海中の方が、よいに決まっている。虫の嫌いな人にはね。
池の水面には、変な虫がいるかもしれない。湖では、水面下でも暮らせるように、気泡を作って潜水生活をする虫もいる。でも、広い海ともなれば、虫の姿は見えもしないから。
ところが、いるんだよ。
ミナミゾウアザラシの後ろのひれ脚を見てみよう……いた! それも、シラミだ。
学術名「Lepidophthirus macrorhini」(訳注=シラミ亜目カイジュウ〈海獣〉ジラミ科の一種)。海中でも生きている。大型の水生哺乳類であるミナミゾウアザラシを宿主として寄生し、その後ろ脚に巣くう。
なにしろこの宿主は、1年のうち10カ月近くも南極やその周辺の冷たい海域で過ごす。エサを求めて、ときには2時間近くも潜り、6500フィート(1980メートル強)の深さに達することもある。だから、このシラミは海洋生態系に存在する昆虫としては、最も深いところで生きる能力を持っているといえそうだ。
そんな研究論文が2020年7月、英学術誌Journal of Experimental Biologyに掲載された。こんなに過酷な生息環境を、どう生き延びているのか。そこに迫れば、これほど広大な海に、なぜわずかな昆虫しかいないのかを解くカギが見つかるのでは、という発想が背景にある。
このシラミは、宿主の皮膚の表面層に潜り込み、血を吸っている。アルゼンチンの海洋生物学研究所の海洋生物学者マリア・ソレダード・レオナルディは2015年に、アルゼンチンに近い南極海のキングジョージ島(訳注=アルゼンチン、中、ロ、韓など多くの国の南極観測基地がある)で実物を見ている。繁殖のために上陸したオスのミナミゾウアザラシに取り付いていた。
「裸眼でも十分に見える。まるで、小さなカニのよう」とソレダード・レオナルディは例える。
成獣と長期の海洋行動を共にしてきたということは、深海への急降下や海面への急浮上にも耐えたことを示している。ものすごい水圧でも、生き延びることができるはずだ。
ただし、体重8千ポンド(3.6トン強)にもなるゾウアザラシを海で捕まえ、シラミがこの極限の環境に耐えたかを確認するのはあまりに難しい。だから、ソレダード・レオナルディらの研究陣は、シラミを研究室に持ち帰ることにした。
提供してくれたのは、アルゼンチン南部のバルデス半島の浜辺で生まれた15頭のミナミゾウアザラシの赤ちゃん。後ろ脚からピンセットで採取した。母親に巣くっていたシラミが、生後数日以内に赤ちゃんに移ってくる。そして、自分たちも繁殖する。シラミの卵は、水中では孵化(ふか)しない。だから、赤ちゃんが海に出るようになる前の生後数週間が、あわただしい繁殖期となる。
研究室では、USBメモリーほどの大きさの容器にシラミを個別に入れ、海水で満たした。そして、容器を圧力装置につないだ。
さまざまな水圧をかけてみた。水深980フィート(300メートル弱)から6500フィートに相当し、水圧は最大で海面の200倍にもなった。深海の環境に10分間浸されたシラミは、75匹のうち69匹が生き残った。
「高い水圧を生き延びるのを確認できたことは、とても興味深かった」とこの論文の共同執筆者でもある仏トゥール大学の昆虫生理学者クラウディオ・ラザリは語る。「うまく対応できることが示されたわけで、耐え切れずに死んでしまうということは考えなくてもよくなった」
研究陣は、さらに高い水圧も含めて、先の想定水深以外の水圧も試してみた。
「現実には、宿主がさまざまな水圧の中を動くので、その状況を再現したかった」とラザリは説明する。
どのシラミも、水圧の急激な変化に耐えた。成虫の方が幼虫と比べて早く回復し、再び動けるようになった。
「よく整った研究」と英リンカーン大学の進化生物物理学者スチュアート・ハンフリーズは評価する。同時に「シラミがどうやって耐えているのかも知りたくなる」と注文する。
今回の研究では、生き抜くために何か特別な適合方法をシラミがとっているのかは、把握されていないからだ。
「体中の動きを止め、気管系も閉じるのでは」とハンフリーズは推測する。シラミは、深海では息を止めているのではないかとする見方だ。
それを確かめるのが、次の研究課題になる。シラミは深海では体の活動を止め、体力の消耗を防いでいるのか。それとも、呼吸を続けているのか。
「このシラミの種が、海面下の状況をどう切り抜けているかを解明することは、他の種がなぜ生き残れないのかを解くカギにもなる」とラザリは話す。
一方で、このシラミは例外的な事例だと見る学者もいる。
「アザラシのシラミは特殊な存在。宿主に取り付いて海で暮らし、宿主が陸に上がったときにだけ繁殖する」と米サンディエゴにあるスクリップス海洋研究所の名誉研究員で海洋生物学者のランナ・チェンは指摘する。
「では、寄生せずに独自に生きる昆虫としても、こうした深海を生き抜く能力があるのかどうか。その辺になると、皆目見当もつかない」(抄訳)
(Priyanka Runwal)©2020 The New York Times
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