インドネシアのナトゥナ諸島沖の海で、魚が一番多くいる場所はどこか。デディは、それを知っている。中国人もまた、それを知っている。
中国沿岸警備隊の武装した船舶に守られた中国の漁船団が、インドネシア人だけが漁業をすることを国際的に認められた南シナ海の豊かな海域に入り込んでいる。
デディは網や釣り糸を使った伝統的な漁法で魚をとっているが、中国の鋼鉄製のトロール船は海底をこすり、他の海洋生物を台無しにしている。中国のトロール船は海上の国境を侵しているだけでなく、生き物がいなくなった海を後にして去っていく。
「彼らは我々の海にやってきて、すべてを奪っている」とデディは言う。多くのインドネシア人同様、彼の呼び名は一つだけ。「どうして我々の政府が守ってくれないのか、理解できない」と続けた。
インドネシアの当局者たちは、最大の貿易相手を不愉快にさせないよう気を使って中国漁船の侵入を重視せず、その海域にまで中国が権利を主張していることをめぐり、中国政府との対立を避けようとしているのだ。しかし、中国の存在が一段と大きくなるにつれ、ナトゥナ諸島の漁民は無力さを感じている。
ナトゥナ諸島付近での中国の違法漁業にはグローバルな影響がある。世界の海上貿易の3分の1が通過する航路に対して中国が権利の主張を拡大していることを、域内の政府に気づかせてくれる。しかし、ナトゥナ諸島の地元指導者は近海での事態を制御していない。
「私たちには土地に対する権限しかない」とナトゥナ議会の議長アンデス・プトラは言う。「海については、州政府と中央政府が扱う」
だが、海の守りに関しては複数の機関、つまり海軍や沿岸警備隊、海上警察、水産省といった機関が担当しており、意思決定が散漫になってしまっている。そう、アナリストたちはみている。
「首尾一貫した単一機関、あるいは海洋の安全に関して筋の通った政策が欠けている」。インドネシアの首都ジャカルタにある戦略国際問題研究センター(CSIS)の上級研究員エバン・ラクスマナは指摘する。「中国は、そこにつけ込むことができる」と言うのだ。
インドネシア大統領ジョコ・ウィドドが1月にナトゥナ諸島を訪問した際、中国の全面的な免責ぶりが示された。
「我が国の主権について交渉の余地はない」とジョコは述べた。その前には、上空をインドネシアの戦闘機が飛び交い、海上では軍艦が巡回していた。
ところが、ジョコがナトゥナを離れた翌日、中国は再び姿を見せた。中国沿岸警備隊に援護された漁船団だ。地元の当局者や漁民によると、漁船が去ったのは数日後だった。
インドネシア水産省は、そうした事態があったことを否定した。
中国の地図には、南シナ海の大部分を中国の領有だとする「九段線」が引かれている。その段線の一つが、ナトゥナ諸島の北側の海域を切り取っている。
中国政府はナトゥナ諸島自体に対するインドネシアの主権を認めているが、中国外務省はその近隣海域は中国の「伝統的な漁場」であると主張している。
「インドネシア側がそれを受け入れるか否かにかかわらず、中国が当該海域について権利と利害を有しているという客観的事実には何ら変わりがない」。さる1月、中国外務省の耿爽副報道局長はそう語った。
国際仲裁裁判所は2016年、九段線には法的根拠がないとの裁定を下した。中国政府は、この裁定を無視した。
そのかわりに中国政府は、紛争中の環礁や小島を軍事基地に仕立て続けており、そこから南シナ海を越えて勢力をのばすことができる。
「中国は徐々に、インドネシアの海、フィリピンの海、ベトナムの海を奪おうとしているのだと思う」。ナトゥナの漁民ワンダーマンは、そう言う。「彼らは、石油、天然ガス、そしてたくさんの魚を渇望しているのだ」
中国漁民は南シナ海でトロール漁をすることで、国民の海産食品に対する欲求の高まりを満たす役割の一端を担っている。
だが彼らは、もっと大きな目的にも貢献している。
「中国政府は、自国の漁民にそこで操業していてほしいのだ」。米海軍大学中国海事研究所の助教ライアン・マーティンソンは、そう述べ、「彼らの存在が、中国の海洋権益の具現化に寄与するからだ」と指摘した。
大統領ジョコの1期目では、海洋・漁業相のスシ・プジアストゥティがインドネシアの海域で違法漁業をしていた中国その他の国々を相手に立ち上がった。インドネシア海軍は中国の漁船に警告弾を撃った。スシは外国船の拿捕(だほ)を命令。数十隻を壊した。
そのうちの1隻はベトナムのトロール船で、それは今もナトゥナの入り江に半分、沈んでいる。
ナトゥナ諸島の漁民たちの話だと、スシの政策で、大量の中国船の侵入を阻止した。
「彼女は私たちを守ってくれたし、インドネシアを守った」。ナトゥナの漁船の船長イディル・バスリはそう振り返る。
しかし、政治アナリストによると、スシの姿勢は大衆には人気があったが、あまりにも挑戦的だとみる政府関係者の間では怒りを買った。ジョコの2期目にあたる昨年10月に行われた内閣改造で、漁業界の有力者だったスシは退き、中国にもっと融和的と思われている大臣にとって代わられた。
ナトゥナでは、そのすぐ後に変化が起きたと漁民たちは言う。
「中国の船が戻ってきたのだ」とデディ。
中国の存在に対抗するため、インドネシアは4年前にナトゥナに軍事基地を築き始めた。今は、施設は崩れかけ、数人の兵士以外は誰もいない。わずかばかりのインドネシア沿岸警備隊が島の沖合を定期的に巡回しているだけだ。
インドネシア政府の最新戦術は、海上の見張りをさせるために人口過多のジャワ島から数百人の漁民をナトゥナ諸島に転居させること。しかし、ナトゥナの漁民はこの考えに反対している。ジャワの人たちは国の助成を得ており、中国人と同じく破壊的な底引き網漁をするからだ。
ナトゥナの漁民ワンダーマンは、ここ数カ月は外国船がたくさん来ていたため、彼の漁獲は半減したと言っている。
「私たちの船は、小さくて木造だが、中国の沿岸警備隊は武装しており、近代的だ」とワンダーマン。「私の恐れの大きさは、海よりも大きい」(抄訳)
(Hannah Beech、Muktita Suhartono)©2020 The New York Times
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