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世界とつながり地域を豊かに 地球市民たちが照らす日本の未来

PR by 国際交流基金アジアセンター 公開日:
受賞団体のひとつ「パンゲア」の活動(写真提供・特定非営利活動法人パンゲア)

異なる文化や習慣を持つ人たちとともに暮らす社会をどう作っていくか。日本にとっては現在進行形の課題だ。少子高齢化で人口が減る一方、外国人労働者の受け入れを拡大する改正入管法が4月施行される。今年、国際交流基金の「地球市民賞」を贈られた3団体は、地域に根を下ろし、日本の将来を見据えて異文化理解、多文化共生など時代を先取りした取り組みが高く評価された。

技術の力で地球市民を育てる「パンゲア」(京都市)

「パンゲア」とは、約3億年前に大陸が移動して5つに分かれる前に存在したと言われる超大陸のこと。2003年に発足したNPO「パンゲア」は、日本やケニア、韓国、カンボジアなどの拠点をインターネットで結び、9~15歳の子どもたちが集まって絵画やアニメーションの共同創作、メッセージ交換などで交流している。

パンゲアが開発した絵文字「ピクトン」や機械翻訳システム「ゲンゴロウ」(写真提供・特定非営利活動法人パンゲア)

ネットワーク上で文字や画像をやりとりする「パンゲアネット」と、言葉の代わりに絵文字を組み合わせて意思疎通を図るツール「ピクトン」を使い始めたのは2005年。2009年には機械翻訳「ゲンゴロウ」など、いずれも独自にシステムを開発してきた。SNSや動画中継、絵文字、機械翻訳は、いずれも近年、一般的になった仕組みだ。

アメリカ帰りの2人によるインターネットを使った国際交流だが、子どもたちが使うのは英語ではなく、絵文字や機械翻訳。「言語の序列を作らず、何語であろうと公平につながりの場を持てる」ことを目指している。「英語を公用語にすると英語力のある人が場を支配してしまう。何語であろうと『中身を持って、それを表現しなさい』と教えています」

「パンゲア」の活動(写真提供・特定非営利活動法人パンゲア)

きっかけは、2001年9月11日にアメリカで起きた同時多発テロ。偶然生き延びた日本人教育者と日本人技術者が取り組むのは、「技術の力で世界平和」という、壮大な夢だ。

理事長の森由美子さんは玩具メーカー勤務を経て、アメリカ・マサチューセッツ工科大学(MIT)メディアラボで客員研究員をしながら、おもちゃの開発に関わっていた。2001年9月、大手玩具メーカーとの打ち合わせが急に延期になり、翌日に乗る予定だったサンフランシスコ行きの飛行機をキャンセルした。9月11日朝、その飛行機が乗っ取られ、ペンシルバニア州に墜落した。

この飛行機には、メディアラボの同僚だった現副理事長の高崎俊之さんも一緒に乗る予定だった。愛国主義に染まり内向きになっていくアメリカで、「イスラム教徒は何を考えているか分からない」「不気味だ」という声がラジオから聞こえてくる。「技術を使って世界の平和をつくるために何ができるのか」。2人で考えようと翌年から、世界各国を回った。

アメリカはアフガニスタンやイラクに侵攻し、イスラム諸国の反感は高まっていた。「アメリカのMITから来たけれど『日本人だ』と自己紹介すると、とたんにいろいろ喋ってくれるようになる。みんなが仲良くやっていけるプラットフォームという発想自体、日本的なのかも」。日本なら世界のミドルマン(仲裁者)になれるかもしれないと、日本に帰ってNPOを立ち上げた。

森由美子さん(左)と高崎俊之さん=吉野太一郎撮影

各地の活動は900回近くになり、参加した子どもの数は延べ約1万人に上る。世界各国の、様々な宗教や経済的背景を持つ子たちが集まる。「早いうちから世界を知ることで、参加した子どもの意識は明らかに開かれていく」と森さんは言う。ケニアではスラムに住む子が奨学金を得て医師を目指す。日本の参加者もハリウッドで俳優になった子や、途上国で活動する看護師を夢見る子がいる。

国連は2015年に掲げたSDGs(持続可能な開発のための目標)で、「地球市民教育」の必要性に触れた。「地球をもっと長持ちさせるには、地球全体でもっと考えないといけない。でも今までの大人はそういう教育を受けていない。『自分の村だけ、国だけ』でなく、世界とのつながりを感じられる場を、子どもにも大人にも提供していく」。パンゲアの目指していたものに、世界が追いつきつつある。

外国人に選ばれ、ともに生きる地域づくり「グローバル人財サポート浜松」(浜松市)

「人財」の表記には、「人は地域の財産」という思いが込められている。外国人への介護資格の教育や、地元企業での日本語教室支援、日本の学校に通い始める外国人の子どもを大学生がサポートする事業など、設立以来、活動領域を広げてきた。

「グローバル人財サポート浜松」が実施している日本語教育の支援活動(写真提供・グローバル人財サポート浜松)

「日本人であれ外国人であれ、浜松に住んでよかったと思える街をつくりたい」という、代表理事の堀永乃(ひさの)さんの思いは、11年前の出来事が原点だった。

2008年、リーマンショックの影響は、製造業の街・浜松にも押し寄せた。当時、浜松国際交流協会の日本語コーディネーターとして、日本語教育や、在住外国人の生活相談に関わっていた堀さんは、途方に暮れていた。

「仕事をなくした」「離婚した」「どう生きて行けばいいか分からない」と相談に来る顔見知りの外国人、中でもブラジル人たちが、「毎日のように、ある日突然、自殺していく。耐えられなかった」

楽器やオートバイなどで知られる浜松は「外国人集住都市会議」を2001年に立ち上げた都市でもある。「カメラ付き携帯電話、家庭用ゲーム機など、ものづくりにイノベーションが起きる2年ぐらい前になると、目立って街に外国人が増えていた」。日本語もままならず派遣、請負契約で単純労働に従事し、不景気になると真っ先に解雇された。水際で向き合う一人として「この人たちに『手に職』をつけさせないと」という思いが募った。

「グローバル人財サポート浜松」の介護教育(写真提供・グローバル人財サポート浜松)

同じ頃、認知症を患った祖母の在宅介護にも追われていた。施設を見学すると、介護の仕事は明確に役割分担が決められ、分業態勢が発達していることが分かった。「スキンシップや笑顔、思いやりといったブラジル人のホスピタリティーを生かせる仕事かもしれない」と、翌年に「介護のための日本語教室」を立ち上げた。

3年後、その卒業生たちが「介護施設で働くために、ヘルパーの資格を取らせて欲しい」と堀さんに頼みに来た。浜松国際交流協会の業務からは外れるため、同年に新たに設立したのが一般社団法人「グローバル人財サポート浜松」だ。現在までにここで養成された介護職員は約80人。静岡県内で働く外国人介護労働者の約4割に上る。2014年には平易な日本語で書かれた介護のテキストを一般発売した。

今年4月から改正入管法が施行され、「特定技能」という外国人労働者の在留資格が新設される。より熟練した「特定技能2号」と認められれば、家族帯同で在留できるようになる。「外国人を住民として受け入れた経験のない自治体が多いので、地方の受け入れ格差は広がっていくだろう。それは地域の人にとっても不幸なこと。日本人と外国人が、お互いに顔が見える関係を作って、できないところを補い、心地よくコミュニケーションができる環境を作っていくことで、多様性を地域の活力に生かしていくことができる」

堀永乃さん=吉野太一郎撮影

今では同じ悩みを抱える他の街から「うちでもぜひやってほしい」と声がかかるようになった。「ずっと今まで時代の先を突っ走っていたような感じがして、後ろを見ても誰もついてこない気がしていた。このノウハウを必要としている地域があるなら、喜んで提供したい」と堀さんは話す。それでも「日本で働く海外の若者たちに、浜松が選ばれる街になってほしい」と、団体名から「浜松」の名前は絶対に外さないと心に誓っている。

地方で若い世代が学ぶ多様性「小松サマースクール」(石川県小松市)

毎年夏休みの7日間、日本の高校生が、海外の大学生による英語の授業を受けたり、地元の伝統芸能や工芸に触れたり、ワークショップなどを通じて交友を深めたりする「小松サマースクール」。地方では有数の規模となった国際交流プログラムは、7年前にアメリカから日本を訪れた大学生と、受け入れた日本の家族との出会いから始まった。

地域の伝統芸能を学ぶ「小松サマースクール」の活動(写真提供・小松サマースクール実行委員会)

2011年夏、アメリカの大学生が石川県で日本語や日本文化を学ぶサマープログラム「プリンストン・イン・石川」に参加したハイチ出身のハーバード大学生、ステファン・フシェさんが、小松市の光井一恵さんの自宅にホームステイした。フシェさんはその2年後、長野県小布施町で開かれていたサマースクールに参加。テレビでその様子を見た光井さんらが「小松でもやりたい」と小布施の主催者に会いに行き、地元の自治体や企業に協力を呼びかけて実行委員会を立ち上げ、2014年8月に第1回を開催した。

光井さんはそれまでも、同様のプログラムに参加するアメリカの大学生を何度も自宅に受け入れていた。「学生の間に起業するなど、当時の日本の子どもたちには考えつかないことをやっている、優秀な学生が多いと感じた。情報や機会の少ない地方の子どもたちにも、いろんな人に出会って自分の可能性を広げてほしいと思ったのがきっかけです」

共同作業を通じて理解を深め合う「小松サマースクール」のワークショップ(写真提供・小松サマースクール実行委員会)

毎年、公募で選ばれる高校生は60人。大半は「英語を学べるので親に勧められて」という動機で参加するが、7日間、高校生5人とサポート役の大学生によるグループ単位で行動し、共同作業を通じて「互いの背景を理解して真摯に相手に接し、葛藤を乗り越えていく。単なる英語力ではなく、コミュニケーションを取ることとは何かということの習得を心がけている」(2018年度実行委員長の金子暁さん)

フシェさんはハイチ生まれ。中学校で「日産自動車について」レポートを課されたのが日本との出会いだった。調べて驚いた。「フランスの企業だと思っていたけど、違ったのか」。子ども向けアニメ番組、家電製品、携帯電話。身のまわりにメイド・イン・ジャパンはあふれていた。「私たちの生活は、知らないうちに日本の誰かにデザインされている。その人たちに、ハイチのことを説明すれば、もっとよいものが造れるかもしれない」と考えたのが、日本語を学ぶきっかけだった。

サマースクールに参加する高校生の出身地は、都会と地方、日本や海外など様々だ。大学生も日本とアメリカだけでなく、中国やフランスなど、多様な文化的背景を持つ人が参加するようになった。

金子暁さん、ステファン・フシェさん、光井一恵さん=吉野太一郎撮影

「将来の選択肢を知るという意味で、大きな機会を提供しているんです」とフシェさんは語る。自らはハイチで起きた政変を避けてアメリカに移住し、奨学金を得てハーバード大学を卒業。日本留学、日本企業勤務を経て、福岡市で起業するという選択をした。

「情報があればあるほど、自分に合った場所に行ける。その情報を増やしたい。こういうプログラムが増えるほど、日本人は日本の良さを知り、日本で住みたい、遊びたいという外国人も増えるはず」。海外進出する日本企業のコンサルティングを手がけながら、サマースクール産みの親として、巣立つ高校生や大学生を見守っている。

提供:国際交流基金