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定年半年前、F1開発トップに呼び戻された ホンダをよみがえらせたベテラン技術者の足跡

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ホンダのパワーユニット開発のトップを務める浅木泰昭。大ヒットした初代N-BOXの開発責任者でもある=ホンダのウェブサイトより

■F1優勝の経験、違う仕事でも自信に

「F1の開発と量産の開発がホンダの中でどういう位置づけなのかが分かりやすいホンダ人生なんで、その中身を説明させて頂きます」

F1開幕を1週間余り後に控えた6月下旬、ホンダがメディア向けに開いたリモート記者会見。エンジンやモーターから構成されるハイブリッドシステムのパワーユニット(PU)の開発状況やシーズンの展望が主なテーマだったが、開発の総責任者である浅木が真っ先に話したのは、自らの会社人生だった。

こうした記者会見では極めて異例の展開だ。最初は驚いたが、話を聞いていくうちに、F1挑戦が、ホンダ、そして後輩の若手技術者にいかに必要かという、浅木の強い信念が伝わってきた。

浅木は1981年、ホンダの研究開発機関である本田技術研究所に入社。翌年から「第2期」(83~92年)のF1参戦のエンジン開発に携わった。テストを始めた当初、スタッフは上司と2人だけ。それでもF1で初めて電子制御を導入するなど急速にエンジンを進化させ、圧倒的なパワーによって80年代後半の黄金期を築く礎をつくった。

その後、市販車のエンジン開発などに移ったが、F1で世界チャンピオンになった経験が大きな財産になったという。「ゼロから始め、BMWにも、当然フェラーリにも勝った自信ですよね。それが背景にあって、違うことをやるにしても、できないはずはないという思いで開発し、いろいろなことができた」

■N-BOXのヒットでホンダを救った

確かに市販車部門での実績も圧巻だ。何度もホンダを危機から救っている。

86年から新型ミニバンの開発チームでエンジンを担当した。当時のホンダは経営状態が悪く、「三菱自動車に買収されるのでは」という噂もあったほど。大きなミニバンのために工場をつくる余力はなかった。既存の工場でつくるには車体の小型化が必要。エンジンも小型の4気筒になる。当時、より大きな6気筒エンジンの開発部隊にいたが、勝手に4気筒エンジンの開発を始め、上司と衝突してもやめなかったという。

こうして94年に誕生したのが初代「オデッセイ」。車高の低い独創的なスタイルがうけて大ヒットとなり、まさにホンダの救世主になった。

08年のリーマン・ショック後には開発責任者として新型の軽自動車の開発にあたった。超円高に進んで自動車の輸出が難しくなる中、国内の工場や系列販売店だけでなく、部品メーカーの雇用を守るためにも国内市場で売れる軽自動車が必要だった。

当時、軽の市場はスズキ、ダイハツの2強がダントツ。それでも「大きさの制約はF1のレギュレーションと同じ」と発想を切り替え、設計を一から見直した。11年に発売された初代「N-BOX」はライバルに比べて圧倒的な広さを実現。国内販売台数でトップに立ち、すぐにホンダの看板車種になった。浅木は「軽はもうからないと言う人もいるが、雇用を維持できたのはすごくでかい」と喜んでいる。

浅木は、F1黄金期の礎を築いたほか、オデッセイやN-BOXなどの大ヒット商品の開発により、ホンダを何度も窮地から救った=ホンダ提供

■F1「絶対王者」がどん底にあえいだ3年間

そんな浅木にF1復帰の声がかかったのは定年のわずか半年前。当時、ホンダのF1活動はどん底にあえいでいた。

2008年のリーマン・ショック後に「第3期」(00~08年)の活動から撤退したホンダが、F1に戻ったのは15年。車体を担当するパートナーはF1の名門マクラーレン。黄金期の1988年に16戦中15戦を制するなど「絶対王者」として君臨した組み合わせだ。しかし、期待の大きさとは裏腹に、ホンダのパワーユニットにトラブルが多発。まともにマシンが走れないレースも多かった。3年間で表彰台に1度も上れない屈辱を味わい、両者の関係はぎくしゃくした。

浅木が「マクラーレンからの強烈なバッシングを受け、このままF1を続けられるのか」と振り返るほどの苦境。社内外から「お金ばっかり使って、ブランドイメージを落としているんじゃないか」という批判も聞こえてきた。

4年目となる18年のシーズンに向け、ホンダは重大な決断を下す。パートナーをレッドブルと提携するイタリアのトロロッソ(現アルファタウリ)に変更したのだ。レッドブルは、6年連続王者のメルセデス、圧倒的な人気を誇るフェラーリと並ぶ3強の一角。好成績を収めてレッドブルと組めれば、王座奪還も視野に入ってくる。

それに合わせてホンダはチーム態勢の一新に踏みきり、背水の陣で臨むことを決断した。その目玉の一つが、浅木の起用だった。

■部門の壁超えて活路を求めた

実は、浅木はすでに第二の人生を決めていた。しかし、研究所を訪ねると、若手技術者は自信を失い、進むべき方向が見えない中、やみくもに技術開発を続けているように見えた。「このまま結果が出なければ、若手がだめになる」と心が揺さぶられた。自分がF1で味わった世界一を若手にも経験させてあげたい。「最後のご奉公だ」と覚悟を決めた。

浅木が真っ先に取り組んだのは、トラブルの原因となっていたハイブリッドシステムの信頼性向上だ。

ホンダパワーユニット(PU)の構造図。MGU-H(赤色)の中心を通るシャフトの耐久性向上に苦しんだ=ホンダ提供

現在のF1はエンジンとモーター、電池などからなるパワーユニットを使ったハイブリッドカー。エンジン本体はすでに長年開発され、ライバルと圧倒的な力の差を生むのは難しい。そのため、競争力の鍵を握るのは発電して推進力を生み出すエネルギーをつくる2種類のシステムの仕上がりだ。

一つが、減速時の運動エネルギーを利用する「MGU-K」で、もう一つが排ガスの熱エネルギーを使う「MGU-H」。特に「H」は「K」と違って使えるエネルギー量の上限がないので、その能力がマシンの能力を大きく左右する。ところが、ホンダは「H」に問題が多発。どれだけのエネルギーを利用できるかという以前の段階で苦しんでいた。

原因は、毎分10万回以上の超高速で回転するシャフト(軸)の耐久性だった。研究所内のテストでは問題がないのに、マシンに搭載して走ると、振動や衝撃ですぐに壊れた。浅木は「ちょっとしたことで、いつ壊れるか分からない。これでは戦えない」と危機感を強めた。

現代のF1はエンジンとモーターなどを組み合わせたハイブリッドカーになっている=ホンダ提供

崖っぷちの状況で、浅木が活路を求めたのがホンダジェットだった。本田技術研究所には市販車やレース向けのバイクや自動車、航空機など様々な部門があるが、それぞれ独立志向が強く、どこにどんな技術があるのかを把握するのは容易ではない。それだけに浅木の決断は異例とも言えた。

だが、浅木には勝算があった。飛行機のジェットエンジンは「H」と構造が似ていてシャフトが長い。予想通り、ジェットの技術者が「H」を見ると、すぐにシャフトを支えるベアリングの位置などに問題があると見抜いた。改良すると、トラブルはほぼ無くなった。「ジェットがそういうものをつくっていたのはラッキーだった」。こう浅木は振り返る。

■「オールホンダ」で目指す王座

その成果は早くも18年の第2戦バーレーンGPで現れた。ホンダが投入した改良型の「H」は順調に機能。特にトロロッソ・ホンダのピエール・ガスリーは力強い走りで4位に食い込んだ。運任せでなく、実力でつかみ取った入賞。浅木は「ようやく開発のスタートを切れる」と喜んだ。信頼性が増したことで、勝つために必要なパワーの向上を目指せるようになったからだ。

そして昨年、レッドブルへのパワーユニット供給を開始。13年ぶりの勝利を含めて3勝と2度のポールポジション(予選の最速)を獲得した。ホンダのパワーユニットは信頼性とパワーの総合力が飛躍的に改善し、王者メルセデスを実力で抜く場面もあった。今季も開幕前のテストを順調に終え、新型コロナウイルスの影響で開幕が延期する前には、メルセデスを脅かす一番手とみられていた。浅木は「以前はあきらめの表情だった若手技術者が、2位でも悔しがるようになった」と目を細める。

レッドブル・ホンダのエースドライバー、マックス・フェルスタッペン。3月、「ホンダとは順調に準備してきた」と自信を示していた=中川仁樹撮影

ジェット部門との協力は広がり、いまではジェットの技術者も「成績が悪いと悔しい」「レースが始まる前はドキドキする」と言うようになった。燃料部門との協力やホンダ工場での部品製造も始まった。F1は名実ともに「オールホンダ」のプロジェクトになった。

ただ、浅木は常勝メルセデスと比べると、「ホンダジェットの技術も使わせてもらっているので、標高が高い所ではいいところに行ったが、低い所ではまだ負けているかな」と冷静に分析している。

今年はメルセデスと五分のパワーユニットをつくることが最低限の目標だ。「何とか追いつき、どっちが勝ってもおかしくないという状況で1年を過ごす。結果としてチャンピオンを取れたらなと思う」と言う。

かつて浅木が見た世界一の景色を、果たして後輩たちに見せることができるだろうか。