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我慢は嫌い。吉藤オリィ、今に生きる不登校時代の出会いと気づき 

People 更新日: 公開日:

学校に行けず、誰とも会えない。新型コロナウイルスが子どもたちにもたらす不自由さや不安は、ロボットコミュニケーターの吉藤オリィさんが約20年前の不登校で感じた苦しみと少し重なるかもしれない。自室にこもり、ひたすら折り紙をした小学5年から中学2年の間に感じた孤独やさまざまな気づきは、遠隔操作で社会参加できる分身ロボットOriHimeの開発のきっかけになった。「本当に辛く、二度とごめんである」と著書「『孤独』は消せる。」(サンマーク出版)にも書いた3年半のなかで、「学校には行くものだ」という価値観とどう向き合い、今の研究につながる道を見つけたのだろう。(朝日新聞社教育総合本部・柴田菜々子)

■不登校への両親の戸惑い

小学生当時の吉藤オリィさん=オリィ研究所提供

――テクノロジーという道を見つける前の少年期を中心にうかがいます。不登校の始まりは、体調を崩してしばらく休んで、学校に行きにくくなったことがきっかけだったとか。吉藤さんは不登校中のご両親の対応について著書で詳しくは書いていませんが、あまり介入しないような方だったのでしょうか?

そうでもなくて、介入はありましたよ。でもそのうち、あきらめたというか。介入して、介入して、介入したけれど、これじゃうまくいかないよね、万策尽きたよね、じゃああきらめようかという。

はじめの頃は、あの手この手を使って学校に行かせようとか、当時はそんなになかったフリースクールの見学に行ったりとかしました。学校に送り迎えしてくれて、「人より遅くてもいいし、早く帰ってもいいから」って車で送り迎えをしてくれたし、学校内に教室以外の居場所を先生が一時期作ってくれたときは、「給食は食べなくていいよ」って毎日弁当作ってくれました。

学校は行くものだという考えは、両親の中にありましたね。父は学校の先生だったし、熱血教師なタイプで。(住んでいるのも)小さい村なんですけど、村の旅行とかあるような場所で、どこの人がどんなことしているか大体わかる。「何とか学校に行かせなきゃ」と世間体を気にしたことはあったと思う。同調圧力しかないところだったので。

■「楽しくしてくれていたら」と何度も言った

――ご両親が「じゃあ、あきらめよう」となるような出来事があったのでしょうか?

というより、多分どこかでそうなったんだろうな、という話で。はじめは私のゲームを取り上げたりとかしていましたが、そんなことやってもどんどん目が死んでいくし、何もせずボーッと天井を眺め続けて無気力になっていく。学校に行かないことよりも、子どもが家で苦しんでいたり、おなか痛いってのたうち回っている方が、親としてはつらいと思ったんじゃないか。

当初は、お互いに「なんでわかってくれない」というのはあった。でも、中学1年のときくらいかな、「学校に行かなくていいよ、楽しくしてくれていたらいい」と言ってくれるようになりました。期待されなくなったことで、すごく気が楽になりましたね。母が部屋で何度も何度も言ってくれた。父もそういう理解はあったと思う。

学校というところにさえ行かなければ私は元気だったので、アウトドア派の父は山に連れて行ってくれました。「森林セラピー」って、本当にあると思う。人のいない山に行って、虫や鳥の鳴き声を聞きながら、日光浴や森林浴をすると、すごく気持ちが前向きになりました。

■進路、専用ルーム…気にかけてくれたある先生

――不登校になっていた小学6年の頃、幼少期からずっと得意で不登校生活の支えとなっていた折り紙で栞をつくる専用ルームを学校内に作ってくれた先生がいたそうですね。どんな先生だったんですか?

小1のときの担任だった先生です。いい先生も多かったと思うんですが、ほかの担任の先生とは衝突することもあって、一番のクソガキみたいな感じだったのは間違いない。そうしたなかで一番かわいがってくれたのがその先生でした。単純に気が合ったのかな。この人の言うことは聞きたいなと思った先生で。

(後の進学先となる)工業高校や高専(高等専門学校)の存在は、小1ですでにその先生から聞いていた。その先生は高専に行ってたらしくて。折り紙や工作が大好きな私に、「そこに行ったらいいよ」「徹夜してものづくりしていられるよ」という風に教えてくれましたね。

小学校、中学校、高校、高専、大学もそうですが、先生と仲良くなるのがすごい得意だったんです。(自分が通った)全部の学校の職員室や教官室、校長室に行きまくりました。友だちの数より、仲の良い先生の数が多いくらい。先生の方が合うというか、かわいがってくれた。煙たがる先生もいたけれど、変わったマニアックな方向性を楽しんでくれる先生はいたということですね。

遠隔操作で動く分身ロボット「OriHime」

――どんなお子さんだったのでしょうか。

我慢しなきゃいけないことも嫌いだったし、学校の先生に言われたことも基本的に無視する。「授業ってなんであるんだろう」と思うような子どもでした。自分で自分を見られるようになったのは、不登校になってから。小学校のころはただただ本能のまま生きていたと思います。

テレビを全く見ない子だったんですが、「ワクワクさん」(NHK教育テレビ「つくってあそぼ」)はすごく見ていました。あと、図鑑が超好きでした。家にもあったんですけど、当時Google検索もなかったので、わりと図鑑眺めて「こんなカエルいるんや」ってなったりして。でもそれは、知的好奇心じゃなかったと思うし、そこまで自分を高めたいと思ったこともなかったな。

■師匠は「プロの先生」

ーー今も「師匠」と呼ぶ久保田先生はどんな先生でしたか。

プロの教員です。自分の感情とかは抜きにして、生徒にとって何が一番いいか本気で考えていたし、学校にとっては何がいいかというレベルで考えていた先生でした。生徒の持ち合わせたエネルギーをものづくりにぶつけさせて、この学校は変わっていかなくてはいけないみたいなところを考えていて。プロの先生だなって、尊敬しています。

――高校ではどんな学校生活を送りましたか。

始発で学校に行って、終電まで学校にいるので、家には寝に”通って”いました。家に”通う”のが嫌でしたね。荷物も持って帰って、また持ってくるだけだったから、基本的に置き勉していた。なぜ泊まらせてくれないんだろうってずっと思っていましたよ。部室だから毎回きれいに掃除して帰らないといけないから、前後30分くらいは作業できない時間があったし。

工業高校のときの私の夢は、眠い瞬間まで部室にいて、寝落ちして、朝起きるまでハンダゴテを握っていること。いまも学生のころからのシェアハウスが残っていて、夜中まで開発していたいから2、3日に1回しか帰らないんですが、高校時代の夢をいま実現していますね。

■我慢していることに気づいた方が良い

オリィ研究所の入り口にはOriHimeが置いてある=持木伶菜撮影

――偶然の出会いの導きもあったと思うが、通常だと通り過ぎがちな困りごとや解消方法への「気づき」が吉藤さんにはある。その感度をなぜ持てていたと思いますか。

人と違うところであり得るというのは、あまりテレビを見ていなくてあまり情報が入ってこず、旅行やおもちゃなど小さい頃はぜいたくをしていなかったことかな。仮説ですが、入ってくる情報がしぼられていたことによって、逆に一回得られた感動に対する集中度合いが変わってくるのはあるかもしれない。小さなころから、いろんなことをさせてもらったりとか、美術館で感受性を鍛えられたりというタイプもあると思いますが。

あと、昔から、「自分がこうしたから、こうしな」と言うのがめっちゃ嫌いな人間なんです。「なんでセンター試験があるんですか」と言っても、「俺たちもやってきたんだから」と言われがちですよね。苦労した人は苦労することが好きで、苦労している若者が好きなんですよ。いまの若者たちは、我々が経験していないネット上の苦労や、ラインいじめとかをきっと経験していて、じゃあ次の世代は次の世代で苦労するんだから、昔の世代がそのときの苦労をそのまま残すのは無駄だと思っています。

気合と我慢と根性という言葉が嫌いです。そんなことを言っているといつまでも川で洗濯をしているおばあさんが娘に川で洗濯する方法しか教えない。冷たいけど我慢しなさいとなっちゃう。どうすればもっと楽にできるかのか、我慢していることに気づいた方が良いと思っています。

吉藤さんが開発した名刺ケース。名刺をケースに収めた瞬間、付属のカメラレンズによって情報がクラウドにあがる仕組み。OriHime越しにパイロットの人たちがもらった名刺を写真で送るのが大変だったので作ったという。GPSもついており、交換した場所や日時が記録される=オリィ研究所提供

私は自分を”我慢弱い”と思っていて。我慢弱いと昔は生きづらかったと思うんですが、例えば名刺ケース作りではそれが価値に変わる。身体で(苦労を)解決できる人は良いかもしれないけど、もっと楽に解決する方法はいくらでも存在している。それが発明だと思っていて。めちゃくちゃ苦労して火を起こしていたものが、パシュッと火がついたり。実現したかったことをショートカットするツールを作ることが文明だと思っています。