■一変した「他人事」の空気
アジア諸国で感染者が増えて大騒ぎとなっていた2月、アメリカにはまだ「他人事」の空気があった。やがて米国西海岸ワシントン州の老人ホームでアウトブレイクが起こったが、この時も地理的な距離感から、ニューヨークでは「なんだかちょっと大変かも」くらいの感覚だった。3月1日にニューヨーク初の感染者が出た。イランから帰国した女性だったが、医療従事者であったために自己隔離をしていたらしく、他者への拡散は見られなかった。
ニューヨーク市民がざわつき始めたのは、2日後に2人目の感染者が発覚してからだ。ニューヨーク市と隣接するウエストチェスター郡ニューロシェルに住み、マンハッタンに通勤する弁護士の男性だった。男性には地元の高校に通う娘がおり、加えてユダヤ教徒である一家は地元のシナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)に通い、成人式のイベントにも参加していた。この経緯から同郡での感染者が増え、今もニューヨーク市の2倍となっており、州知事は同郡に州兵を派遣している。
この件を受け、ニューヨーク市内のドラッグストアや量販店の棚から、まずハンドサニタイザー(除菌ハンドジェル)が消えた。続いて消毒ワイパーも売り切れた。トイレットペーパーは今もまだある。
全米のあちこちで感染者が増え、大型コンサートなどは中止や延期が発表されている。3月にテキサス州で開催予定だったサウス・バイ・サウスウエスト(SXSW)、4月に予定されていたカリフォルニア州のコーチェラ・フェスティバルも延期された。共に単なるコンサートの枠を超え、米国ポップ・カルチャーの指針となるものだけに経済的ダメージ以上の心配がなされている。
ニューヨークも各種イベントが連日目白押しの都市だ。クオモ知事は12日、500人以上の集まりを13日午後5時以降禁止すると発表した。ミュージカルなどブロードウェーの公演にも12日午後5時から適用される。3月17日のセント・パトリック・デイと呼ばれる日に行われるアイルランド系のパレードもギリギリまで討議された結果、中止となった。
企業はグーグルのような超大手から中規模に至るまで、リモートワークとするところが増えている。タイムズスクエアなども無人では決してないが、以前に比べると人通りが減っている。
名門大学グループのアイヴィリーグ各校も含め、東海岸一円に散らばる大学が次々とリモートスタディに切り替える中、ニューヨーク市立、ニューヨーク州立の各大学は通常通りに開校されていた。だが、10日に感染者が出たことによりリモートスタディに切り替わることとなった。学生は寮も出なければならないが、家庭の事情などにより帰る先のない学生は留まれるとのこと。
ニューヨーク市内の公立校(幼稚園から高校まで)の生徒総数は110万人。共働きやひとり親の家庭が多く、経済的な理由で一日たりとも仕事を休めない時給制、低賃金の職に就いている親も少なくない。しかし法により、小学生までは大人の監視下に置いておかねばならず、一斉休校が大混乱を招くのは火を見るより明らかだ。ゆえに市長は公立学校の休校に消極的だが、生徒や教職員から感染者が出ればどうするのか。子を持つ家庭は気が気ではない。
ちなみにニューヨーク市では中国、韓国、日本、イタリア、イランからの帰国者は2週間の自宅隔離を要請されている。
■アジア系へのヘイトクライム
アメリカ人は日常生活ではマスクを使わず、したがって店頭でもあまり売られていない。さすがに今ではつけている人をチラホラ見掛けるようになったが、それでもわずかだ。ただし、アジア系には当初からつけている人がいた。それがヘイトクライムの対象となった。
2月初頭、マンハッタンの中心部にあるグランド・セントラル・ターミナルの地下鉄駅で、マスクをつけたアジア系の若い女性が男に殴打される事件が起きた。男が女性に向かって「病気のビッチ!」と叫んでいたと通行人がツイートしている。
3月に入るとブルックリンの地下鉄内でアジア系の若い男性が、乗り合わせた男に「そばに居て欲しくない」「どけ!」と言われ、応じずにいると消臭スプレーを吹きかけられた。
数日後、ビル・デブラジオ市長は「新型コロナウイルス関連のヘイトクライムを受けるか見かけるかしたら、通報するように。ニューヨークの活気あるアジア系アメリカ人コミュニティへ:市はあなたたちと共にあります」と、市長夫人のシャーレイン・マクレイ氏がチャイナタウンのレストランでアジア系の人々と食事をする映像と共にツイートした。
他方、トランプ政権メンバー、共和党の一部の政治家や支持者たちは、コロナ騒動にかこつけたアジア差別を繰り返している。新型コロナウイルス(英語ではcoronavirus)を「チャイナ・ウイルス」「武漢(Wuhan)ウイルス」、さらには「カンフー・ウイルス」などと呼び続けている。わけてもマイク・ポンペオ氏が国務長官の立場にありながら、メディアからのインタビュー時に「武漢ウィルス」を使ったことは、中国と外交上の問題を抱えていることを考慮にいれても、論外と言える。
こうしたもろもろの事情があり、日本人を含むアジア系は公共の場で咳やクシャミをしてしまった際、「コロナウイルス感染者と思われないか」と神経質にならざるを得なくなっている。
■トランプ大統領とコロナ
ニューヨーク市は非常にリベラルな民主党地盤の都市だ。2016年の大統領選では有権者の8割近くがトランプ氏ではなくヒラリー・クリントン氏に投票している。トランプ当選の翌日、職場で堪え切れずに泣き出す人まで出た土地柄だ。以後、ニューヨーカー(の8割)は地元出身の大統領を誇るどころか、その存在に鬱々とした日々を過ごしている。
政権奪回のチャンスである2020年の大統領選が近づき、当初は興奮したニューヨーカーだが、勢いのある若手の候補者が次々と脱落するにつれ、選挙への熱気が冷めつつあった。そこへコロナ禍が起きた。だが、トランプ大統領は「インフルエンザみたいなもんだ」「感染者は5人だが、すぐに1人か2人になる」「奇跡みたいに、そのうち消え去る」など、コロナは大したことではないとする発言を繰り返した。
2月末に首都ワシントン近郊で開催された大規模な保守集会の出席者から感染者が出ている。トランプ氏も出席しており、記者から「なぜ検査を受けないのか」と質問を受けた。その際のトランプ氏の返答は「大した問題じゃない」だった。
疾病対策センターとの会議をキャンセルし、選挙資金集めにフロリダへと飛んだ。専門家との会議の後に「医師が全員『どうしてそんなに詳しいんですか』と聞いてきた。私には自然の才能があるみたいだ。大統領に立候補する代わりに、そっち方面に就くべきだったんじゃないかな」と、コロナではなく自分について語り続けた。民主党がコロナへの恐怖あおっていると批判もした。トランプ氏がコロナ対策に関心を払っていないことは明らかだったが、ニューヨーカー(の8割)は、そもそもトランプ氏に期待を寄せてはいなかった。
だが、ニューヨーク市内で感染者が爆発的に増えればどうなるのだろうか。ビジネスも観光も成り立たなくなる。なによりもウォール街がある。証券取引所が閉鎖されることになれば? ある程度以上の年齢のニューヨーカーであれば、2001年の9.11テロ後の様相すら思い出している。
3月11日の夜9時、トランプ氏はホワイトハウスからコロナについて生中継の演説を行った。前日までとは打って変わり、コロナ禍を憂え、アメリカは一つの家族として乗り越えなければならないと語った。そして青天の霹靂のごとく、「30日間の、ヨーロッパからの入国禁止令」を発した。「ただし英国は除く」と、ここでも理解不能の条項を付けていた。
3月11日現在、全米の感染者は1,000人を超え、死者は37人。ニューヨーク州の感染者はワシントン州に次ぐ216人。ニューヨーク市に限ると52人だが、前日の36人から大きく増えている。隣接するウエストチェスター郡は121人である。
追記:3月12日の午後、デブラジオ市長がニューヨーク市の緊急事態宣言を発令した。市長は「来週までに市内の感染者は1,000人に達するだろう」と発言。これを受け、市内のスーパーマーケットでは食料の買い溜めを行う市民が増えた。公立学校の一斉休校については給食が唯一の食事である生徒にも触れ、貧困家庭保護の観点から行わないとした。これに反発する市民が休校を求めるオンライン署名活動を開始している。