米国が外国の領土を、単に条約だけではなく金銭取引で手に入れたのはカリブ海のバージン諸島(訳注=バージン諸島のうちの西側を指す。東側は英領バージン諸島)が最後だった。1917年のことで、デンマークから購入した。
それから100年以上が過ぎた今日、大統領ドナルド・トランプが世界最大の島グリーンランドをデンマークから買い取りたいと意欲を示した。デンマークは拒否したが、同島を買おうとした大統領はトランプが初めてではなかった。1946年、当時の大統領ハリー・トルーマンが購入を提案した。デンマークはその時も応じなかった。
243年の歴史の中で、米国は何度も外国の領土を購入してきた。現在のアリゾナ、ニューメキシコ両州の大半はメキシコから、フロリダ州はスペインから、アラスカ州はロシアからそれぞれ購入した。
しかしながら、それは何世紀も前のことで、列強が戦争し、条約交渉をして新大陸の領有を争っていた開拓時代の話だ。
「もはやそんなことは通用しない」とノースウェスタン大学准教授のダニエル・イマバールは断言した。歴史学者で「How to Hide an Empire(帝国の隠し方)」の著者でもある。
彼によると、20世紀への変わり目で「フロンティア(辺境の地)はもはやなくなった」と認識され、所有権のない地域はほとんど残っていなかった。
「別の言い方をすれば、領土の拡張は他の強大な帝国の犠牲の上でしか成立しなくなったのであり、その地の先住民が犠牲になって勝ち取ったのではなかった」とイマバールは語った。
世界が手狭になっても、領土を拡大して帝国建設を進めたいとする野望が第1次世界大戦と第2次世界大戦の引き金になった。
イマバールは「第2次世界大戦後、世界地図は以前よりずっと固定化された」と述べるとともに、各国とも「広大な地続きの土地を併合しないまま世界に影響力を及ぼす方がより簡単にすむ」ことに気づいたのだ、と語った。
米国の主だった領土購入例のいくつかを取り上げてみると――
■1803年 ルイジアナ購入
米国は82万8千平方マイル(214万4510平方キロメートル)のルイジアナの地をフランスから1500万ドルで購入した。現在の価値だと3億4千万ドル(1ドル=105円換算で357億円)に相当する。
この地はミシシッピ川からロッキー山脈に及び、現在の15州――アーカンソー、コロラド、アイオワ、カンザス、ルイジアナ、ミネソタ、ミズーリ、モンタナ、ネブラスカ、ニューメキシコ、ノースダコタ、オクラホマ、サウスダコタ、テキサス、ワイオミングの各州――にまたがって広がっていた。
大統領トーマス・ジェファーソンは、フランスからニューオーリンズだけを買い取るため、ジェームズ・モンロー(訳注=後の大統領)を特使として派遣した。しかし、当時の統領ナポレオン・ボナパルトは、フランスのルイジアナ領全部を売却すると申し出た。
■1819年 フロリダ
1819年、スペインとの間でアダムズ・オニス条約が調印された。スペインは「ウェストフロリダ」と「イーストフロリダ」を割譲した。両フロリダは現在のアラバマ、ルイジアナ、ミシシッピとフロリダ・パンハンドル(訳注=フロリダ州北西部)にまたがる地で、スペインの植民地だった。
アメリカ独立戦争(訳注=1775~83年、アメリカの13の植民地が英国からの独立を成し遂げた)の間、両フロリダは英国の植民地だった。83年のパリ条約で独立が達成されると、両フロリダはスペインに戻された。
1810年、ウェストフロリダのアメリカ人植民がスペインからの独立を宣言した。大統領ジェームズ・マディソンと米議会はこの反乱を好機ととらえ、同地は「ルイジアナ購入」で獲得した土地の一部であると領有権を主張。15年、当時の国務長官ジョン・クインシー・アダムズ(訳注=後の大統領)がスペイン特使のドン・ルイス・デ・オニスと交渉を開始した。
このアダムズ・オニス条約で、米国は反乱の代償として500万ドル、現在の価値だと1億100万ドル(同約106億円)を支払うことで同意した。さらに、「ルイジアナ購入」で得た地域の西側国境が画定された。また、スペインが領有権を主張していた「パシフィック・ノースウェスト(訳注=現在の米アラスカからカナダ太平洋岸を経て米北西部に至る太平洋岸北西部)を放棄させ、スペインにはテキサスの主権を承認した。
条約は21年に批准された。
■1848年 メキシコ割譲
アメリカ・メキシコ戦争(訳注=米墨戦争。米国が1845年にテキサスを併合、メキシコは外交交渉を拒否し、46年に戦闘開始、米軍が圧勝)は48年、米大統領ジェームズ・ポークがメキシコ市でグアダルーペ・イダルゴ条約に調印して終結した。メキシコは52万5千平方マイル(約135万9744平方キロメートル)の領土を1500万ドルの一括払い、現在の価値で4億8700万ドル(同511億3500万円)相当で米国に割譲した。
割譲した領土は今日のカリフォルニア、ネバダ、ユタ各州とアリゾナ、コロラド、ニューメキシコ、ワイオミング各州の一部。
条約はこれらの地域に残ったメキシコ人に自動的に米市民権を付与し、メキシコ系米国人はそれまでの財産を所有することも許された。
■1854年 ガズデン購入
米国務省歴史部によると、米国は現在のアリゾナ州とニューメキシコ州の一部を取り囲む3千万平方マイル(約7769万9643平方キロメートル)近くの地域を買い取るため、メキシコに1千万ドル、現在の価値で3億500万ドル(同約320億円)相当を支払った。
アメリカ・メキシコ戦争は1848年に終結したが、米国とメキシコの間では緊張が続いていた。両国ともニューメキシコ南部からテキサス西部にかかるメシーラ渓谷の領有を主張していたためだった。
米大統領フランクリン・ピアースはメキシコ担当相のジェームズ・ガズデンをメキシコに派遣、大統領アントニオ・デ・サンタ・アンナと交渉させた。新たな条約が結ばれ、米国の南側国境が策定された。
■1867年 アラスカ購入
米国は60万平方マイル(約155万3993平方キロメートル)近くの地域をロシアから720万ドル、現在の価値にすると1億2500万ドル(同約131億円)相当で買い取った。
アラスカ購入はロシアの北米への領土拡張に終止符を打った。ロシアのピョートル大帝は1725年にアラスカの地の探検に乗り出したが、永住植民者数が400人を超えることはなかった、と米国務省歴史部は記している。
ロシアはアラスカの天然資源に関心を持っていたが、植民のための主要支援策の資金に事欠いていた。クリミア戦争(訳注=1853~56年)に敗れた後、59年にアラスカ売却を申し出た。
買収の駆け引きは米国内の南北戦争(訳注=1861~65年)のために遅れ、67年に米大統領アンドリュー・ジョンソンが条約に調印した。アラスカは1959年まで州にならなかった。
■1898年 フィリピン諸島
1898年、アメリカ・スペイン戦争(訳注=米西戦争。キューバの独立闘争に介入した米国とスペインの戦争。スペインが敗戦)が終結し、パリ条約が結ばれた。スペインは3世紀以上にわたって植民地にしていたフィリピンを米国に譲渡した。
このパリ条約でキューバの独立が認められ、グアムとプエルトリコも米国に割譲された。 米国はフィリピン譲渡に対してスペインに2千万ドル、現在の価値で6億1800万ドル(同約649億円)相当を支払った。
しかし翌99年、フィリピンの民族主義者たちが独立を要求して米軍に反乱を起こし、アメリカ・フィリピン戦争に発展。エミリオ・アギナルドに率いられたフィリピン民族主義者たちがすべての植民地支配からの独立を求めて抵抗した。
戦争は3年間に及んだ(訳注=フィリピン側の抵抗は米軍に武力鎮圧された)。米国がフィリピンの独立を承認したのは1946年だった。
■1917年 バージン諸島
130平方マイル(約337平方キロメートル)にまたがるカリブ海のバージン諸島は、デンマークから2500万ドル、現在の価値で5億100万ドル(同約526億円)相当で米国が買い取った。セントクロイ島、セントジョン島、セントトーマス島、その他いくつもの小島がある。
当時デンマーク領西インド諸島として知られていたが、米国は同諸島を獲得してカリブ海に影響力を及ぼしたいと1867年から画策していた。1917年になって大統領ウッドロー・ウィルソンが購入条約に署名し、バージン諸島は、正式に米国の領土として移管された。
(Mariel Padilla)©2019 The New York Times
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