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観客ではなく、当事者として世界を変えたい WFP職員の野副パーソンズ美緒さん

Breakthrough 突破する力 更新日: 公開日:
講演のために訪れた母校、中央大のキャンパスで。野副パーソンズ美緒さんは「この広場でよく英語劇の練習をしました」と当時を懐かしんだ
講演のために訪れた母校、中央大のキャンパスで。野副パーソンズ美緒さんは「この広場でよく英語劇の練習をしました」と当時を懐かしんだ=2023年7月14日、東京都八王子市、工藤隆太郎撮影

いつもの土曜日の朝だった。娘の学校でテニスのレッスンを受けていると、突然、ドーン、ドドーンという爆発音が続けて鳴り響いた。すぐそばの体育館に逃げ込み、夜を明かした。

4月15日、アフリカ北東部スーダンの首都ハルツームで、国軍と準軍事組織「即応支援部隊(RSF)」が激しい戦闘を始めた日の出来事だ。

それから2週間後。国連世界食糧計画(WFP)の野副パーソンズ美緒さん(48)は、日本に退避するため、政府専用機に乗っていた。

「ああ、私は日本に帰るんだ」。機内で配られた塩むすびをかみしめながら、虚無感に襲われた。

「黒柳徹子さんみたいに難民キャンプで」幼い頃の夢

1975年、東京都で生まれた。父の伸一さんは韓国経済の研究者。海外で活躍する日本人が載った新聞記事を切り抜いて渡してくれたり、様々な国籍の研究仲間が自宅を訪れたり。幼い頃から、外国に興味を持つための小道具が日常に転がっていた。

小学生のころには「黒柳徹子さんみたいに難民キャンプに行って活躍したい」と話していた。

小さいころから背が低く、並び順はいつも一番前だった。小学6年生のときから2年間、韓国で暮らした。1年間に背が13センチ伸び、異なる文化に触れることで視野も広がり、自信がついた。「今いる世界にこだわらなくていい」と解放された気持ちになった。

セネガルに赴任中に参加した犠牲祭の集まりで。右から二番目が野副パーソンズ美緒さん
セネガルに赴任中に参加した犠牲祭の集まりで。右から2番目が野副パーソンズ美緒さん=2017年、本人提供

高校時代には、米ユタ州に留学した。楽しみながら、語学を早く確実に習得する方法を考え、コーラスやミュージカル、演劇のオーディションを片っ端から受けた。大学に入ってからも、舞台女優を目指すほどのめりこんだ。

探検部、バックパッカー、ボランティア……。大学時代は広い世界を見たくて、アンテナに引っかかったことを全てやった。

初めてのボランティアは阪神・淡路大震災の被災地に物資を届ける緊急援助だった。学生という立場でも、困っている人を助け、社会に貢献できることに喜びを感じ、イランやパプアニューギニアなども訪れた。

同じ学部で学び、英語劇のサークルでも一緒だった東洋学園大准教授の竹内雅俊さん(48)は「いつも全力投球でパワーのかたまり。笑顔でまっすぐどんなことにも突撃していく。今と全然変わっていない」と話す。

大虐殺から1年後のルワンダで、進む道が決まった

自分の進むべき道が明確になったのは大学2年のとき、大虐殺から1年後のルワンダを訪れたことがきっかけだった。

バスを降りた時に感じたすさんだ空気、刺すような目線。これまで訪れたどの国にもなかった不気味さ、怖さを肌で感じた。

教会で無数の遺体が転がっているのを目の当たりにし、今までニュースでしか知らなかった遠くの悲惨な出来事が、世界で起きている現在進行形の出来事に変わった。

帰りの飛行機で、くしゃくしゃになったメモ帳に「人工的な舞台で華やかに生きるより、現実の世界を舞台に大きく生きよう」と書き記した。

ジャーナリストを目指した。だが、新聞社の最終面接後の健康診断で腎臓の病気が見つかり、即入院。4カ月の入院生活を送ることになった。

挫折感と絶望感にさいなまれる中で、いやが応でも立ち止まり、正面から自分と向き合うしかなかった。そのうち「変動する世界の観客ではなく、当事者として世界を変えていきたい」と思うようになった。

気持ちがもやもやしたら、「とにかく書く」。書いていくうちに考えが整理され、消化され、「発酵」していくという。持ち歩いている手帳には、その日の出来事や未来のビジョンなどが、図や絵も用いて、ぎっしりと書かれている。読み返すことはないという
気持ちがもやもやしたら、「とにかく書く」。書いていくうちに考えが整理され、消化され、「発酵」していくという。持ち歩いている手帳には、その日の出来事や未来のビジョンなどが、図や絵も用いて、ぎっしりと書かれている。読み返すことはないという=工藤隆太郎撮影

英国の大学院で社会政策を学び、2003年、WFPに入ってスリランカに赴く。以来、ソマリア、パキスタン、ラオスなど第一線の現場で働き続けてきた。

14年に結婚し、翌年に娘の瑛美さん(8)が生まれた。カナダ人の夫エドワード・パーソンズさん(51)はソマリアで働くため、結婚当初から2カ月別居し、1カ月は共に過ごす生活を送っている。エドワードさんは「(美緒は)ハートが温かく、情熱と直感で動く感情の人。理論的で慎重な僕とは正反対だ」と笑う。

産後、緊急援助の現場から、開発途上国の生活基盤の強靭性を高める仕事に携わるようになった。魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えるといったような、社会の「基礎体力」をつける長い目で見た活動だ。

WFP職員になって初めての勤務先であるスリランカでは、学校給食のモニタリングをした。後列中が野副美緒さん
WFP職員になって初めての勤務先であるスリランカでは、学校給食のモニタリングをした。後列中が野副パーソンズ美緒さん=2004年、本人提供

3年前に赴任したスーダンでは、かんがい施設や農園など公共資本をつくる支援、穀物の収穫後のロスを減らす支援などに取り組んできた。

スーダンでの同僚、サラー・ハリドさん(52)は野副について、「フレンドリーで仲間思い。チームを成功に導くために、誰もが意見を言いやすい空気を作ってくれる」と話す。

飼い猫も荷物もそのまま緊急待避。自問自答の日々

緊急退避をした今年4月は、半年後に次の赴任先に行くことを見据え、さまざまなプロジェクトの集大成をしようとしていたところだった。

飼い猫も荷物も仕事もそのまま残してきた。仲間にあいさつもできないままだった。これまで積み重ねてきたものが一瞬でゼロどころかマイナスになった。今や自分たちのしたことは何も残っていない。一体何をしてきたんだろう。自問自答を繰り返した。

誰の役にも立てない無能さ、成果が出ていないむなしさ。これほどまでに打ちのめされたのは、仕事をしてから初めてだった。

日本に戻った野副さんは、生まれ育った東京ではなく、新潟県の山あいにある妙高市にいた。瑛美さんが通うスーダンの学校が夏休みの3カ月間、日本の小学校で過ごすために見つけた場所だ。昨夏に続き、2回目の滞在だった。

スーダン時代の友人と妙高で再会し,いい時間を過ごした。野副パーソンズ美緒さんと夫のエドワードさん、娘の瑛美さん
スーダン時代の友人と妙高で再会し,いい時間を過ごした。野副パーソンズ美緒さん(写真左)と夫のエドワードさん(後列左)、娘の瑛美さん(前列右から2番目)=2023年7月、本人提供

「プラスのことしか言わない」「いつも人に囲まれている」「見ぶり手ぶりと表情豊かに、倍速で話す」。友人たちが言うように、明るくて人好きな野副さんが、しばらく誰にも会えなかった。いつもはまめに連絡をとるのに、友人からのメッセージに返せなかった。「静かに消化する時間が必要だった」と振り返る。

毎日、娘を学校に送り出し、畑の実りに感謝し、地域の行事に参加する。ひとつひとつの出来事を大切にし、ルーティンのある毎日を過ごす中で、少しずつ心がほぐれていった。

7月下旬、母校・中央大での講演に招かれ、東京に向かった。会場には学生や教員のほか、学生時代をともに過ごした同窓生が北海道や京都、大阪からも駆け付けた。

講演でこれまでを振り返り「必ずしも自分の思い通りにいったわけではない。でもその時々でベストを尽くし、道は開けてきた」と話した。

そして「飢餓の事象一つとっても、問題を大きくとらえると絶望しかない。なるべく細切れにし、どこにコミットするかを考える。エネルギーと情熱を注いだものが自分の人生をつくっていく。常にアップデートしながら、人生を描き続けてください」と締めくくった。

最後は、少しゆっくりとした口調だった。まるで自分にも言い聞かせるように。

9月には、10カ所目の赴任先となるナイジェリアに赴いた。エネルギーに満ちあふれ、事業規模もこれまでで最も大きい。スーダンで果たしきれなかった国の底力を上げていく事業を実現したい。

「世界を変える」。あのとき病室で誓ったことを胸に、走り続ける。