――作品は中国政府とデモ側のどちらに正義があるのかを問うのではなく、デニス・ホーさんの言動を忠実に追う形になっています。あえてそういう作りにしたのでしょうか。
今回の作品はあくまでデニスさんのストーリーそのものを追いかけるものです。あくまで彼女の視点を忠実に表現し、彼女の考え方が明確になればいいと思っていました。そこに私が何かをコメントしようとは考えていませんでした。あくまで観察者の立場を貫きました。
私が手がけた中国関連の映像作品は、3年とか4年とか時間をかけて対象に密着するものですが、皆さんが期待するような何かが起きることもありますし、場合によっては何も起きずに日々の生活を撮影しただけのものになることもあります。
今回の作品は撮影期間中にものすごく大きな事が起きましたけどね。
――香港ショー・ビジネス界のスターであるホーさんが政治的発言をしたり、活動をしたりすることについて、どう思いますか。日本では、芸能人が政治的な発言をすることに反発する人もいます。
基本的にはアーティストたちは自らのやるべきことに専念するべきだと思います。しかし、社会運動に力を入れ、当局から弾圧されている中国の現代美術家、艾未未(アイ・ウェイウェイ)氏もそうですが、実際には、活動を現実の生活と切り離すことはできません。
実生活が自らの作品に大きなインパクトや影響を及ぼすでしょう。ましてそれが国家的な危機ともなれば、彼らは自分たちの活動の場を使って、政治的な発言をするでしょう。
デニスさんは歌手なので、歌に関して言えば、アメリカの人権運動を振り返ると、歌が一つの重要な要素だったと思います。人々が困難な時を乗り越えるために、音楽は希望を人々に与えたでしょうし、逆にアーティストたちはそのような希望を歌に込めて、力強く表現したでしょう。
デニスさんの場合、彼女はとても難しい立場に置かれました。当局から要注意人物と見なされ、仲間の音楽家たちが同じコンサートに出演するのを控えるなど、とても苦しい状況になりました。
でも彼女はへこたれませんでした。自分の会社を設立して、自分やりたいことをはっきりさせた。スターたちは通常、当局の意に沿わないような発言をしないよう自己管理しますが、彼女は自身の新しい仕事のスタイルを築いていこうとしました。
作品の中に、デニスさんが要注意人物扱いされるようになった後、パソコンの前で、ほかの演奏家たちがステージに出てくれなくなったことに悩むシーンがあります。
私は彼女のことを見てとても悲しくなりました。孤独の恐怖を感じているだろうなとも思ったんです。ところが次の日、彼女がデモに参加するため、路上に現れると、人々が彼女のもとに寄ってくるんです。写真を一緒に撮りましょうとか、サインを下さいとか。
苦しい状況になってもなお、一般の人々の間で彼女は忘れられずにいて、尊敬され、愛されてもいる。それがこの作品をより一層いいものにしたと思います。
――現在、彼女はどうしているのでしょうか。また、香港情勢はどうなっているのでしょうか。
デニスさんは今も香港にいますし、離れたくないと思っているでしょう。香港にルーツを感じているからでしょう。
一方で、多くの人が香港を離れました。多くの人が感じているでしょうが、とてもつらく、悲しい状況です。私も心を痛めています。
1997年にイギリスと中国が合意した「一国二制度」がまさかこんなに早く踏みにじられるなんて、誰が想像したでしょうか。中国政府が香港に対し、国家安全維持法を施行するなんて、私も専門家も誰も予想していませんでした。みんな甘く考えていたんです。
たった1年で香港はがらりと変わってしまい、私たちが大好きだった都市がだんだんとなくなっています。暗黒時代です。
――監督はなぜ、中国や香港に関心を持つようになったのですか。
私は中国と接点がある家庭環境の中で育ちました。祖父は仕事の関係で中国にいましたし、母親も中国で生まれました。
さらには、アメリカで映画のリサーチャーとして働き始めた1980年代、私は中国の大量のフィルム映像を目にする機会がありました。それらの映像は、辛亥革命が起きた1911年から、共産党と国民党が抗争を繰り広げ、毛沢東が実権を握る1949年までのものでした。
当時、中国や台湾ではまだ、彼ら自身が自国や自分たちのことを客観的に描写する映像作品を制作することができない時代でした。
そこで私が中国関連のドキュメンタリーを作ることになったのですが、私がやりたかったのは、一般の中国人を理解することでした。
とにかく一般の中国人に興味を持ったんです。例えば、なぜ若い女性たちは共産党に入って抗争に参加したのかとか、それはどんな意味があるのかとかとか。
共産党が中華人民共和国の建国を宣言するまでを扱った第1作がアメリカのPBS(公共放送)で放送された後、次は何をやるんだと言われました。
次にやったのが文化大革命でした。その後も中国関連の作品を手がけていますが、中国以外の仕事もあります。
――この映画について、中国人、特に香港に住む人たちの反応はいかがでしょうか。
映画を見た人はみんな感動してくれたようです。デニスさんのカリスマ性、スター性、美しさ、政治的な活動に心を動かされたのでしょう。
とりわけアメリカでの反響は大きいですね。というのも、香港の実情についてあまり知られていなかったので。好評価でした。
――なぜこの題名にしたのですか。
題名は彼女と話し合って決めました。最初にヒットした彼女の曲に「何千人もの私」というものがあります。作品の中でも歌うシーンがあるのですが、これはデニスさんがたくさんのファンたちと一緒に歌うことで力が生まれていく印象なんですね。
路上に出て、デモに参加する彼女はいつしか、彼女自身が生きた歌のようになっていく。そんなメタファーが浮かんだのでこの題名にしました。
――映画が完成した後、ホーさんとはどの程度連絡を取っていますか。
ずっと接触はしていますが、頻度は減っています。
映画の完成後、北米を回って一緒にインタビューにも応じたことがあります。私は自分の見た真実を言いますが、彼女を守るために全部は言わないようにしています。