「ただの意見」。リーナが「アラブの春」の以前から続けてきたブログ「A Tunisian Girl」は、1月26日のこんなタイトルの長文が最後の投稿となった。ブログはフランス語でつづられることもあったが、この投稿はアラビア語でチュニジアのいまの政治や社会を激しい言葉で批判し、「革命が起きたことを否定する」人たちへの怒りをはっきりと示すものだった。
私たち(チュニジア人)は過去から学ばず、歴史の教訓を覚えていない。あたかも、物忘れが激しいか記憶力がない国民であるかのように。国会で繰り広げられる茶番に人々は拍手を送り、(政治家たちを)先進的で世直しをする人たちとみなし、彼らの不条理や腐敗、弾圧、暴力さえも忘れる。私は暴力と暴力の行使に反対する。議員の中には、暴力に反対しているといっているのに、違うことをやっている人(女性)がいる。暴力や脅しを経験した人が、どうして自ら暴力を使うことができるのだろうか。彼女は革命が起きたことも否定する。(中略)暴力、流血、暗殺の時代を私たちが生きてきたことを忘れて、(イスラム系の)ナハダ党を革命の政党と見なす人たちがいる。ブログ「A Tunisian Girl」から(部分引用)
アラブの春が起きた時、27歳だったリーナは大学で英語を教えながら、得意の英語やフランス語を駆使して、20年以上続く独裁政権のベンアリ政権下における人権問題や腐敗、それに対する人々の反対の声などを拾いブログを書いていた。2010年5月、チュニスの街頭で国の検閲に反対するデモをしたら、仲間が逮捕され、リーナの自宅にも警察が来て、パソコンやカメラを取り上げられた。その一部始終をブログに書いたことで、海外メディアから注目されるようになっていった。
その約半年後の12月、チュニスから車で3時間以上かかる小さな町シディブジドで、一人の青年が行政への不満を訴えて焼身自殺する事件が起きた。リーナは事件をSNSで知るやいなや、いちはやくカメラを片手に現場に赴き、ブログやフェイスブックなどで刻々と発信する。
「シディブジドは燃えている」――。ジャーナリストが次々に警察に収監されて動けなくなるなかで、リーナの発信は外国メディアを通して世界中に拡散。かねて行政に不満を持ってきた人々の抗議はチュニジア全土に広がり、焼身自殺事件から1カ月後、23年間続いたベンアリ政権は、あっけなく崩壊。その波はエジプトやリビア、イエメンなどに広がり、次々に革命を引き起こす。
ジーンズをはき、髪を隠さない服装で、鼻や耳にピアスをつけた英仏語が堪能な27歳の「チュニジアン・ガール」は、中東の女性のステレオタイプ的なイメージを大きく覆す姿とも相まって「アラブの春」の先駆者として世界中から注目され、ヒロインのように扱われるようになっていく。
ブログは、ドイツの放送局が情報や報道の自由を促そうと設けた「ドイチェ・ヴェレ・ベストブログ国際ウェブログ大賞」などを受賞。ノーベル平和賞の候補として名前もあがり、メディアからの取材申し込みが殺到した。
一方で、彼女を有名にしたインターネットは、彼女を苦しめるようにもなる。「殺してやる」といった脅迫が書き込まれ、ピアスなどのファッションも保守層からの誹謗中傷の対象になった。警察から、身辺警護という名のもとに監視もつくようになった。
2018年、私は朝日新聞GLOBEの記者としてチュニジアに取材に行った。「アラブの春」のころから発信を続けていたリーナに注目してきただけに、あれから7年がたち彼女がどのように生きているのか、彼女が現在のチュニジアについてどう考えているのかを知りたかったからだ。
7月、チュニス中心部のホテルに姿を現したリーナの姿を一目見たとき、私は一瞬驚いた。報道を通じて知っていたリーナの姿より、やせて、顔色が悪かったからだ。あいさつをかわした後、リーナはロビーのソファに腰をおろすと、少し苦しそうな様子でペットボトルの水を飲んだ。持病の免疫疾患が悪化して、いまは通院しながら発信や執筆を続けているという話に、言葉を失った。
それでも、話し出すと活力がみなぎった。「革命が始まる前から、現在までのことが知りたいのね。オーケー」とうなずくと、正確な英語で、よどみなく、当時のことを話し始めた。
「革命が成就して、とてもうれしかったけれど、その後はひどかった。歓喜の後に、人々がとても攻撃的になった理由がわからなかった。こんな時に私がノーベル賞を受賞すれば、殺される。そう感じていたから、選ばれないことを願っていた」
ノーベル平和賞は結局、彼女自身ではなかったが、チュニジアの民主化に努力したチュニジア労働総連盟など4団体の「国民対話カルテット」が15年に受賞した。だが、華やかな受賞とは裏腹に、「理想」と「現実」には、大きな隔たりがあった。若者の失業率は革命前より悪化し、多くの若者が過激派組織「イスラム国」(IS)に引き寄せられた時期もあった。イスラム主義政党を批判する野党議員の暗殺も相次いだ。
リーナはチュニジアの現在地について、批判的な態度を隠さなかった。「いまも言論の自由が完全に保証されているわけではない。ジャーナリストやブロガーが逮捕されたり嫌がらせを受けたりしている」「力のある人たちに、物事を改善しようとするやる気が見えない。革命の目的を実現しようという意志を感じない」
抑圧的な空気の息苦しさに苦しみながらも、リーナは地道に活動をしていた。刑務所の中で若者が過激派に取り込まれるのを防ごうと、SNSで市民に本の提供を呼びかけ、3万冊以上を集めて国内各地の刑務所に図書館をつくったのだ。「図書館を作る以外にも、刑務所で映画の上映など文化的活動をしている」。そして、こう話していた。「私は希望を持たないわけにはいかない。今を変えようとする人たちと、市民社会があるから」
彼女の死が報道されると、インターネット上には追悼の言葉があふれた。「チュニジアは最も勇敢な自由の戦士の一人を失った」、「リーナ・ベンムヘンニは強く、勇敢な女性だった」「アラブの春の先駆者だった」……。葬儀には、数百人が手に花束を持って参列し、反腐敗運動のスローガンを唱える人たちもいたという。「私たちは許さない!」「女性に平等を!」「革命の殉教者に正義を!」……。エリエス・ファクファク次期首相(現首相)はツイッターで、リーナの活動写真とともに「市民活動のイコンだ」とつぶやいた。
取材の時、やせた体に身につけていたレモン色のTシャツに描かれたイラストについて聞いた時の彼女の答えを、私は忘れない。「ネットといくらかの食べ物、それさえあれば私は大丈夫」。その言葉通り、細い体一つで真実を追い求め、腐敗や癒着に声をあげ、個人の自由と尊厳を守ろうとしていた。その言葉は強く、鋭く、人々の心に到達した。自分の暮らす国や世界をあきらめず、小さな発信と行動を積み重ねて、自分たちでよりより未来をつくっていくこと。リーナの努力を私は決して忘れないし、その遺志を自分なりにつないでいきたいと思う。