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安田菜津紀さん、サヘル・ローズさんが問いかける「世界のためにできること」

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2009年、戦禍にのみ込まれる前のシリア、首都ダマスカス。街を一望するカシオン山には、夕暮れ時、友人や家族連れの人々が、石壁がオレンジ色に染まっていく絶景を見ようと集っていた=安田菜津紀さん撮影

■「子どもたちに武器でなくペンを」

――サヘルさんは今回、ヨルダンにある最大のシリア難民キャンプ、ザアタリ難民キャンプも訪ねた。もともと、キャンプに学校をつくる活動を続けているNPO「国境なき子どもたち」を通じて、日本から支援活動をしてきたという。養母とともに日本に渡って厳しい暮らしを生き抜いてきたサヘルさんは静かに、しかし強く語りかけた。

中東の難民キャンプの子どもたちとポーズをとるサヘル・ローズさん

サヘルさん)私は子どもたちに武器を持たせたくない。お父さんを失ったり、兄妹を奪われたりした子どもたちに植えつけられた憎しみの種、敵を撃ちたいという思いはどこかでわき出てくると思う。それは否定できないもの。憎しみは誰しも持っていて、汚いものではないです。

でも、そこでどうやって「憎しみからはなにも生まれない、あなたが銃を向けた相手、その家族の子どもが次はあなたの子どもを撃つかもしれない。負の連鎖でしかない」と伝えるか。私は武器ではなく、ペンを握ってもらいたい。

ボールで遊ぶ子どもたち=サヘルさん撮影

難民キャンプは整ってきていて、私にはひとつの街に見えたんです。でもまわりにはフェンスがあって、見上げたら針金が空に突き刺さっている。子どもたちは遊んではいるけれども、見上げた先には針金が突き刺さった空。その向こうに手を伸ばしたくても、自由に動けるわけではない。カメラを向けると「写真を日本に持って行ってね」「おれの存在を覚えておいて」って無邪気に笑いかけてくれるけれど、笑顔のなか、瞳の奥にある悲しみというのは、肉眼で見たからこそ感じるものがありました。

難民キャンプのフェンス=サヘルさん撮影

――サヘルさんは、帰国後もずっと腕につけているという小さなブレスレットを見せながら、話を続けた。

サヘルさん)私は現地で青空教室をさせてもらって、女の子たちに自分の歩んできた道のりを話しました。そうしたら、そのなかのひとりが、本当に急に泣き出して、もう涙が止まらなくてなってしまって、私にハグをしてくれたんです。「来てくれてありがとう」って。

私が「どうしよう、私の話が通じるだろうか」と感じていたところに、その子、リムちゃんが抱きしめてくれて。帰りぎわに、このふたつのブレスレットをくれて「私が存在していることを覚えておいて」って。「私もおねえちゃんのこと忘れないから」って。「私、ここでがんばるから、またどっかで会おう」って。

ヨルダンのシリア難民キャンプの写真を見せながら、現地でもらったブレスレットについて語るサヘル・ローズさん

小さな、おもちゃのようなブレスレットです。彼女たちはどういった思いで、自分の国からこれを持ってきたんだろうと。最後に逃げるときにみんな、すべてのものを持ってこられるわけではない。子どもたちもいろんなものを抱えながら、でもお父さんお母さんには心配をかけられないというなかで。

この子たちが大人になったときに、まだキャンプで生活しなくちゃいけないのか。結婚するときも、この中なのかなって。これを拡大させちゃいけない。このキャンプが整って良かったではなくて、キャンプがこのまま突き進むことを阻止しなきゃいけないなと。社会がこれを見て、おかしいと思わなきゃいけない。整ってよかった、水道があって良かったではないんだなと。いろんなことを感じました。

――各地のシリア難民キャンプを取材してきている安田さんが訴えたのは、自由がない生活の厳しさだった。

安田さん)3カ月のシフトとはいえ仕事があり、最低限の配給もあるので、偏見を持たれることがあるんです。仕事もせずにいいよね、とか。でも、逃れてくるひとたちは、その前にいろんな日常があって。サンドイッチ売っていたよとか、テレビのプロデューサーをしてたよ、とか、学校の先生だった、とか。たんに仕事というのはお金を得るということだけではなくて、社会とつながっていく、社会から必要とされていくということ。

ザアタリ難民キャンプのひとたちの中には「檻の中で生活しているようだ」という言葉を使う人もいるのですが、ずっといつ帰れるかもわからないし、何をしていいのかも分からない。自分自身が世界から必要とされていないような気がする、と。そんな社会につながれない苦痛にも、私たちは思いをはせなくてはいけないなと思いますね。

■子どもたちに感じた「見てもらいたい」という思い

――今回ふたりがともに訪れたのは、イラク北部のアルビルにあるダルシャクラン難民キャンプだ。

講演会ではまず、安田さんが地図や写真を使っていまのシリア周辺の情勢について解説した

安田さん)イラク北部はクルド人の自治区になっています。アルビルは、非常に治安が安定していて、暴動とかデモで犠牲者が出たとかいうニュースがあるバグダッドとは、別世界。ある意味、国家がふたつある感覚と思っていただけるといいのではないかと思います。

サヘルさん)言葉が通じなかったので、みんなジェスチャーで話すんですけど、スマートフォンの連絡先を教えたら、毎晩いろんな子たちからビデオメッセージが来る。言葉が分からないから、みんなアイラブユー、アイラブユーを繰り返すんですね。

安田さんとサヘルさんは「なっちゃん」「さっちゃん」と呼び合う仲。会はなごやかに進んだ

手紙も書いてもらいました。10年後になりたい自分とか、いま思っている感情をつづって、と。それにも「愛してる」とか「大好きだよ」とか、なにか愛に対しての言葉をみんな使っていて。それは、愛情をすごく求めていて、見てもらいたい、抱きしめてもらいたい、ということだと感じたんです。小さなころの自分も、そうだったから、もちろん環境は全然違うんですけど、軌道修正できるんであれば、早い段階から手を差し伸べていかなければいけないなと強く思いました。

■なぜ紛争地に行くのか?

――なぜ中東をはじめとした世界各地に出かけていくのかにも、話は広がった。

安田さん)紛争地だからお邪魔していると言うよりも、縁がある場所だから伺っているという感覚なんです。大学生の時にボランティアをしていたあしなが育英会が2007年に、世界でいろんな形で親御さんを失った子どもたちを日本に招いてキャンプをやろうという企画をしてくれたんです。そのときに仲良くなったのが、私よりもちょっと年下の、イラク北部のモスルから来た男の子だったんです。で、彼はまた会おうねという約束をしてモスルに帰っていったんです。

ですが、2007年というのは、イラク戦争後の混乱を引きずって、モスルが非常に治安が悪化した年でした。彼はモスルにいることができないので、当時は非常に治安で安定していたシリアに逃れたんです。シリアの南に位置しているダマスカスという街、みなさんも地図で確認できると思うんですが、当時の様子をちょっとだけ。カシオン山から一望したのが、こちらです。

――安田さん会場に映した写真は、白壁の家々が夕日に照らされる絶景。来場者からは「ほーっ」とため息がもれた。

かつてのダマスカスの夜景を紹介する安田さん

夕方、オレンジ色の光が石壁をぽーっと照らし出していく雰囲気は本当にこう、何回見ても絶景で、ダマスカスに逃れた彼、仮名でアリ君としましょうか、アリ君と何回もピクニックに訪れました。で、夜になっていくと、こう。六本木ヒルズ49階からの風景に私は負けてないと思っているんです。緑色の光がぽつぽつ点在しているのが、イスラームの方々が祈りを捧げる「モスク」からの光です。あの光自体が、平和の象徴だとアリは語ってくれました。

でも2011年から、シリアは徐々に徐々に戦禍に飲み込まれ、アリ君は、シリアにいられないからと言って、モスルに戻ります。ところが2014年6月に、モスルがIS、いわゆるイスラム国によって征圧されて。彼はモスルにいられなくて、アルビルに逃れました。だから、紛争地に行きたいというよりも「あなたと私」という関係性の中での「あなたの抱えている問題を知りたい」「あなたに会いたい」というのが、私のきっかけだったなと思います。

■日本から、できること

――日本から見れば、どうしても遠くに感じてしまう中東の話。だが、安田さんは「日本からもできることがある」と言った。語り出したのは、2011年の東日本大震災で壊滅的な被害を受けた被災地の話。岩手県陸前高田市の海岸に一本だけ残り、「奇跡の一本松」と呼ばれた松の写真を会場に映し出した。

安田さん)ここには、高田松原という日本百景のひとつがあったんですが、7万本あった松のうち、1本だけが残りました。岩手県の陸前高田市というところです。私の夫の両親、義理の父、義理の母が住んでいたのがこの陸前高田でした。

義理の父は、病院の4階で胸まで水につかったのですが、このときはなんとか無事でした。しかし1カ月後、川の上流9キロ地点のがれきの下から、義理の母の身体が見つかりました。家族として思うことはありましたが、最後まで誰かのために生きた母の命が、この街のなかにあるんであれば、その命はこの街の中でつないでいきたいということで、8年半以上にわたってずっと通わせていただいています。シリアで内戦がはじまったのは2011年3月。東日本大震災が2011年3月。ほとんど時を同じくしています。

「私たちになにができるか」。東日本大震災の被災地で安田さんの経験談に、参加者たちは真剣な面持ちで聴き入った

私が8年近くお世話になってきた仮設住宅があります。米崎小学校という小学校の校庭の仮設住宅で、いろんな世代の60世帯から始まっている比較的大きな仮設住宅だったんです。あるとき集会室で、交流をしていたときにおじゃまをして、シリアのお話をぽろっとしたことがあったんです。

シリアは緯度が高く、高地も多いので、冬になるとがくんと気温が下がって、雪に見舞われることもあります。そんなことをその場に集まった方々にお話をしました。難民となって隣の国で生活している子どもたちも大変なんですよって。現にその年は大寒波だったので、隣国でプレハブやテントで生活しているなかで凍死したり、重い疾患になったりした子どもたちが相次いだんです。

そうしたらそこにいた方々が「私たちにもできることがある」って。子どもたち、孫たちが大きくなって使わなくなった服を、シリアの子どもたちが無事に冬越えできますようにって集めてくださったことがありました。段ボール10箱分ぐらいかな。

この服集めの中心になってくれたのが、自治会長さんとそのご家族です。8年半たっても、まだ仮設住宅で生活されています。それでもおっしゃってくれたのは「世界中からの支援でここまで歩んでこれたから、今回は『恩返し』ではなくて『恩送り』をしたい」ということなんです。「恩送り」って、私もはじめて聞きました。

みなさんの中にも、今回の台風19号で被災されたかたもいらっしゃるかもしれません。その厳しさと向き合いつつ、でもやっぱり、この厳しさを知っているからこそ、これが人の手で起こされたらどうだっただろう、戦争で同じ苦しみが与えられたら、どれだけ苦しかったろうと考えられる。私たちには想像力というとても尊い力が備わっているんだということを、私は陸前高田のご家族から教えていただいたなって思っています。

みなさんにも国境を越え、国籍を越えて思いをはせる力がそれぞれに備わっていると思います。だから、それぞれができる役割、小さくてもその役割に優劣はないので、その役割をどう持ち寄っていけるのかということが、いま私たちに問われているのかなと思います。

アフリカローズの萩生田愛さんからは、誕生日を迎えたサヘルさんにケニア産のアフリカローズが贈られた

イベント当日の10月21日は、サヘルさんの誕生日。サヘルさんの名前の「ローズ」にちなんで、アフリカ産のバラを輸入・販売するアフリカローズの萩生田愛・最高経営責任者(CEO)が登壇し、サヘルさん、安田さんにアフリカ産のバラを手渡した。

参加者たちとの記念写真に収まるサヘルさんと安田さん(中央)