電車で見つけた「好奇心」 気象庁を退職して参加
橘氏(以下、敬称略):大林さんは、どのような経緯で参加したのですか?
大林氏(同):気象庁を退職して協力隊に参加し、1992~94年にドミニカ共和国の国家気象局で活動しました。気象庁時代、ASEAN(東南アジア諸国連合)諸国から招へいした若手人材との交流プログラムに参加したことをきっかけに、タイやインドネシアへ旅行するようになり、さらにはもっと長く海外で、特に若いうちに途上国で暮らしてみたい、と思うようになったのです。だから「人助けがしたい」というよりも、好奇心が主な動機でした。
そんなある日、たまたま電車で協力隊の広告が目に入りました。資料を取り寄せてみると、職種に「気象学」があり、これならできそうだと思い応募しました。
橘:実は私も電車内の広告を見て応募したんです。金融機関に就職して1年目に、神戸で阪神大震災に遭遇しました。「人生で本当にやりたいことはなんだろう」と自問自答するようになった時に広告を見て、こういう選択肢もあるな、と考えたのです。
また今春の協力隊員募集のキャッチコピーは「求む、好奇心」。協力隊は社会貢献への崇高な意思が必要と思われがちですが、他の国への好奇心や自己成長への意欲などさまざまな動機があっていい、というメッセージを込めました。
ただ大林さんが参加した1990年代はまだ、終身雇用が当たり前だった時代。せっかく得た中央官庁の地位を捨てる決断には、かなり勇気が必要だったのでは?
大林:一度しかない人生だからやりたいことをやろう、仕事以外の経験があってもいいじゃないか、と考えていましたね。結果的に私は帰国後、再び気象庁に採用してもらえましたが。ちなみに現在、国家公務員は自己啓発休業を利用して協力隊に参加することも可能です。
貧困地域での経験、その後の活動に生きる
橘:協力隊の活動には困難もつきものですが、現地での苦労はありましたか?
大林:現地では限られた予算の中、やるべき仕事を探すことから始まりました。まず着手したのが、紙ベースで保存された気象観測データをシステムに入力し、データベースを整備することです。過去の気象観測データは、農業や観光業などの発展に不可欠な、国の基盤情報なのです。整備したデータベースを用いて、これらの関係者にデータを活用してもらう取組も進めました。
また日本人は若く見えるらしく、最初は年下の同僚にすら「若造」扱いされました(笑)。ただ、動かなくなっていたコンピュータープログラムを直したら「やるじゃないか」と態度が変わりました。
ドミニカ共和国では、普段はスコールに濡れても「そのうち乾くさ」とのんきに構えていて、日本のように毎日天気予報を気にすることはありません。ただ、数年に一度大災害をもたらすハリケーンに関しては非常に敏感で、気象局の情報も頼りにされます。
私は首都での活動で、生活にはそれほどの不自由はなかったのですが、地方で活動した橘さんは、かなり厳しい環境だったのでは?
橘:私は1997年から2年間、インドネシアのスラウェシ島の村落で、市場の整備や農畜産物の流通調査などを通じて、住民の収入を増やす事業に参加しました。村の暮らしぶりを知るため住民の家に間借りしたのですが、食事はたいてい、大盛りのご飯に野菜の煮込みが少しだけ。インスタントラーメンがつけばごちそうでした。
この村で、途上国の貧困をリアルに体験できたことは、私の活動の原点です。その後もさまざまな事業に関わりましたが、常にスラウェシの人々を思い浮かべて「本当に彼らの役に立つか」と考えるようになりました。ついでにインスタントラーメンさえあれば、生きていける力も身につきました(笑)。
大林さんは協力隊での経験が、その後のお仕事に生かされたことはありましたか。
大林:活動期間中、メキシコやジャマイカ、グアテマラの気象局にも訪れる機会があり、世界の気象局の現場に共通する雰囲気のようなものが漠然と分かるようになりました。この経験が気象庁へ戻った後、タイや中国などの気象局の関係者と関わる時にも役立ちました。
またドミニカ共和国政府は当時予算が乏しく、気象局でもしばしば、勤務時間の短縮や給料遅配がありました。職員たちは、副業で高校や大学で教えたり、昼間働いて夜大学に通ったりと、苦労しながら気象の仕事を続けていました。彼らの姿を見て、帰国後も自分は恵まれた環境にいるのだからしっかり仕事をしよう、と気持ちが引き締まりました。ただ現在はドミニカ共和国も、経済が急成長しているようです。
教える支援から共創の立場へ コロナ禍後、派遣を順次再開
橘:東南アジアや中南米では、ドミニカ共和国も含めた多くの国が発展し、日本との格差も縮まりました。今は先進国と途上国が共通の課題を抱えることも多く、途上国の対策の方が進んでいるケースすらあります。このため国際協力の形も、先進国が途上国へ教えるという一方通行の関係から、共に考え解決策を見つけるという、共創的なスタンスに変わってきました。
一方、気候変動によって地球規模で災害が多発するようになり、かつ激甚化しています。洪水や干ばつが農畜産業を脅かし、その結果食料価格が高騰して政情不安が起き、気候変動対策がさらに遅れるという悪循環も起きています。こうした打撃を最も大きく受けるのは、貧しい国の特に貧しい人たちです。このため協力隊も、気候変動対策と弱い立場にいる人々へのサポートという、両輪の活動が求められるようになりました。
大林:日本も短時間に猛烈な雨が降る回数は、40年前に比べ約2倍に増えました。ましてや世界では多くの国が、極端な豪雨や日本とは比べ物にならないほどの干ばつに見舞われています。しかし途上国の多くは、日本のような地域ごとのきめ細かい警報システムが整っていません。
このため国連は、5年間で全世界に早期警戒システムを整備する取り組みを始め、気象庁も協力しています。気象衛星「ひまわり」のデータなどをアジア・太平洋諸国へ提供した上で、JICAと連携してデータを使いこなすための研修も行い、早期警戒の体制づくりをサポートしようとしています。
橘:協力隊にも、気象観測システムの構築支援や、学校などで環境や防災について教える職種があります。協力隊の活動は、砂漠で井戸を掘るといったイメージが強いかもしれませんが、実は気象や農業、テレビ番組制作など190以上の職種があります。海外への好奇心と、少しでも「人の役に立ちたい」という思いさえあれば、多くの人が自分の力を発揮できる場を見つけられるはずです。
コロナ禍で一時休止していた派遣も順次再開し、2023年4月現在、約850人が海外で活動しています。コロナ禍で深刻な打撃を受けた途上国に、日本がしっかり寄り添うためにも、派遣者数をなるべく早く、コロナ禍前の2千人規模に戻したいと考えています。
大林:協力隊の活動に関心を抱いても、仕事があったり就職が決まっていたりして、応募をためらう人も多いでしょう。ただ海外で自分の幅を広げる経験は、将来必ず役に立ちます。経験者としては、思い切って挑戦するのも一つの人生だとお伝えしたいですね。
橘:協力隊の活動は、隊員に国内では得難いさまざまな経験をもたらします。帰国した隊員から「教えに行ったつもりが教えられた」「元気づけるつもりが元気づけられた」という言葉もよく耳にします。現地での学びを元に、帰国後に起業や地方創生など多様なキャリアを歩む人も増えています。
隊員が派遣された国の人々とつくり出す「つながり」の積み重ねが、最終的に日本とその国との信頼をも育みます。若い世代はもちろん、豊かな経験や技術を持つシニアも含めてぜひ、「つながり」づくりの最前線を担っていただきたいです。