『約束の地』は、上下巻の計1000ページを超える超大作だ。上巻では、オバマ氏がアメリカに根差す「社会の分断」を克服することを理念として掲げ、シカゴで「コミュニティ・オーガナイザー」としてキャリアをスタートさせるところから、大統領の座に就くまでの過程がダイナミックに描かれている。
2020年を経験したアメリカを知ってこの本を読む意味
――本の中でオバマ氏は「社会の分断を克服する」という理念を繰り返し書いています。しかし、アメリカの現実は、オバマ氏が政権を去ったこの4年間で「分断」が広がりました。いまこのタイミングで回顧録が出版され、大ベストセラーになった意味をどう考えますか?
この本を読んでわかることは、オバマ政権の8年間――実質的には最初の4年間だけで、トランプ時代の到来が予見されていたということです。僕はこの本を共和党の“変質”の過程が描かれたものとして読みました。いまトランプ政権の4年間が終わり、極端に振れた共和党の今後が問われています。オバマ時代に共和党がどのように変わっていったのか、そのことへのある種の答えを示しているこの本は、その意味でも時宜にかなった内容だといえるでしょう。
もちろんオバマ政権にも功罪両面ありますが、トランプ政権の4年間を経たことで、その評価も変わりうるのではないかと思いましたね。12年前のオバマ氏がやろうとしたこと、その価値に再び光が当たり始めているからこそ、米国で170万部というベストセラーにつながったのだと思います。
――本のなかでは、オバマ氏の大統領就任のあと、アメリカの保守勢力が次第に拡大していくさまが書かれています。そして、アメリカの現状を〈私たちの民主主義が危機の瀬戸際でぐらついているように見える〉とまで危惧しています。いまアメリカでなにが起きているのでしょうか。
新型コロナの猛威がアメリカを、そして世界を襲った2020年を経験したあとに、この本を読むことがすごく重要だと思いました。
象徴的なのは2020年5月、黒人男性のジョージ・フロイドさんが白人警官に首を圧迫されて死亡した事件を機に、2013年から始まった黒人差別への抗議運動「ブラック・ライブズ・マター(BLM)」が再燃したことです。BLMが提起する監獄ビジネスと結びついた黒人と警察の対立――アメリカ社会の構造的な問題は、オバマ氏自身、大統領の時代から問題視していたことが本書を読むとわかります。ただ、共和党との緊張関係もあって、そこに手を付けられるまでの政治的リソースがなかったということなのでしょう。
アメリカの黒人層は、オバマ氏が大統領になったことで自分たちの置かれる立場が変わることを期待しました。だけど、この本のなかにあるようなオバマ氏の妥協もいとわない現実主義的なスタンスが、その黒人層を失望させていったという厳しい現実もあった。
この本が出ることで、オバマ大統領に期待していた黒人からの評価が大きく変わることはないと思いますが、それでもBLMが2020年に大きく盛り上がったことへの補助線は、オバマ時代から引かれていたことはよくわかります。とりわけ議員になるまでの彼のさまざまなエピソードが重要であると思いました。
――オバマ氏が初当選した2008年の大統領選では、メディアを中心に「ポストレイシャル(人種主義を乗り越えた)の時代」という言葉があふれました。しかし、バイデン大統領が再び「統一」を訴えなければならない状況に後戻りした感があります。
あくまで「三歩進んで二歩下がる」という歩みではあるものの、現在の「ポストレイシャル」的な状況は、少しずつ進んでいるのではないかと思っています。その下地をつくったのは間違いなくオバマ氏の功績でしょう。
これまでの黒人差別の運動と比べて、2020年のBLMでは黒人に連帯する白人の増加が顕著な傾向として見られました。それはコロナ禍による人々の意識の変化によるところも大きかったでしょうが、コロナによって社会の空気が変わるなかで、民主党のバイデン新大統領が生まれ、議会の上下両院も民主党が制する「トリプルブルー」の状況が生まれました。
トランプ支持者による連邦議会議事堂襲撃など過激な行動が起きるのは、そうした変化に対する白人至上主義的な思想の人たちの拒否反応が表れたという面があると思います。4年間の劇薬の代償は大きかったけれど、それを乗り越えようという力もアメリカにはまだあるのだと感じました。
リフォーマー(改革者)と保守的気質の間で
下巻では、オバマケア(医療保険制度改革法)をはじめとする重要法案の成立に向けた議会工作の過程が、“政治ドラマ”さながらに濃密な筆致で書き込まれている。外交面でも、中ロ、中東各国とせめぎ合いが繰り返され、「理想」と「現実」の間で苦悩するオバマ氏の姿は「トップの孤独」を感じさせる。
――理想を実現するために現実と向き合うオバマ氏の姿を、どう読みましたか?
本のなかで、オバマ大統領という人物をよく示している一節があります。
〈就任直後の100日間は私の政治の基本的な性質を明らかにしたといえるだろう。私はリフォーマー(改革者)であり、ビジョンはともあれ気質は保守的だった〉
われわれ日本人から見ると、オバマ氏はスピーチがうまくて、ものすごく夢見がちな理想主義者というふうにとらえがちですが、この回顧録を読むとむしろ、要所要所で現実主義者としての保守的な選択をしていたことがわかります。その決断のプロセスや思考の過程がすべて書かれているので、高い理想の実現のためにかなり現実的に動いて調整をするという彼の政治的気質がよくわかる本になっていると思います。
オバマケアなどある程度実現できた政策や、できなかったものもありますが、大きな理想の実現に向けて調整が必要になったとき、骨抜きになっても妥協して合意を目指すかどうかという岐路に立たされた際、オバマは核となる部分を妥協しなかったことが描かれている。僕はここに「政治は可能性の芸術である」というビスマルクの言葉――「理想と現実を両立させる」ことの難しさと面白さを見出しました。
オバマとトランプのSNS戦略
本書では、オバマ氏とトランプ氏の対比が随所に感じられる。インターネットに関する言及も、そのひとつ。インターネットによって民意の大きなうねりを生んで大統領になったオバマ氏は、〈自分が目撃しているものはボトムアップの政治参加の復興であり、民主主義の機能を回復させることができる動きなのだと思っていた〉と記述する。
――最初の大統領選で、インターネットによって大きな力を得たオバマ氏の手法が、その後の「ネット世論の政治利用」という“パンドラの箱”を開けたようにも見えます。
僕は、2期目の大統領選挙の際、オバマ氏のデジタルSNS戦略の責任者だった人にインタビューしたことがあるのですが、実はオバマ氏とトランプ氏のSNSの使い方は真逆なんですよ。オバマ氏のチームがやっていたことは、アメリカの選挙戦の基本である「戸別訪問」を効率的に進め、小口献金を集めるために最適化したSNSやアプリを作ることでした。支持者たちは個別訪問用アプリを使って、リアルタイムで訪問先のデータを見ながらローラー作戦をする。つまり、オバマ氏は地上戦をいかに無理なく効率的にやるかという社会運動の発想で、それをエンパワーするためにテクノロジーを駆使したのです。
一方のトランプ氏は逆で、ひたすら空中戦です。選挙用のテレビCMを流すのと同じ文脈で、メディアと同じような影響力を持ってきたからツイッターも使うようになった、ということ。だから、同じようにテクノロジーを使って大統領になったといっても、実はそのアプローチは真逆だったというのが、僕の見立てですね。
――トランプ政権は終わりましたが、いまアメリカでオバマ的リーダー像とトランプ的リーダー像がせめぎ合っているように見えます。
先ほどSNSを使うアプローチが真逆だと言いましたが、注目されたきっかけは共通する部分もあります。トランプ氏はメディアで注目され、ツイッターを駆使することで大統領になりましたが、オバマ氏もまったくの新人議員だったのが、イラク戦争に反対する演説が後にネットで発掘されて話題になり、その後の民主党の全国大会でのスピーチがネットなどで拡散されて全国的な人気を得たという流れで、どちらもいまの社会をすごく象徴していると思います。
トランプ氏が生み出された要因は、刺激を求めるメディアとの“共犯関係”だったと思います。メディアが、数字が取れる視聴率男として「トランプ」というモンスターを生み育ててしまった。そこにツイッターのようなソーシャルメディアが“悪魔合体”のように重なり、強大な影響力を持ったのです。
これから出版されるという回顧録の続編では、オバマ氏の大統領として2期目の4年間が描かれることになると思いますが、個人的には、そこでメディア状況についてどう言及するのか、ここ10年くらいのメディア環境の変化をオバマ氏がどうとらえているのかということに注目したいですね。
津田大介
1973年、東京都出身。ジャーナリスト、メディア・アクティビスト。ポリタス編集長。メディアとジャーナリズム、著作権、コンテンツビジネス、表現の自由などを専門分野として執筆活動を行う。近年は地域課題の解決や社会起業、テクノロジーが社会をどのように変えるかをテーマに取材を続ける。
取材・文/鈴木毅(THE POWER NEWS)