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ウクライナ国立バレエ芸術監督 寺田宜弘さん 36年間ともに歩む 私だから変えられる

Breakthrough 突破する力 更新日: 公開日:
ウクライナ国立バレエ芸術監督の寺田宜弘さん
ウクライナ国立バレエ芸術監督の寺田宜弘さん=2023年8月、東京・上野の東京文化会館 瀬戸秀美撮影、光藍社提供

避難2週間のはずが3カ月に 自宅近くにも着弾

2022年2月24日、ロシア軍によるウクライナへの侵攻が始まり、首都キーウもミサイル攻撃を受けた。前日夜、キーウを発った寺田宜弘さん(47)はポルトガルで一報を聞いた。「戦争はすぐ終わる。2週間もすれば戻れるだろう」。そう考えていた。

しかし、キーウに戻ってこられたのは3カ月後の5月末のことだった。第二の祖国ウクライナのためにいま自分ができることは何か。その後に移った滞在先のドイツのミュンヘンで、戦争で行き場を失った仲間のダンサーやバレエ学校の教え子たちのために、つてをたどってヨーロッパ各地の劇場や学校に彼らを受け入れてもらえるよう奔走した。

ダンサーや教え子とその親たちからひっきりなしに電話がかかってきた。朝6時から深夜2時ごろまで一日中鳴り続けた。

キーウの状況は一変していた。当時、寺田さんが副芸術監督を務めていたウクライナ国立バレエに160人いたダンサーは戦禍を逃れて国外に出て、一時激減した。何とか公演を再開しようと、国に残ったスタッフらによって集められたダンサーの中には見知らぬ顔もあった。

5月に公演が再開されると、市民が劇場に押しかけた。空襲警報が鳴ると公演を中断し、団員も観客もみな地下室に避難しなければならない。地下室の収容人数が400人なので、劇場の席数の4分の1しかチケットを売ることができないが、戦禍の中でも常に完売だ。

ウクライナ国立バレエの公演「ジゼル」の一幕。主演・I.クラフチェンコ、Y.ヴァーニャ
ウクライナ国立バレエの公演「ジゼル」の一幕。主演はI.クラフチェンコ、Y.ヴァーニャ=2023年、キーウのウクラナ国立歌劇場、光藍社提供

バレエ学校時代からの友人や教え子の親らの中には戦地で命を落とした者もいた。昨年10月には自宅から歩いて5分のところに2発着弾した。あれから1年余りがたった今もなお、キーウではロシア軍による攻撃が続く。さらに、物価の高騰に加えてダンサーを含む公務員の給料が3割削減され、苦しい生活が続いていることに変わりはない。

それでもみな踊り続けている。その原動力はどこにあるのか。

寺田さんはいう。「踊っている時だけは戦争を忘れることができる。いつか必ず戦争は終わる。苦しい中でも踊り続けないと、戦争が終わった後に何も残らない。苦しい時だからこそ、ウクライナの芸術を守っていくのが私たちの使命だと思うのです」

11歳で単身ウクライナへ

京都市でバレエ学校を開いていた両親のもとに生まれた。バレエをいつ始めたのか記憶はない。「母親のおなかの中にいたころから踊っていたと思う」と笑う。

キーウと京都市が姉妹都市なことから、キーウ国立バレエ学校と両親が経営する寺田バレエ・アートスクールも姉妹校の関係にあり、長期休暇になると生徒たちがキーウに行き研修を受けた。寺田さんも7歳の時に両親に連れられ、はじめてキーウのバレエ学校を訪れた。その時に受けた衝撃は今も忘れられない。

「男の子だけのクラスがある。僕もここに入りたい」。そう父博保さん(故人)に申し出たのを今も覚えている。京都で当時、周りでバレエを習っている男子は寺田さんだけで、いつも女の子に囲まれてレッスンを受けていた。あまりの違いに驚いた。

1987年、11歳でソ連の国費留学生として単身キーウに渡った。当時はゴルバチョフ共産党書記長による急進的な改革「ペレストロイカ」が進行し、ソ連全体が揺れていた。前年にはキーウから110キロ離れたチェルノブイリ原発で事故が起きていた。混乱の時代だった。

キーウ国立バレエ学校の寮は当初、シャワーの湯が出ず、停電もしょっちゅうだった。もののない時代で、パン、バター、肉などは配給制。寺田は配給で手に入れた貴重な砂糖を父母に送るようなやさしい少年だった。

キーウ国立バレエ学校で学んでいたころのの寺田宜弘さん
キーウ国立バレエ学校で学んでいたころのの寺田宜弘さん=撮影時不明、光藍社提供

当初は言葉もわからず、鉛筆を盗まれたりするなどいじめにも遭った。でも、つらいと思ったことは一度もなかったという。踊ることが楽しく、放課後先輩に交じって自主練習に励んだ。次第に頭角をあらわし、2年生になると成績はトップになり、稽古場ではセンターで踊れるまでになった。同じ年、あこがれの国立劇場で初舞台もふんだ。

キーウ国立バレエ学校で学んでいたころのの寺田宜弘さん
キーウ国立バレエ学校で学んでいたころのの寺田宜弘さん=撮影時不明、光藍社提供

寺田さんが最初にキーウを訪れた時に研修生として一緒に学んだ、日本画家の福井江太郎さん(54)は20年後に再会した時に驚いたという。「細くて体の小さなやんちゃ坊主が、何百人ものダンサーをてきぱきと指揮していた。つらいこともたくさんあったんだろうけど、前向きでものおじしない性格でどんな状況でも表現し続ける意志の強さを感じた」と話す。

共演したこともあるダンサーで寺田バレエ・アートスクール講師の石川直実さん(40)は「長身のウクライナのダンサーに比べると小柄だが、舞台に立つと大きく見える。気持ちのこもったあたたかい踊りが印象的だった」と話す。

キーウ国立バレエ学校は300人ほどが学ぶ8年制のプロの養成学校だが、卒業してウクライナ国立バレエに入れるのは数人しかいない。寺田は19歳で卒業するとすぐに入団し、世界中で公演するソリストとして活躍した。

いまが好機、進化するバレエ団

20代半ばのころ、旧ソ連バレエ界のスターで、故郷のウクライナ・ドネツクの劇場の芸術監督を務める、ワジム・ピサレフ氏の一言がその後の人生を変えた。「ただ踊っているだけではだめだ。世界を視野に入れていかないと先が見えなくなる」。ピサレフ自身、炭鉱で栄えたドネツクに世界中からダンサーを呼び、バレエフェスティバルを開いていた。

ウクライナのバレエ界から世界で通用するダンサーを育てることが新たな目標になった。2012年に母校のキーウ国立バレエ学校の芸術監督に就任。ロシアによるクリミア半島併合があった翌年の2015年、世界中から若手ダンサーが集うキーウグランプリ国際フェスティバルコンクールを創設した。

そして、戦争のさなかの昨年12月、ウクライナ国立バレエの芸術監督になった。演目から配役、演出家や振付師などを決め、バレエ団の活動方針を示す責任者だ。就任にあたり、文化省の幹部や劇場の総裁からは「新しい時代をつくってほしい」と言われた。

戦争という不幸な出来事で、くしくもバレエ団に世界中の視線が注がれることになった。著名な演出家や振付師からの参加の申し出が相次ぎ、世界中のファンや団体からの資金援助が寄せられた。

「日本人ながらも36年間ウクライナで暮らしてきた私だからこそできることがある。いまがバレエ団が大きく飛躍できるチャンス。大好きなウクライナのために力を尽くす時だ」

昨年の来日公演時の寺田宜弘さん(中央)とウクライナ国立バレエ
2022年の来日公演時の寺田宜弘さん(中央)とウクライナ国立バレエ=2022年12月、瀬戸秀美撮影、光藍社提供

戦争が始まってから、ウクライナ国立バレエでは人気の演目、「白鳥の湖」「くるみ割り人形」「眠れる森の美女」といったロシアの作曲家チャイコフスキーの作品は扱っていない。そのような今だからこそ、とかく保守的といわれてきたウクライナ国立バレエが変われる時だと考えている。新作への挑戦など、寺田さんの構想はふくらむ一方だ。すでにいくつかのプロジェクトがいま、水面下で進んでいる。