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JICA海外協力隊 途上国への貢献が自分を、社会を変えていく

Sponsored by 独立行政法人国際協力機構(JICA) 公開日:

途上国での「気づき」で隊員自身が変わる

――JICA海外協力隊の歴史や概要を教えてください。

1965年の事業立ち上げからこれまでに98カ国でのべ5万人以上の隊員が活動してきました。当初はアジア圏への派遣が多かったのですが、アフリカや中南米も増え、派遣エリアを広げてきました。各国のニーズが多様化し、当初は20ほどだった募集職種は190ほどに増えています。それに伴ってスポーツや教育、高齢者介護など新しい分野も加わり、20歳から69歳まで多様なバックグラウンドを持った方が参加しています。隊員の派遣期間は2年間が基本ですが、1カ月~1年未満の短期派遣もあります。仕事に就いている方でも参加しやすく、派遣後に復帰しやすい環境づくりにも取り組んでいます。

――JICA海外協力隊に参加することで得られる価値とは何でしょうか。

途上国に一定期間身を置いて現地の方と同じ目線で生活しながらともに働く――。協働によって得られる新たな視点と自身の変化につながる経験が、途上国への貢献に加えて、JICAボランティア事業の大きな価値だと思っています。

事業には、3つの目的があります。「開発途上国の経済・社会の発展、復興への寄与」と「ボランティア経験の社会還元」に加え、大切にしているのは「異文化社会における相互理解の深化と共生」です。JICAボランティア事業は、“援助する側”と“される側”という立場で行うものではありません。派遣先で「指導してあげよう」と意気込んでも、日本の技術や経験がそのまま使えることは少ないでしょう。その違いは何なのか、その理由を考えていくと、社会の違いや背景にある課題に気づき、解決のための新たなアイデアが生まれます。この双方で芽生える意識や行動の“変容”こそが、事業の重要な狙いです。途上国という日本とは異なる環境で人々と信頼関係を築き、協働のやり方を探っていく。その体験を通じて得られる自分自身の変化を、その後も社会に生かしていってほしいと考えています。

西アフリカ・ガーナでの学校保健を推進する活動(左=JICA提供)、東アフリカ・ルワンダでの水と衛生に関わる取り組み(右=小柳耕平氏提供)など、JICA海外協力隊の活動は多岐にわたる

多様化する日本、共生社会の架け橋に

――元隊員の皆さんは派遣先で得た経験や学びを帰国後にどう生かしていますか。「日本社会に還元する」という点で期待することは何ですか。

もともと国際協力に関心が高い人が多いので、国際貢献など社会的な分野で活躍する人は多いです。国内にいる外国人のサポートに携わる人もいます。

他方で、必ずしも特別な仕事をする必要はないとも思うのです。日本社会は多様化し、外国人の方もとても増えています。私が訪れた高知県では、カツオ漁船にはインドネシア出身の人が、ニラやミョウガ農家にはフィリピン出身の人が大勢いました。彼らとともに新しい社会を作っていかないと、国内の産業も地域での暮らしも更なる発展が難しい時代です。そんな共生社会づくりに、派遣先の国で多くの違いに触れ、信頼関係を築いた協力隊での経験が必ず生きます。元隊員たちが、隊員活動時のように声をかけて一人一人と向き合い、互いの違いを尊重し、新しい価値を見いだすことを日常の暮らしの中でやっていけば、じわじわと日本の社会を変えていく力になると思いますし、多様性という豊かさをもっとみんなが感じられる社会にしていくことに貢献できると期待しています。

――これから海外協力隊員になろうとする人に、どんなマインドを求めますか。

JICAボランティア事業の募集職種は、社会人経験が浅くてもチャレンジできるものから、高い専門性が求められるものまでバラエティーに富んでいます。対象年齢の幅も広く、どんな方でも自分にできる職種がきっと見つかるでしょう。そこで共通して“求められる要素”は、自分が社会や他者の役に立ちたい、それによって自分の価値や可能性を再確認したいという熱意、情熱です。そうした強い思いを実現させるために、一歩踏み出してチャンスをつかむ力も必要です。

加えて、隊員たちが途上国でまず経験するのは、「自分は何もできない」という“無力感”です。「助けられたことのほうがはるかに多かった」という隊員も少なくありません。未知の環境で2年間活動を続けるためには、周囲に助けてもらうことで自分の力に変えていく「受援力」がとても大切です。謙虚に、相手をリスペクトする姿勢がその土台となるでしょう。

――コロナ禍により世界は大きく変化しています。これからJICAボランティア事業に参画していく皆さんへメッセージをお願いします。

コロナ禍は、世界のつながりを明らかにしました。世界を一瞬にして駆け巡ったウイルスによって、自分たちだけに都合が良い社会ではダメで、あらゆる国が平和で、人々が健康であることが自分にとっても大事なのだと実感させられました。世界には「みんながパートナーとして取り組むべき課題」があるという問題意識が広がりました。そして、解決に向けて何かできることはないか、という思いが強まっていると感じています。

途上国に関心がある方はもちろん、途上国を含めた社会全体に対して自分ができることを探りたいという方にも、この事業をぜひ活用してほしいです。2年間で得られる気づきは、多様な社会づくりにもつながる、日本や世界が今まさに求めている重要な視点だと思います。

早水綾野(はやみ・あやの) maramanaブランドディレクター

(2012年6月~2014年6月、ソロモン諸島・プログラムオフィサー)

帰国後、ソロモン諸島の貝細工を使ったジュエリーを販売している早水綾野さん(本人提供)

JICA海外協力隊の活動中、忘れられない言葉

早水綾野さんがJICA海外協力隊員として南太平洋の島国、ソロモン諸島の地を踏んだのは26歳のとき。配属されたのは、ガダルカナル州保健局マラリア課。蚊帳を配ったり、啓発活動を行ったりと、マラリアの感染を抑えることが役目だ。

早水さんは決められた仕事をこなすのではなく、みんなを巻き込むことを大事にした。村民参加型の健康委員会を立ち上げたり、トップダウンだったプロジェクトの権限を現場のスタッフに渡したり。日本とは仕事観の違うソロモン諸島。みんなが動いてくれず、憤りを覚えることもあった。

そんな彼女の「My Episode 0」は、Sally(サリー)との出会い。
仕事に追われ悩んでいた同僚のSallyが「アヤノが来てから仕事が楽しくなった。毎日頑張ろうって思える」と言ってくれたのだ。事実、仕事もスムーズに運び、州のマラリア感染者数がたった1年で半減する成果をあげた。人と関わり合いながら結果を出し、誰かの気持ちを変えた経験が、早水さんの心に深く刻まれた。

隊員としての活動を終えたあと、国際協力のNGOに所属しアフリカにも行ったが、そこではパソコンと向き合う日々。歯がゆさを覚えた彼女は、1カ月の休暇をとりソロモン諸島に戻った。懐かしい風景と変わらない人々に再会し、「ソロモンとつながっていたい」という気持ちが湧いてきた。

ソロモン諸島から始まった夢は、日本へ。そして世界へ

ソロモン諸島とずっとつながっていくためには、ボランティアではなく、ビジネスをする必要があると考えた。「いろんな物事の解決には、みんなの収入を増やすことが必要。自分のプロジェクトで、そこに貢献できれば」。早水さんがたどり着いたのが、ソロモン諸島の伝統工芸である貝細工。見た目が美しく、デザインさえ工夫すれば日本でも売れると思った。現地の職人と直接話し、ジュエリーとしてデザイン・製作、フェアトレードで仕入れる。プロジェクト名は「Sally」。同僚だったSallyは今では大親友で、ソロモン諸島からビジネスを手伝ってくれている。

最近、ソロモン諸島に進出している日本企業が支援したいと言ってくれた。次はアフリカのマラウイにも活動を広げたいと考えている。「Sallyのように、自分の仕事に誇りを持つ生き生きとした女性が増えたら」。ソロモン諸島から始まった夢は、日本へ、そして世界へと広がっていく。

中西敦士(なかにし・あつし) トリプル・ダブリュー・ジャパン株式会社 代表取締役

(2011年3月~ 2013年04月、フィリピン・村落開発普及員)

起業の夢をかなえ、排泄(はいせつ)のタイミングを予測する機器をつくる会社を立ち上げた中西敦士さん(本人提供)

マニラ麻でジーンズをつくる、という挑戦

中西敦士さんがJICA海外協力隊員として派遣されたのはフィリピン・ルソン島のソルソゴン州グバット町。村落開発普及員として、バナナに似た「マニラ麻」という植物を使い、村民の収入向上を目指すのが任務だ。試行錯誤の末、目をつけたのはジーンズ。現地の縫製工場や日本の製糸会社にかけあったり、同時期に派遣されていた服飾隊員に協力を求めたり、1年半かけて耐久性と通気性に優れたマニラ麻ジーンズをつくりあげた。

収入をより安定させるため、マニラ麻生産の拡大にも着手した。日本の商社の支店長が元JICA海外協力隊員だったという縁もあり、2012年、新たな農園を整備することができた。
そんなある日、中西さんは現地の家族が薬代わりにマンゴーを食べているのを目にする。フィリピンは薬の価格が高いため、ほとんどの人が購入できず、一度体調を崩すと死が目前にある。ヘルスケアがみんなに行き渡らない環境をなんとかできないか。マンゴーを食べる家族の姿が、中西さんの「My Episode 0」となる。

自分の失敗が、新事業へのアイデアに

海外協力隊の活動を終え、中西さんは米国カリフォルニアの大学にいた。幼い頃からの起業という夢をかなえるため、勉強漬けの毎日。そんな中西さんに事件が起きる。引っ越しの最中に「漏らして」しまったのだ。

大人になってトイレに間に合わない経験をしたショックを、中西さんは事業アイデアへと転換する。排泄(はいせつ)のタイミングを事前に予測するデバイスをつくれないかと考えたのだ。2013年当時は介護業界でも排泄ケアが課題になっていた。日本に帰国後、会社を立ち上げて開発を進め、排尿タイミングを知らせるウェアラブルデバイス「DFree」を発売。介護施設や病院などでも活用され、「2年ぶりにトイレでできた」と涙を流して報告してくれる人もいた。

DFreeは、超音波で膀胱(ぼうこう)や大腸の動きを捉えて可視化し、心臓や肺などほかの臓器にも転用が見込める。データによって、気軽に健康管理ができれば、高齢化が進む日本の課題を解決でき、ヘルスケアが整っていない途上国の助けにもなるかもしれない。「世界を一歩前に進める」を企業ミッションに掲げる中西さん。自身も20代の頃、JICA海外協力隊員として一歩進んだことで、多くの人の笑顔を生み出している。

田中勲(たなか・いさお) NPO法人G-net 副代表理事

(2009年3月 ~2011年3月、ボリビア・青少年活動)

ボリビアで、サッカー教室の運営やコーチの育成に取り組んだ田中勲さん(後列右から5人目、本人提供)

同僚の意外な一面で気づいた、新たな価値観

一度就職したものの、JICA海外協力隊に参加するため2カ月で会社をやめ、南米ボリビア・サンタクルスへと旅立った田中勲さん。派遣先はサンフアン市役所のスポーツ文化観光課。得意のサッカーを生かし、サッカー教室の運営やコーチの育成に取り組んだ。言語の壁や雨季による練習中断などに直面したが、特に頭を悩ませたのは、返事ばかりよくて行動には移さない同僚・カリートの存在だった。

くすぶった気持ちを抱えていたある日、実はカリートは市役所に勤務するかたわら、家族を養うために休日はタクシー運転手をしていることを知った。カリートを「仕事をサボってばかりのヤツ」と思っていたが、自分の視野の狭さを思い知った瞬間だった。

田中さんの「My Episode 0」。それは、カリートの意外な一面を発見して気づいた、目の前にいる人と向き合うことの大切さ。そこから田中さんは、自分の価値観を押しつけるのをやめた。カリートも心を開き、仕事もうまく回り始めた。最後の1年は、みんなの仲間になれたと実感できた。

自分たちの地域を、自分たちでよくしていく

目の前にいる人が本当に望むものが何かを考え、行動するのであれば、国際協力も地域活性化も変わらないと気づき、地域に貢献できる仕事をしたいと思い始めた。帰国後に働くことにしたNPO法人G-netでは、地域の中小企業の魅力を引き出し、熱意ある若者と結びつける活動をしている。田中さんは新規事業を立ち上げ、中小企業の新卒採用の取り組みに関わった。企業と就活生双方に寄り添うマッチングには、目の前の人と真剣に向き合ったボリビアでの経験が生きた。

地域を元気にするために会社を立ち上げたり、お寺の住職のためのキャリアスクールを始めたりと、田中さんの活動は止まらない。「トップダウンの政策ではなく、自分たちの地域を自分たちでよくしていくハブ機関をつくっていきたい」。地域に根ざした寺がその役割を果たせると考えている。「言葉通り『駆け込み寺』として気軽に相談してもらったり、地域の情報が集約されたりする場所になったら」

目の前にいる人と向き合うことで動き出した複数のプロジェクト。それは、ボリビアでの日々がなければ気づけなかったかもしれない。「日本を元気にするためには、まず足もとから」。きっと、田中さんが証明してくれる。

JICA海外協力隊での経験をきっかけに価値観や生き方を変えた元隊員たちを紹介する「My Episode 0ゼロ」の公式サイトはこちら