親は、わが子を手放すまいと、アラブ人だと偽ってここに入った。
ISは米軍による空爆を受けながら、バグズで最後の日々を迎えた。その母親は、爆弾の破片で負傷しながらも、乳飲み子の娘を死なすまいと手を尽くした。飢えないように、小麦粉を水で溶いて飲ませた。自分の衣服を裂いて、ベビー服を縫った。
それほどまでして守った娘は、絶対に手放さない覚悟だった。
しかし、6カ月後に問い詰められ、ヤジディ教徒だと認めざるをえなかった。先の社会復帰施設に移されたが、娘と別れてそこを出ることは拒んだ。
すると、家族が戻ってくるように懇願した。
「ともかく帰ってきて。また、会いに戻ることだってできる、と電話で説得された」
3カ月して、ついに折れてシンジャルに戻った。しかし、同じような境遇の女性たちと同様に、家族とヤジディ教社会の壁が立ちはだかった。
みんなわが子と電話で話すこともできなかった。孤児院からメールで届く子供の写真と動画が唯一の便りだった。しかし、長老たちがやめるように孤児院側に要請したため、20年にはそれもなくなってしまった。
このため、わが子の身の上に何か恐ろしいことが起きたのではないかと案じるようになった。「もう、生きていたくはない」と嘆き悲しむ人もいた。
「あの子の母として、絶対に面倒を見る」と2歳半の娘の母親は言葉を強めた。父親とその親類は、シリアでみんな死んだ。「あの子には、私しかいない。父親がだれだろうと、関係ない」
しかし、ヤジディ教徒の長老と宗教指導者にとっては、そこが問題となる。
ISのテロリストたちの子供をシンジャルに連れてくれば、「ヤジディ教社会を破壊することになる」。ヤジディ教の最高位の宗教指導者「ババ・シェイク」であるアリ・エリヤスは、本紙記者にこう答えた。「われわれにとって、多大な苦痛を伴う問題だ。この子たちの父親は、生き延びた母親の親たちをも殺している。一体、どうやって受け入れろというのか」
法的な問題もある。イラクの法律では、父親がイスラム教徒であれば、その子はイスラム教徒になる。だから、(訳注=母親がヤジディ教徒でも、今回の子供たちはイスラム教徒になり)ヤジディ教徒とは見なされなくなる。しかも、ヤジディ教は、イスラム教からの改宗を認めていない(イラクの法律では、イスラム教から他宗教への改宗は許されているが)。
さらに、ババ・シェイクのエリヤスにとって腹立たしいのは、国際社会の視線がごく一握りの女性たちだけに集まっているように思えるからだ。
いまだに、3千人ほどが行方不明のままだ。14万人以上が、難民キャンプでの厳しい暮らしを強いられている。「ヤジディ教徒全体が孤児に等しく、だれもかまってくれはしない」
確かに、シンジャルとその周辺からISが一掃されて6年もたつのに、ヤジディ教徒の最大の故郷であるこの地区には多くの傷痕が残る。掘り起こされてもいない虐殺犠牲者の集団埋葬地があちこちにあり、程度の差こそあれ、破壊された家も数多い。
だから、この子供たちは、第三国の支援団体に見てもらうのがよいとエリヤスは思う。母親が子供と一緒に新しい落ち着き先に行きたいのなら、だれも引き留めはしないと突き放すように語った。
ヤジディ教徒の世俗の指導者である首長ハゼム・タシン・ベクは、もし子供たちが母親と一緒に帰郷すれば、その身に危険が生じることになると見る。
「母親が帰ってくるのは我慢できるとしても、子供までは無理だ」とこちらも素っ気なかった。
殺されるということかと聞き返すと、「可能性の一つとしてそれもありうる」との答えが返ってきた。
今回の母親9人の一人は、娘と再会したことを家族に電話で伝え、受け入れてもらいたいと伝えた。すると、兄弟の一人はそれを拒み、脅し始めたのだった。
「もう、安全な居場所を政府が見つけてくれるよう祈るしかない」
子供と一緒に暮らすかどうか、その女性が決められるようにするべきだ、とナディア・ムラドは指摘する。自分もISの性奴隷としての境遇を生き延び、(訳注=脱出後に紛争下の性暴力の根絶に尽くしたとして18年の)ノーベル平和賞を受賞している。
「この女性たちは、とらわれの身となるのを選んだのでもなんでもない」とムラドは本紙に語った。「その後に起きたことも、自分ではどうしようもないことばかりだった。今こそ手を差し伸べ、自分で選択できるようにしてあげねばならない」
9人の母親たちがわが子との再会に出発する前に、先のガルブレイスは「第三国による受け入れ」については楽観しないよう注意している。
そして、数日後。広い「安全な家」には、子供たちの楽しそうな騒ぎ声がこだましていた。
全員が6歳以下。ただ、その様子を見守るいく人かの母親の視線は、まだ不安げだった。次に何か起きるのではないか。そんなおびえが、見てとれた。
何人かの女性たちは、第三国に移住するのなら、一緒に行くことを望んでいる。
母子の絆は、多くがしっかりとつながるようになっていた。
ただ、あの5歳の娘の母親は、まだ大変そうだった。娘は、孤児院のスタッフから引き離されるのを泣き叫んで嫌がった。でも、わが子と一緒の新たな人生を歩む自分の決意には、少しの揺らぎもないという。
突然、あの2歳半の娘の母親が、甲高い声をあげた。「ママっていってくれたの」そして、かがみ込むと、「もう一度」とピンクの服の娘にせがんだ。(抄訳)
(Jane Arraf)©2021 The New York Times
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