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プーチン氏が引いた「国民に選ばれた強い指導者」という伏線 そして侵攻は始まった

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モスクワのクレムリンで2018年5月7日、通算4期目の就任式に臨むロシアのプーチン大統領
モスクワのクレムリンで2018年5月7日、通算4期目の就任式に臨むロシアのプーチン大統領(中央奥)=ロシア大統領府提供

「我々は国の一体性を復活させるため多くのことを成し遂げた。ロシアは、その意見を無視できない国として国際政治の場に戻ったのだ」

プーチン・ロシア大統領は就任20年の節目となる2020年をこんな言葉とともに始めた。1月15日、プーチン氏がクレムリンそばの展示会場で教書演説を読み上げるのをモスクワ支局に残った私はテレビの生中継で聞いた。ウクライナのゼレンスキー大統領と顔をあわせたパリの4カ国首脳会談から1カ月後のことだ。
演説でプーチン氏は「ロシアがロシアであり続けられるのは、主権国家としてだけだ」とも言った。

プーチン氏が使う「主権」という言葉は特別な意味を帯びている。他国の干渉を許さないという意味だけではない。00年代後半からプーチン政権内では、ロシアの民主主義はロシア独自の伝統の上に成り立ち、欧米の民主主義とは異なるという主張が主流となり、「主権民主主義」という言葉が使われるようになった。そこには、主権の主体は国民だが、選挙という民主主義の基本を維持すればその国民が選んだ強い指導者による強力な国家管理が認められるという意味が込められていた。

この演説で、プーチン氏は通算4期目の折り返し点で自らさらに体制を固める憲法改正を打ち出した。改正案には「歴史的真実の擁護」「祖国防衛の偉業の軽視を許さない」などプーチン氏の個人的な思想を前面に出した条項が次々入った。「在外同胞の権利、利益、文化的同一性保持の支援」の条項は周辺国への介入にお墨付きを与えるものだ。極めつきは36年までプーチン氏の続投を可能にする条項。下院での採決直前に国民的英雄の女性宇宙飛行士テレシコワ氏が追加提案する手の込んだ演出で加わった。テレシコワ氏はプーチン氏の続投が「社会の安定の要だ」と言った。

スイス・ジュネーブで2021年6月16日、バイデン米大統領との首脳会談のあと記者会見で持論を述べるロシアのプーチン大統領
スイス・ジュネーブで2021年6月16日、バイデン米大統領との首脳会談のあと記者会見で持論を述べるロシアのプーチン大統領=喜田尚撮影

改憲の賛否を問う国民投票はコロナ禍で延期を強いられたが、賛成78%と政権にとっては上々の結果で成立した。本来憲法の規定上はこの改憲には国民投票は求められていなかった。それでもあえて「全ロシア投票」という名をつけて国民の信を問う形にしたのは、さらに長期にわたる体制を固めるにあたって自らが「国民に選ばれた強い指導者」であることを証明する必要があったからだ。

14年のクリミア併合で国民は強いロシアの復活に熱狂し、プーチン氏の支持率は90%近くに跳ね上がった。18年の大統領選では投票日をクリミア併合4周年の3月18日に設定。政敵は選挙から排除され、プーチン氏は過去最高の得票率78%で通算4選を果たした。

プーチン氏は、ロシアが冷戦の敗者として扱われてきたと感じる国民のうっ屈した気持ちに巧みに働きかけた。大統領選直前に行った議会向け演説では米国のミサイル防衛をかいくぐる新兵器の数々を紹介し、「これまで誰もロシアの声を聞かなかった。これからは聞くべきだ」と言った。クリミア半島併合は、18世紀のトルコとの戦争の結果ロシア帝国が併合した同半島がソ連時代の1954年に当時のソ連の指導者フルシチョフによってロシアからウクライナに移管され、ソ連崩壊でウクライナ領となった経緯から、「奪われたものを取り返したのだ」と強調した。

英国でロシアの元スパイが兵器級の神経剤で襲われ関与が疑われたときも、ドーピング疑惑でロシア代表団が五輪から排除されたときも、欧米の批判を「ロシア嫌悪症ヒステリー」と断じ、国民にロシア封じ込めに対抗するよう訴えた。独立系の世論調査機関レバダ・センターのレビンソン社会文化研究部長は「プーチンは『敵に囲まれている』と信じ込ませ、国民世論を要塞(ようさい)の中に閉じ込めた」と話した。

国民の団結が強調され、少数派は排除された。20年の憲法改正後、反体制派やジャーナリストへの弾圧は激しさを増した。政府から活動にさまざまな制約を課される「外国の代理人」の指定を受けたメディア、ジャーナリストは、1年ほどの間に100団体・個人を超えた。

モスクワで2020年2月29日、2015年に暗殺された野党指導者ネムツォフ氏を追悼する行進に参加した人々
モスクワで2020年2月29日、2015年に暗殺された野党指導者ネムツォフ氏を追悼する行進に参加した人々=喜田尚撮影

プーチン氏は、首相から大統領に返り咲いた12年の大統領選で政権私物化を批判する激しい反対運動に直面した。それをきっかけに強化したのが市民団体の活動への規制と、歴史の政治利用だ。「ナチズムを倒したソ連の偉業」である第2次大戦の対独戦勝を国民結集の核にした。

ウクライナとナチズムを結びつけるプーチン政権のレトリックに過去からの刷り込みが利用された。例えば、ロシアで「大祖国戦争」と呼ばれる第2次世界大戦の対独戦が始まったときナチスドイツに協力し、後にソ連に暗殺された民族主義者ステパン・バンデラ。私がモスクワにいた間、国営テレビで「バンデラを崇拝するネオナチたち」がウクライナの街を行進する映像を見ない日はなかった。14年の危機以降、民族主義政党が議会でほとんど議席を持てなくなったウクライナの現実とはかけ離れていた。

サンクトペテルブルクで2020年1月18日、ソ連軍が第2次世界大戦中のレニングラード封鎖を突破した77年の記念日に献花するロシアのプーチン大統領
サンクトペテルブルクで2020年1月18日、ソ連軍が第2次世界大戦中のレニングラード封鎖を突破した77年の記念日に献花するロシアのプーチン大統領=ロシア大統領府提供

ウクライナはロシアと同じスラブ系で言語も近い。しかし東部、中部は17世紀以降ロシアに併合されながら同化はせず、西部は第2次世界大戦までオーストリアやポーランドの支配下にあった。ソ連崩壊に際しては、国民投票で独立が圧倒的な支持を得た。ソ連からの独立後ロシアとの関係をめぐって国内の考え方は分かれたが、欧州とロシアの間で独自の道を歩むことにはおおむね異論がなかった。

一方、ロシアではキーウを中心に広がった中世の大国「キーウ・ルーシ大公国」を継承したのがロシアだと見なされ、同じ大公国に源流を持つウクライナやベラルーシをロシアと不可分ととらえる。彼らが独自性を強調することは「反ロシア主義」と受け止められがちだ。ウクライナに「民族主義」のレッテルを貼る政権のプロパガンダが受け入れられやすい素地が国民の側にもあった。

徐々にプーチン氏に歴史をめぐる極端な言動が目立ち始めた。第2次世界大戦開戦から80年の2019年には、ソ連自身が後に非を認めたナチスドイツとの密約によるポーランド領やバルト三国の併合を正当化した。昨年7月には論文「ロシア人とウクライナ人の一体性について」を発表し、19世紀以降高まったウクライナの民族意識を「ロシア封じ込めを狙った西欧諸国」によって作られたものと断じた。その秋、プーチン氏はウクライナ国境に10万の部隊を集結させ、ウクライナ侵攻は秒読みの段階に入った。

プーチン氏が親ロシア派支配地域を「国家」として承認した今年2月21日。プーチン氏と政権幹部との会議がテレビ中継された。政権の枢軸を担う最側近の面々がプーチン氏から10メートル以上離れて並ばされ、次々とプーチンに同調する意見を述べていく。プーチン氏と同じ旧ソ連のKGB(国家保安委員会)出身のナルイシキン対外情報庁長官が「欧米に最後のチャンスを与えることも可能」と唯一異論らしき見解を口にし始めたが、即座に「(賛否を)はっきり言ってくれ」と突っ込まれ、しどろもどろで「賛成します」と答えた。プーチン氏は政権内でさえ、孤高の人になっていた。(つづく)